1月7日は「激動の時代を生きた」昭和天皇祭
1月7日は、昭和天皇が崩御された日です。皇居はじめ全国各地の神社において、昭和天皇祭が斎行されています。崩御なされる前年から体調を崩され、全国各地では快癒を祈って、記帳所が設けられ、多くの国民が記帳に訪れていました。昭和64(1989)年1月7日、午前4時過ぎに容態が急変し、午前6時33分に崩御なされました。87歳でした。
●松下幸之助氏も逝去
パナソニックやPHP、松下政経塾等を創設した松下幸之助氏は、昭和天皇が崩御なされて、3か月後の4月27日に94歳で亡くなります。昭和天皇崩御の報を聞いて、これで自分の役割は終わったといって、気力が一気に衰えたという話を後で関係者から聞きました。松下翁以外でも、同様の話をいくつか聞きました。同年代の方々にとって、昭和天皇の存在は大変大きいものであることを痛感したものでした。明治天皇崩御に際しては、乃木希典大将は静子夫人とともに殉死します。昭和天皇崩御に際しても、松下翁には殉死に近い感覚があったのではないかと想像しています。
当時私は27歳で、松下政経塾在塾中で、研修の一環として、岡山県の県北にある久世町役場(現在の真庭市)で地域活性化研修に取り組んでいました。崩御した翌1月8日、大阪駅から研修先の岡山へ中国自動車道の高速バスに乗って向かっていました。久世町に到着すると、竹下登内閣の小渕恵三官房長官(当時)が、「平成」という元号を発表していました。一つの時代が終わり、そして始まったという思いを、岡山の地で抱いたことを今でも鮮明に覚えています。
●昭和天皇とミッキーマウス
昭和天皇が崩御されて、4月29日は「天皇誕生日」から「みどりの日」となりました。当時「昭和記念日」にしようとも議論がなされましたが、野党の反対でつぶされてしまいました。昭和天皇は自然を愛し、海洋生物・植物の分類研究を行っていたので、「みどりの日」でも相応しいのではないかと言われたものでした。しかしながら、昭和天皇の事績を将来に残そうと、4月29日を「昭和の日」に名称変更しようという国民運動が起こります。その結果、平成17年の国会で、祝日法の改正が行われ、昭和天皇誕生日の4月29日を「みどりの日」から「昭和の日」に変わりました。祝日法には「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」とされています。施行は平成19年からです。その年の4月29日に昭和天皇が眠る武蔵野陵(八王子市)で「昭和の日」制定記念式典が行われ、私も実行委員の一人として参加をさせて頂きました。その後、昭和天皇と香淳皇后が眠る武蔵野陵と、大正天皇と貞明皇后が眠る多摩陵に参拝致しました。
また、立川基地の返還後に整備された国立昭和記念公園の中に花みどり文化センターがあり、その一角に「昭和天皇記念館」があります。
公式ホームページはこちら http://www.f-showa.or.jp/2_jigyo/1_kinenkan.html
昭和天皇の事績が、一部屋にコンパクトにまとめられています。その中で印象に残ったのが、ミッキーマウスの腕時計です。昭和50(1975)年10月8日に昭和天皇と香淳皇后が訪米した際に、米国ロスのディズニーランドを訪れ、記念にミッキーマウスの腕時計を贈られたと言います。昭和天皇は大変気に入り、愛用されたと言うのです。実物が展示されていたのですが、確かに革バンドが擦り切れています。
昭和天皇とミッキーマウス。昭和天皇の人柄を彷彿とさせる逸話です。
●身命をかけた昭和天皇
昭和天皇の87年の人生は、戦前戦中戦後と大激動の時代を駆け抜けたものです。
平成26(2014)年に宮内庁が公式記録『昭和天皇実録』を公表しました。日記形式で年代順にまとめられており、61冊にもなります。市販もされています。
http://books.rakuten.co.jp/rb/13118608/
昭和天皇は、明治34(1901)年4月29日午後10時10分に大正天皇の第一皇子としてお生まれになります。日英同盟と大正デモクラシーの申し子であり、英国風憲政を信奉され「君臨すれども統治せず」の立憲君主、責任内閣制を追求します。6か月間の欧州歴訪を終えて、20歳となった大正10(1920)年に摂政となります。直前に原敬元首相が東京駅で刺殺されます。大正12(1922)年9月1日の関東大震災に被災され、命を狙われながら復興に心を傾けられます。実際同年12月27日帝国議会開会式に向かう往路で、難波大助に狙撃されます(虎ノ門事件)。
大正天皇が崩御され、即位された後も、昭和3(1928)年大陸で張作霖爆殺事件が起き、ロンドン軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題、国内の恐慌の中、田中義一内閣が総辞職し、その後を受けた浜口雄幸首相は昭和5年に東京駅で狙撃され、それが原因で死去します。昭和6(1931)年満州事変が起き、昭和天皇は昭和7(1932)年1月8日に、桜田門外で、朝鮮人独立運動家李奉昌から手榴弾を投げつけられます(桜田門事件)。満州国が建国され、同年5月15日は犬養毅首相が首相官邸で襲撃されて命を落とすという5.15事件が起きます。昭和11(1936)年2月26日には、軍隊の一部がク―データを起しました。2.26事件です。昭和12(1937)年には支那事変が起き、昭和天皇の意に反し日米交渉は進まず、昭和16(1931)年の大東亜戦争へとつながります。昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲の際に、皇居も空襲を受け、宮城が炎上します。8月15日の玉音放送が流され、終戦を迎えました。
昭和天皇は、立憲君主、責任内閣制の下、自らの意思を表明したのは、二度しかなかったと言われています。内閣が機能しなかった非常事態である「2.26事件」と「終戦のご聖断」です。
●戦後の原点 「新日本建設に関する詔書」
戦後、9月27日にマッカーサーと会見した昭和天皇は次にようにおっしゃったと言います(『実録』より)。
「この戦争については、自分は極力避けたいと考えてまいりましたが、戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とする所であります」
「私も日本国民も敗戦の事実を充分認識していることは申すまでもありません。今後は平和の基礎の上に新日本を建設するために私としても力を尽くしたいと思います」
「ポツダム宣言を正確に履行したいと考えております」
戦後日本の出発点となったのは、日本国憲法ではなく、昭和21年1月1日に発せられた昭和天皇の新日本建設の詔書ではないかと思います。
昭和天皇は、詔書の冒頭に明治天皇の五箇条の御誓文を掲げています。以下、前文を掲げます。
(出所)国立公文書館 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090419312897791
新日本建設に関する詔書 (昭和21年1月1日)
茲(ここ)ニ新年ヲ迎(むか)フ。
顧(かえり)ミレバ明治天皇 明治ノ初(はじめ)国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下(くだ)シ給(たま)ヘリ。曰(いわ)ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨(えいし)公明正大、又(また)何(いずれ)ヲカ加ヘン。
朕(ちん)ハ茲(ここ)ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。
須(すべか)ラク此(こ)ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ去リ、民意ヲ暢達(ちょうたつ)シ、官民挙(あ)ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以(もっ)テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙(こうむ)リタル戦禍(せんか)、罹災者(りさいしゃ)ノ艱苦(かんく)、産業ノ停頓(ていとん)、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢(すうせい)等(とう)ハ真(しん)ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。
然(しか)リト雖(いえど)モ、我カ国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且(かつ)徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全(まっと)ウセバ、独(ひと)リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫(そ)レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル、今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ効スベキノ秋(とき)ナリ。
惟(おも)フニ長キニ亙(わた)レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動(やや)モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪(ちんりん)セントスルノ傾(かたむ)キアリ。
詭激(きげき)ノ風漸(ようや)ク長ジテ道義ノ念頗(すこぶ)ル衰(おとろ)ヘ、為ニ思想混乱ノ兆(ちょう)アルハ洵(まこと)ニ深憂(しんゆう)ニ堪(た)ヘズ。
然(しか)レドモ朕(ちん)ハ爾等(なんじ)国民ト共ニアリ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(きゅうせき)ヲ分タント欲ス。
朕ト爾等(なんじ)国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。
天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。
同時ニ朕ハ我国民ガ時艱(じかん)ニ蹶起(けっき)シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往(ゆうおう)センコトヲ希念ス。
我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚(あいよ)リ相扶(あいたす)ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興(さっきょう)スルニ於(おい)テハ、能(よ)ク我(われ)至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。
斯(かく)ノ如(ごと)キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以(ゆえん)ナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、倫ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一(いつ)ニシテ、自ラ奮(ふる)ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾(こいねが)フ。
●明治維新の精神を取り戻す
この証書は、「天皇の人間宣言」ということで、喧伝されています。戦前天皇は現人神であったが、戦後は象徴天皇として、出発したというものです。しかし、全文を読んでみれば分かる通り、冒頭の明治天皇の五箇条の御誓文にすべて言いたいことは尽くされていると書いてあります。敗戦の混乱の中で、明治維新の精神に戻って、国民全体一致団結して頑張ろうということを言いたかったわけです。実際戦前天皇は現人神でもなんでもありませんでした。現人神が何度も命を狙われるということはあり得ない話です。
その後、昭和天皇は自ら全国各地を、また外国を精力的に行幸啓します。そして、直接国民に声をかけられ、励まされます。その姿は、被災した多くの国民に勇気を与えました。
困難な時代であればこそ、原点に戻ることで、目標を再確認して、気を取り戻し、頑張ることが重要です。
昭和天皇の崩御の日に当たり、昭和天皇に思いを致し、現在の困難に立ち向かう勇気を頂きたいものです。