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言語芸術

2018.06.20 07:50

https://plaza.rakuten.co.jp/kamizawak/diary/201808150000/ 【「言語芸術」 知覚より知性の作業になります。】より

視覚芸術や聴覚芸術とは別に、身体的知覚にかかわらない芸術があります。それは「言語芸術」です。文芸(文学)がそれです。

「言語芸術」を鑑賞する場合、まずその素材は、目や耳を通して受け止められます。書かれた文字を「目で読む」、あるいは読まれた言葉を「耳で聞く」ということが必要です。しかし、それが視覚芸術や聴覚芸術と異なるのは、受容されたものそれ自体が鑑賞の対象ではなく、その刺激によって鑑賞者の内部に生み出されて行くもの、それが鑑賞の対象、芸術作品として受け止められるものであることです。見えるもの、聞こえるものは直接的な鑑賞の対象ではなく、間接的な存在です。見える「文字」「挿絵」や、聞こえる「音」が、充足した芸術作品として扱われるのではないということが、身体知覚による芸術と全く異なるところです。

これはつまり、「言語芸術」が知覚それ自体に訴える「具体的(即物的)芸術」ではなく、知性に訴えかける「抽象的芸術」であるためでしょう。

言葉の特性は「抽象的」で「普遍的」であることです。数学における数字や数式と共通しています。数字の「1」は一人でも一匹でも、一個でも一回でも、すべて「1」という抽象概念にまとめてしまいます。「1+2=3」は「一人と二人が集まって三人になった」であっても、「一日と二日が経って三日になった」であっても、表し方は同じです。

同様に、たとえば「わたし」(欧米言語では「格」が決まるので「わたし」だけにあたる代名詞はありませんが)という言葉は、言葉を発した主体者を示すのであって、Aさんが言えば「わたし」はAさんですし、Bさんが言えば「わたし」はBさんになります。

言葉自体は、絵や音楽の音のような、確定した具体的なものではないのです。ですから当然に、それを鑑賞の対象にはしない。そのような抽象的な言葉を連ねて作り出されてくる「概念」「思想」が鑑賞の対象になります。これが「言語芸術」と分類されるべきものです。「視覚芸術」や「聴覚芸術」とは根本的に違ったものと言わねばなりません。

例外的なことを考えますと、文芸作品においても、使われる文字を工夫して視覚に訴える、ということができます。文字の配列、字体、大きさ、色などを変化させて、視覚的効果を与えることは容易です。実際、詩の場合は散文と違って、頻繁に改行をしてゆきます。それによってリズムを作ることができます。しかしそれが、その文芸の内容を示すということではありません。文芸の内容は、そうした表面の現われを超えたところで、受容されます。原稿がどのように書かれていても、伝えるべき本質部分はみな、同じ次元で鑑賞されます。

それは、声に出して読まれたものを聞く場合も同じです。読む人がどんな調子で、表情をつけて読んだとしても、鑑賞するのは聞こえてくる表現ではなく、伝えられる「内容」に基づく概念です。誰が、どんな風に読んでも、鑑賞の対象となる「文芸」は同じでなくてはなりません。このことについて気をつけなければならないことがありますが、それは「実演芸術」のところで考えます。

文芸の特性として、「ストーリー」の存在があります。これは「時間芸術」の領域と強く関連します。視覚芸術である美術作品にも、聴覚芸術である音楽作品にも、「ストーリー」の要素が入り込んでくることに気をつけたいです。これはつまり、言語芸術は、視覚芸術や聴覚芸術と衝突しない、むしろコラボすることが多い芸術だということです。

by 神澤和明

https://www.pu-kumamoto.ac.jp/~tosho/file/pdf/kb/15/%8c%b4%8de/%93%ef%94g%81E%8eO%96%d8%81E%8eR%93c%81E%8bg%88%e4%81E%94~%97%d1%90%e6%90%b6_Part81.pdf【言語芸術の三つの時間性とアリストテレス『詩学』】より

梅林 誠爾

はじめに

 人間の時間認識や時間経験については、様々な方向からのアプローチがある。

W. ジェイムズの Principles of Psychology 以来、心理学・生理学による実験科学的研究が重ねられ、哲学の分野では、E. フッサールの現象学的研究、大森荘蔵の認識論的・知覚論的研究、M. ハイデガーの人間存在論からのアプローチ、さらに N. エリアスや真木悠介による人間の時間経験の文明史的研究などがある。

 ここでは、劇詩や小説などの言語芸術(物語文学)との関わりにおいて、人間の時間経験の大まかな構造について考えてみたい。レッシングは、文学や演劇などの言語芸術と絵画などの造形芸術とを「時間的継起は詩人の領分、空間は画家の領分」と言って鋭く区別していた。この裁断がどれほど有効であるかはもちろん検討しなければならないが、文学や演劇などの言語芸術を時間芸術として特徴づけることは、大筋で肯けることである。また、その視点に立てば、文学や演劇の表現や鑑賞を、一種の時間経験、しかも意識的・創造的な時間経

験とみなすことができるであろう。そう考えると、言語芸術の分野には、心理学や哲学における時間経験の幾多の研究に匹敵するほどの量の人間の時間経験とその研究が蓄積されているということになる。言語芸術の表現や鑑賞を人間の創造的な時間経験として捉え、文学理論をそうした時間経験についての研究とみなし、それを参照しながら人間の時間経験の構造を探っていくということは、意味のある課題である。

 小論では、言語芸術の時間という大きなテーマの全体を論じることはできない。ここでは、アリストテレスが『詩学』(ΠΕΡΙ ΠΟΙΗΤΙΚΗΣ , POETICS)の中で、言語芸術の時間について述べた一文を手掛かりとして、それと関連付けながら考察を進めていくことにする(1)。また、この課題についての重要な先行研究として、P. リクールの『時間と物語』がある。本来ならば、小論においても、その基本テーゼ「物語性と時間性の相互性のテーゼ」(日本語版への序文)を踏まえておくべきであろう。『時間と物語』はアリストテレス『詩学』を批判

(1) 『詩学』のギリシャ語テキストとしては ARISTOTLE POETICS, LONGINUS ON THE SUBLIME, DEMETRIUS

ON STYLE, Loeb Classical Library, Second edition, 1995 を用いた。また、今道友信訳「詩学」(岩波書店『アリストテレス全集 17』所収)、英語訳とテキスト分析としては、次の(3)を参照した。


https://kotento.com/2019/09/06/shigakukantan/  【アリストテレスの『詩学』(かんたん版)】より

創作の起源

本書の主題は「詩作」ですが、語義的にそれは芸術的な「創作」に近いものです。

アリストテレスはその創作の基本を物事の「再現(模倣、描写)」と考えます。

人間には生来的に再現を好む傾向があり、それは人々が実際の風景より精巧なミニチュアのジオラマに感動したり、眼前の美人より模倣された美人画に惹かれたりすることに現れています。

それは再現されたものの中に、再現されるものの本質を垣間見るからです。

本質とは、ある事物を成立させる中心的な性質のことです。

再現・模倣とはある種の学び(真似び)の快楽です。

創作物の差異と分類

創作物のジャンルの違いは、「A.どんな対象を、B.どんな媒体で、C.どんな方法で」表現するかによって分類されます。

例えば、悲劇は高等な人間を対象(モチーフ)として、喜劇は低俗な人間を対象として描かれます。

例えば、主に客観的な視点から出来事を俯瞰しながら描く方法(叙述)が「叙事詩」であり、登場人物になりきった役者やキャラの行為(演技)によって描かれるのが「劇(ドラマ)」です。

本書で主題とする、「悲劇」というジャンルは、「A.高等な人間の行為という対象を、B.言葉や音楽や身体動作や舞台美術などの媒体によって、C.叙述ではなく、人間が現実に行動する形(演技)で再現する方法」によって定義付けられ、分類されます。

さらに、悲劇の定義として最も重要なものとして「カタルシス」、悲劇の構成要素として最も重要なものとして「物語(筋)」があります。

以下、それらについて詳細に検討します。

物語(筋)の統一性

自然にしろ機械にしろ、優れたものは全体の中に部分が秩序正しく配置されており、各部分それぞれが大切な機能を有しています。

その部品のどれかひとつなくなったら、全体が崩れてしまうような必然的なつながりの中で、全体と部分は統一されています。

また、その全体は美しさを感じられる適切な大きさでなければならず、小さすぎて不分明であったり大きすぎて把握できないものであったりしてはいけません。

物語(筋)の構成や大きさ(長さ)においてもこれと同様で、もっともらしく必然的な仕方で出来事が存在かつ継起し、運命の変転を描くのに適した長さの制限が必要なのです。

物語とは出来事の必然的継起

歴史記述と物語創作の違いを比較すれば、この必然性(もっともらしさ)というものの重要性が良く分かります。

歴史記述とは本来、個別の出来事を時間に沿って客観的に並べる博物館的陳列であり、別にそれらの出来事の継起の間に必然的な因果関係はなく、各出来事は自立しています。

これに反し、物語の創作というものは、出来事間の必然的なつながりを描くものです。

あの出来事がこの出来事を生み、この出来事が次の出来事を生むという理想的な因果のつながり(もっともらしさ)が物語創作の本質です。

学生の頃に読む歴史の教科書は、読み易く記憶し易いようにするために、ある程度物語風に因果関係を整理された創作物です。

歴史の教科書問題というものが起こるのは、各国の歴史がそれぞれが都合の良いような因果によって編集された創作物語だからです。

カタルシスの要素

物語創作の本質が出来事の必然的継起であるなら、それを巧みに利用した物語(筋)こそが、最も優れたものとなるはずです。

それが必然的な筋を逆転(いわゆる大どんでん返し)する、「カタルシス」という創作技法です。

カタルシスは三つの要素「逆転」「認知」「浄化」によって構成されます(浄化についてはカタルシスの項をご覧下さい)

それは必然的なはずであった物語(筋)が、ある瞬間に逆転し、一気に正反対の方向へ向かうことです。

例えば、自分の大切な兄を殺した敵国の王に対する復讐のために人生をかけた主人公が、見事仇を討ち、その王の仮面を剥いだらお兄ちゃんその人だった、みたいな大「逆転」。

それまでの道のりの細部の筋が、すべて別の意味(必然)の伏線であったことが開示され、とてつもなくショッキングに生ずる「認知」。

もちろんこの逆転を引き起こす出来事そのものにも必然的なもっともらしさが必要であり、とって付けたような不自然なトリックではいけません。

悲劇における苦難

「逆転」と「認知」という形式によって表現される内容は、あわれみと恐れを生じさせる「苦難」でなければなりません(大どんでん返しで、苦しい状況になるから悲劇です)。

では、悲劇における苦難(恐れとあわれみを引き起こす)とは、どういう類のものでしょうか。

もし、善い人が幸から不幸へ転ずるなら、それは怒りや忌わしさの感情を生じさせるだけであり、反対に悪人が幸から不幸に転落しても、自業自得であまり深い感情は生じません。

あわれみは、不幸に価しない人が不幸になる時に生じ、恐れは自分(鑑賞者)に似た者が不幸になる時(自分の身にも降りかかるかもしれない可能性)に生じます。

以上を整理して考えると、悲劇とは「善良すぎず悪人過ぎない中間者が、自業自得的な悪行によるのではなく知らず知らずの些細な過ちや勘違いによって、幸から不幸へ転ずる」ものです。

登場人物

登場するキャラクターは、それぞれの役割においてすぐれたものでならねばならず、悪人は悪人としてすぐれて悪人であり、通りすがり役は通りすがりとしてふさわしく通りすがりでなければなりません。

その役割の種的個性(種差やキャラ属性みたいなもの)を見事に発揮しつつ、やり過ぎて不自然にならない程度の「ふさわしさ(必然性)」が必要です。

現実の人間の本質に似せた再現でなくてはならず(リアリティー)、同時にその役割の性格や言動は首尾一貫したものとして再現しなければなりません(キャラの自己同一性)。

キャラクターも物語(筋)と同様、必然的でもっともらしいものとして存在し、自然なあり方で物語と結合していなければなりません。

よく使われる「デウス・エクス・マーキナー(機械仕掛けの神が出てきて、強引に筋をまとめる)」は、必然的でももっともらしくもないため、どうしてもそれを使うなら、神の予言や信託のような場面を用意し、自然にまとめなければなりません。

これらの再現においては、優れた肖像画のように、様々な性格上の欠陥(特異さ)を持った人物を描写しながらも、同時にそれを立派な人物として描き出さねばなりません(例えば、短気と強情の化身でありながら、それが魅力的で美しいアキレウス)。

制作者の心得

制作者には、他者になりきる感情移入のための想像力や感性が必要です。

時にそれは、我を忘れ他者に憑依するような狂気に近いものともなります。

制作者は劇中の現場に本当にいあわせるかのように思い描くことによって、物事や役割のもっともらしさや必然性を把握すると同時に、誤りや矛盾や不自然さを発見することができます。

そのためには、制作者は、劇中の出来事や行為を、可能な限り自らが現実的な経験において理解しておく必要があります。

悲しみを知る者が最も悲しみを、喜びを知る者が最も喜びを、怒りを知る者が最も怒りを、巧く再現できるからです。