気配だけでは物足りない
ルイスの体臭はかなり薄い。
いっそ無臭と言って良いほど透明で、移ろいやすく染まりやすい本人の気質を如実に表しているようだ。
孤児だった頃には埃っぽさの混じる布の匂いだったそれは、アルバートに拾われてからは日々の入浴により清潔感あるシャボンの香りに変化した。
けれどそれは触れ合うほどに近付いてようやく把握出来る程度のものでしかない。
存在感の薄い、けれど確かにそこに在るルイスを感じ取ることが出来るのは一握りの人間だけだ。
端的に言えば、それを感じられるのはルイスが心を許した二人の兄のみである。
ウィリアムは昔も今もルイスを抱きしめて感じる弟らしい匂いを気に入っていた。
アルバートは距離を縮めるにつれてようやく気付いたルイスが持つ匂いを好ましく思っていた。
「ルイス、おはよう」
「おはようございます、兄さん」
嗅覚が人に与える影響は大きいようで、慣れ親しんだ匂いがすぐそばにあると気持ちが落ち着くらしい。
昔はそんなことを実感する余裕などなかったけれど、こうして伯爵家次男や大学教授という側面を抱え世界が広くなったことで、香りが与える影響の強さをひしひしと感じてしまう。
いつもそばにいた弟がいない空間を過ごすのは酷く退屈で、持ち前の適応力ゆえに問題なくやり過ごせるとはいえ、どうしても小さな小さなストレスが確実に降り積もっていく。
だからこうしてそばにいるときは思い切り抱きしめてルイスを堪能したいとばかりに、ウィリアムは徹夜明けの体を引きずって朝食の用意をする弟を抱きしめていた。
届く香りはシャボンだけでなく、ウィリアムが選んだルイスのためだけの香水の香りが混ざっている。
むせ返るほどに甘い香りはまるで花のようにも感じられればスイーツのようにも感じられた。
清潔感あるルイス自身の匂いと混ざれば、それはとても極上の香りに変化していく。
過去ではなく今を生きているルイスを感じられるこの香りこそ、ウィリアムにとって他の何よりも気を落ち着けられる存在だった。
「兄さん、また徹夜したでしょう」
「少しは休んだよ」
「少しでは駄目だといつも言っているでしょう、もう」
手を止めてウィリアムの腕を受け入れるルイスの眉は中央に寄っている。
綺麗に釣り上がっている瞳は大きくて、ウィリアムから見れば怒っていてもあまり迫力があるようには思えなかった。
けれど態度だけでも反省を見せなければ気を悪くしてしまうだろうと苦笑したように謝れば、ルイスからは諦めたように大きなため息が聞こえてくる。
この兄が何を言っても聞いてくれないことを、ルイスはよくよく理解していた。
ルイスが自慢に思う彼はいつだって気高い理想のためにその身を削ってはたくさんの知識を蓄えている。
多くの人を救うために貪欲な兄はルイスの誇りであり、結局ルイスはそんな彼がすきなのだ。
無理をして体を壊してしまうのは困るけれど、そうでないなら理想に向かって足掻く美しい姿を見ていたいというのは紛れもないルイスの本音だった。
見れば顔色はそれほど悪くないし、疲れは溜まっているだろうがそれはこれから癒していけば良いだろう。
ルイスは腕を伸ばしてその肩に触れ、凝り固まった筋をほぐすように指を動かした。
「んん」
「疲れが溜まっていますよ。今日の講義は午後からでしょう?朝食を食べたら少し休んでください。家を出る前には起こしますから」
「うーん…でも読んでしまいたい資料があるんだけど」
「…兄さんなら資料の一つや二つ、すぐ読み終わりますよね?読んだら寝ましょうか」
「はいはい、分かったよ」
「はいは一回ですよ、兄さん」
「はい」
ツンと釣り上がる目尻はとても綺麗で、けれどここが頃合いだろうとウィリアムはその提案を承諾した。
まるで自分こそが弟になったような気分だ。
ルイス本人にそんなつもりはないのだろうけど、生粋の弟であるはずの彼は時折こうして兄のように振る舞うことがある。
きっといつも見ている二人の兄から自然と学び取っている影響に違いない。
無意識に真似ているような微笑ましいその姿に思わず愛おしさが増していくけれど、まずは自分の身を案じる気持ちは素直に受け取っておくべきだ。
ウィリアムはもう一度ルイスの体を抱きしめ、感じるシャボンの香りに混ざる彼専用の香水を堪能していた。
「それでは兄さん、おやすみなさい」
「おやすみ、ルイス」
ルイスが作った朝食を食べ、彼の前でファイルにまとめた資料を読んでしまえば間髪入れることなく寝室へと引っ張られる。
眠ろうと思えば眠れるほどに疲れてはいるけれど、だからといってまだ限界は遠いから寝なくとも講義を終えることは出来るだろう。
けれどそれを言ったところでルイスは納得してくれるはずもなく、毛布をめくって「さぁ早く横になってください」と真っ直ぐな瞳を向けるルイスにウィリアムは優しい笑みを見せた。
枕に頭を乗せて上を見れば安心したように顔を綻ばせる弟が自分を見下ろしている。
「良い夢が見られますように」
大人びた容貌に見合わない幼い笑みで祈りの言葉を口にするルイスから、ウィリアムは優しくあどけないキスを受ける。
前髪を掻き分けて感じた唇の温もりはウィリアムの気持ちを確かに癒してくれた。
「ありがとう、ルイス」
「起こしに来るのでゆっくりお休みくださいね」
腕を引いて礼をするようにその指先へとキスを落とせば、慣れているだろうに照れたような表情で微笑んでくれた。
このまま一緒に眠ってしまえば良いのにと思わなくもないけれど、ルイスにはルイスの予定があるのだから子どもじみたわがままを言うわけにもいかない。
せめてその温もりとその匂いを感じるべくルイスの手を頬に押し当て、ウィリアムはにっこりと綺麗な笑みを見せて瞳を閉じた。
こうしなければルイスはいつまで経ってもこの部屋にとどまり、仕事どころではないだろう。
ちゃんと眠るよ、約束する、と声に出さず態度で示してあげて、ようやくルイスはこの場を離れてくれるのだ。
まるで聞き分けのない子どものようだと、ウィリアムは苦笑しながら部屋を出ていくルイスの気配を探っていた。
「んー…」
扉が閉まる音を聞いてからふいに体を横に向ける。
少しだけ背を丸めて毛布で顔を隠し、適度な弾力のある枕に顔を埋めて隙間から息をした。
「……」
そうして感じたのは何よりも安心出来る、ウィリアムが最も愛おしく思っているルイスの匂いだった。
「…この枕、ルイスの匂いがする」
枕だけではない、感じるシーツと毛布からもルイス特有のシャボンと花の香りがする。
自分が使用しているベッドからルイスの匂いが鮮烈に残っているということは、昨夜のルイスはこのベッドで眠っていたのだろう。
別に珍しいことではないし、ルイスの部屋に置いてあるベッドなどある意味で飾りでしかない。
ウィリアムが早くに寝るときはルイスを抱いて眠っているし、少し休憩を取るときに己のベッドを見ればルイスが一人丸まって眠っている。
ルイスが自分の部屋で眠るときなど、一人になりたいときかウィリアムと顔を合わせづらい理由があるときくらいしかないのだ。
だから今この瞬間、一人で眠ろうとしているウィリアムがルイスの匂いに包まれて眠るというのも何ら予想外ではない。
頭ではそれを理解しているのに、今のウィリアムにはどうにも違和感が拭えなかった。
「……ルイス」
さほど疲れていないはずなのに、こうして全身の力を抜いて深く息を吸った瞬間に思い知らされるのはルイスという存在だった。
肉体の疲労はこうして横になっていれば休まるのだろうが、精神の疲労は届く愛しい匂いだけでは解消されそうにない。
実態のないルイスを感じながら眠ることの、なんと虚しい現実だろうか。
手の届かないところにいるのならまだしも、今のルイスはすぐ近くで執務に精を出しているというのに、彼本人を感じることが出来ないだなんて。
「……よし」
ウィリアムは枕を腕に抱いて閉じていた瞳をおもむろに開け、勢いよく体を起き上がらせて周りを見渡す。
元々ウィリアムは睡眠など求めていなかったし、ルイスが勧めるから大人しくベッドに入っていただけだ。
そうだというのに、ベッドにいればいるほど愛しい弟が恋しくなる。
眠るどころではない時間を無駄に過ごしたところで得るものは何もないだろう。
ウィリアムは早々に見切りをつけてベッドを抜け出しては、ルイスがいるだろう場所をいくつか思い浮かべながら屋敷を歩き回ることにした。
「ルイス、ここにいたんだね」
「兄さん。どうしてここに?」
休んでくださいと言いましたよね。
そんな声が聞こえてくるようなムッとした表情を目に収め、ウィリアムは届いたリネンをたたみ直していたルイスの体を抱きしめた。
洗い立てのリネンに負けないくらい清潔感あるシャボンの香りと、甘い甘い花の香り。
枕に染み付いたそれではない、彼本人から感じる香りが一番ウィリアムの心を癒してくれる。
いや、心だけでなく体も十分に癒してくれるのだ。
「ねぇルイス」
「何ですか、兄さん」
「一緒に寝よう。一人では上手く眠れないんだ」
「は…」
いつも一人で寝ているでしょうに、という疑問を浮かべたルイスの表情を受け止めながら、惚けたようなその顔に唇を落とす。
確かにいつも一人で寝ているし、何ならいつも一人で寝落ちている。
そこがベッドであろうがソファであろうが床であろうが限界を感じれば眠ってしまうのがウィリアムだけれど、生憎と今は限界など程遠い状態なのだ。
一人眠るには寂しいし、ましてルイスの匂いに包まれて一人眠るなどつまらないことこの上ない。
「ルイスと一緒じゃないと眠りたくないんだ」
「…兄さんがそういうのであれば」
訝しげな表情を隠さず、けれど頼られ甘えられて嬉しいのか頬は赤らんでいる。
ルイスは途中だったリネンをそのままに、ウィリアムに手を引かれて部屋を出た。
繋がれた手は温かくていつもと変わりないウィリアムの体温だ。
普段はルイスの方こそ一人で眠ることに慣れておらず、夜な夜なウィリアムのベッドに潜り込んで眠っているというのにおかしな話である。
だがウィリアムに求められているというのはルイスにとって何より嬉しいことだった。
彼が必要としているのなら何でもしてあげたいし、この命だって差し出せる。
それほど愛しい人がただ眠るためだけにルイスを必要としてくれているというのは、まるで彼にとっての自分が一等大切なのだと言われているようで気分が良かった。
「ごめんね、仕事の途中だったのに」
「いえ大丈夫です。急ぎの仕事は特にないので」
「そう。ありがとう」
ウィリアム以上に優先することなどルイスにはない。
偽りなく本心を伝えれば自尊心を満たされたようにウィリアムが笑みを深め、先ほどまで横になっていたベッドにルイスとともに潜り込んだ。
先ほどまでルイスの仕事を邪魔しないように考えていたはずなのに、今の自分はやはり子どものようだった。
擽ったいような心地のままもぞもぞと居心地の良い場所を探り、しっかりした骨格の割には細身の体を抱きしめ思い切り呼吸する。
届く香りには間違いなく実態があって、腕の中でしっかりした存在感を見せていた。
「ルイス」
「何ですか?」
「ようやく眠れそうだよ。おやすみ」
「おやすみなさい、兄さん」
額にかかる前髪を払い、はにかんで笑うルイスの鼻先にもう一度キスをして瞳を閉じる。
感じる温もりと甘い香りがウィリアムを癒しながら真っ直ぐに眠りの淵へと誘っていく。
背をぽんぽんと撫でられる仕草が可愛らしくて抱きしめる腕に力がこもった。
ルイスはウィリアムの気配があれば安心して眠れるのだろうが、ウィリアムはルイスの気配だけでは物足りない。
おそらくはルイスよりもウィリアムの方がよほど貪欲で、深くルイスを求めてやまない本能があるのだろう。
子どもとは思えないほど欲深いウィリアムの本能に、ルイスはきっと気付いていない。
気付かせるつもりもないし、今もただ珍しく甘えている兄が新鮮で可愛いとだけ考えているはずだ。
それで良いと、ウィリアムは薄目を開けてルイスの様子を覗き見る。
素直な弟は真面目に一緒に寝てくれようとしているらしく、瞳を閉じて静かに息をしては微睡んでいた。
何とも可愛らしいことだと、ウィリアムは僅かな疲れを取り切るためにルイスに縋り付いては意識を落としていった。
(兄さん、今日も夜更かしするおつもりですか?)
(どうだろう。キリの良いところまで終えたら休もうと思っているけど)
(お体に障らないよう注意してくださいね。少しでもベッドで横になっていてください)
(分かっているよ、ルイス。君はどこで寝るんだい?)
(…自分の部屋で眠るつもりですが)
(そう。遠慮せずに僕の部屋においで。僕は気にしないよ)
(……はい)