Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

俳諧復興運動と栗田樗堂一派の活躍

2018.06.20 14:17

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8060 【一〇 俳諧復興運動と栗田樗堂一派の活躍】より

 蕉風復帰と加藤暁台

 久しく暗雲に閉ざされていた俳壇の一角からあげられた蕉風復帰の声は、年とともに拡大し、かつ芭蕉を憧憬する傾向はますます盛んとなった。すでに宝暦年間から全国各地にこの運動が起こり、天明時代に入って輝かしい実現を見ることができた。芭蕉に帰れとの叫びは、俳壇を通じての願望であり、復帰運動の推進力ともなった。この運動を起こした主な人々は、与謝蕪村・加藤暁台・大島蓼太・加舎白雄らであった。このうち伊予俳壇に最も影響が大きかったのは加藤暁台(一七三二~九二)である。

 暁台は姓を久村氏ともいい、名を周挙、別に暮雨庵・白一居とも号し、壮年のころから尾張藩に仕えたが、故あって致仕し、俳諧三昧の生活に入った。芭蕉の『冬の日』を読み、その中から正風の精神を体得し、明和五年(一七六八)に門弟子とともに『秋の日』を発表した。彼は芭蕉を追慕するの余り、師の曽遊の地である東北・北陸地方を回った。その後京都に別荘を持ち、ここにも居住した。蕪村一派の人々と交情の深かったのはこの時のことで、三浦樗良らとも往来して、革新運動に挺身した。暁台は名古屋および京都を中心として多数の門弟子を擁し、天明の復興期における一大勢力を樹立した。

 暁台の俳風の特色は優麗であって、雅俗の両語を巧みに駆使し、さらに自由に漢語を使用した点にある。その精神においては芭蕉への復帰であって、また蕪村にも私淑したと言われるように、類似点が少なくない。しかし蕪村の句が荘重にして理智的・写生的であるのに対し、暁台のそれは典雅で印象的で、真実に迫る力が薄く、繊細に陥るのそしりをまぬかれなかった。従って、その才能とその手腕とにおいて、ついに蕪村の上に出ることが出来なかったが、当時の俳壇における勢力はむしろそれ以上で、名古屋の井上士朗、伊予の栗田樗堂らを擁して、俳諧復興の実際的活動に関与し、これを遂行した点において蕪村とともにその功績を忘れることはできない。

 樗堂の出白

 暁台の高弟として令名高く、井上士朗とともに奇才を称揚されたのは、栗田樗堂(一七四九~一八一四)であった。彼の名は単に地方にとどまらず、天明以後の俳壇にあって、全国的に喧伝された。

 樗堂は、寛延三年(一七五〇)松山松前町の酒造業者後藤昌信の三男として生まれた。彼は通称を貞蔵、諱を政範と称し、長じて栗田家に入夫し、同家七代の主となったので、襲名して与三左衛門と改め、のち更に専助と言った。

 樗堂が継承した栗田家は、もと加藤嘉明に仕えたが、のち町人となって松山に居住し、代々酒造業を営み家運大いに開けて地方の豪商として重んじられた。栗田家は屋号を廉屋といい、屋敷は松前町にあった。栗田家の五代目与三左衛門政恒は俳諧に心を寄せ、天山と号して地方の俳壇にその名を知られた。のちの樗堂によって再興された有名な二畳庵を創設したのも彼であった(栗田家譜)。

 栗田家六代目の与三左衛門政賀は、広橋源七郎の三男であって、栗田家に養子として入ったのち、三津の素封家である松田信英の女とらを迎えて妻とした。政賀は明和二年(一七六五)八月に三八歳で病没し、後継者として後藤家から貞蔵すなわち樗堂が入って、七代目となったのである。

 彼の妻となったとらは、のちの閏秀俳人として名を知られた羅蝶であった。羅蝶の生まれた松田家は代々屋号を唐津屋といい、三津の豪商として重んじられていた。羅蝶の父の信英は山口羅山の教えを受けて、俳号を含芽と号した。隠退ののち剃髪して岸雅と改めたが、文人墨客の来遊するものが甚だ多かった。その女であった羅蝶が、このような家庭の中で少女時代を送ったことを看過してはならないであろう。また樗堂も岳父信英を風流の長者と呼んでいるから、年少の彼もその感化と影響を受けたことであろう。樗堂が栗田家の中で青年時代を過ごし、またその配偶者に文学的才能を持った羅蝶を得たことは、彼の生涯を考えるについて重要な意義を有する。

 暁台と樗堂

 樗堂は家業に精励するうち、明和八年一二月、二三歳で松山の大年寄見習となり、はじめて公職に関係した。安永二年(一七七三)三月には、大年寄役になり、寛政三年(一七九一)一二月に退役して大年寄格となるまで、およそ一九年間大年寄役を務めた。この間俳諧の道にも精進している。俳人としての彼の生活がいつごろから始まったかについては明確ではないが、早くから政恒の創建した二畳庵を復興して、ここで俳諧の研究に当たり、また地方の俳人と句作にふけったりしていたようである。彼は始め俳号を畹室・蘭之といい、のちに息蔭・樗堂と改めた。彼が樗堂と改称したのは、三八、九歳のころであろう。『樗堂俳諧集』によると、天明六年(一七八六)の夏に俳友とともに二畳庵で連句を闘わしたのが最も古いものである。翌年彼が上京してその師加藤暁台と両吟し、また彼自身の俳諧旅行記とも称される『爪じるし』を編集している事情からすれば、彼の俳諧に対する径歴は相当古く、天明六年をはるかにさかのぼることができるに相違ない。

 樗堂は天明七年以降、京都に上ってしばしば暁台の教示を受けた。彼が師のもとにあって俳諧の研究に努力した事情、およびその子弟間の交情のこまやかであったことは、『爪じるし』の序文を暁台が執筆していること、また暁台七部集の中にこの俳書が収録されていることからも知れる。この書によると、樗堂が大和めぐりをして京洛の地に逗留した時、暁台およびその門弟子たちも、たびたびその旅舎を訪れて吟詠を重ねている。また『樗堂俳諧集』の中に、暁台・樗堂の両人が京都の宿舎で唱和している作品を多数見いだすことができる。さらに樗堂が寛政二年(一七九〇)および同五年に上京した時も、京都の旅舎で暁台門の俳友だちと唱和し、旧交を暖めた。このように俳諧に精進した結果、樗堂の名声はますます高くなり、ついに井上士朗らの高弟とともに、その奇才を称揚されるに至った。

 寛政元年三月六日、樗堂の妻であり、閏秀俳人であった羅蝶が四四歳で病没した。樗堂は享和元年(一八〇一)六月に、亡妻の遺詠一〇〇句を集めて句集『夢の柱』を編集した。残念ながらこの句集は現存していない。

 小林一茶の来遊

 樗堂は寛政三年大年寄を辞任したが(当時四三歳)、同八年には再任されている。この間において注目すべきは、小林一茶が彼を訪ねて松山へ来たことであった。江戸の二六庵竹阿に学んだ一茶は、寛政六年暮れ先師竹阿の曽遊のあとを慕って四国へ渡った(寛政五年は九州で過ごしている)。その当時松山を中心とした伊予俳壇は、葛飾派(竹阿の系統)の隆盛時代であったから、一茶も多大の希望を懐いて来予したことであろう。この時、彼は竹阿の書いた『其日くさ』を筆写し、これを懐にしていたものと推察される。一茶は讃岐国を経て伊予路に入り、三島・土居・新居浜・今治・波止浜などを経て、風早郡難波村(現北条市)の高橋五井、正岡村の門田兎文の家に宿泊した(寛政日記)。翌七年一月一五日には松山に入り、樗堂の二畳庵を訪ね、心からの歓待を受けた。また唐人町の百済魚文宅にも赴き、終日句を闘わした。彼の松山滞在は、わずかに二〇日ばかりであったが、俳友と句作にふけったほか、竜穏寺の十六日桜をめでたり、道後温泉に入浴して旅情をなぐさめた(寛政日記・樗堂自選句集)。一茶は二月五日に松山を出発し、伊予路から讃岐国を経て、江戸に帰着した。

 一茶が再び伊予に来遊したのは、寛政八年の初秋から、翌九年の春までであった。彼は前回と同様に、樗堂・魚文をはじめ地方の俳人と会合して連句にふけった。おそらく樗堂の二畳庵に宿泊し、ここを中心として活動した(さらば笠・樗堂俳諧集・樗堂句集)と思われる。桜の季節に、一茶は樗堂・門屋麦士らに見送られて伊予路を離れた。

 樗堂の令名が四方に聞こえるに従い、これを敬慕して松山の二畳庵を訪れるものが多くなった。その中で有名な俳人は名古屋の井上士朗(一七四二~一八九一二)であった。士朗は弱年のころから暁台の門に入り、俊才として名を知られた。寛政四年に暁台が没しか後、彼に従う者が甚だ多く、遂に俳壇の巨星と仰がれるに至った。士朗は同九年の秋と、同一二年の春に、海を越えて二畳庵を訪ねた。樗堂が松山地域の俳友たちとともに、彼を迎えて歓待し旧交を暖めたことは、この時作られた歌仙によって明らかであろう。

 庚申庵と御手洗島の二畳庵

 樗堂は同一二年に城下町はずれの味酒郷の地に、簡素な六畳の草屋を作り、これを庚申庵と名付け、この別荘でひたすら俳諧の道に精進した。彼は、二年後の享和二年九月に、病のため大年寄役を辞し、その後は松山を去って安芸国の御手洗島に隠遁の地を求めた。彼はそこで松山時代の名をとって二畳庵と名付けた草庵で生活した。御手洗に移ったのは、羅蝶の没後、安芸国三原藩の宇都宮氏から後妻を迎えた関係からであろう。樗堂はこれからのち盥江老漁と号し、没するまでの一二年間、旅に出るほかはほとんどこの地にあって専ら風月を友とした。御手洗島を中心とした瀬戸内海の風物が、どんなにか彼の詩情をつちかい、その文藻を豊富ならしめたことであろう。この地が内海の要衡に当たり、各地との交通に便利であったこと、彼自身が風光の明媚なのに心をひかれたこと、城下町松山の煩瑣な俗界を離脱して風流に徹するのに好適であったことなどは、彼にとってこの島で生涯を終える要因となったと想定される。

 島内の俳人たちはいうまでもなく、かねて旧交のあった伊予の各地から、あるいは安芸国をはじめとして中国・関西から、遠くは東国から文雅の士が来訪した。文化一一年(一八一四)、六六歳となった樗堂は、余命いくばくもないことを知り、親友の一茶に自分の老境を書き送っているが、この時の書簡は一茶の自筆になる『三韓人』の中に載っている。同年七月樗堂は病床に臥して筆もとれなくなり、八月二一日に多数の門弟たちに惜しまれながら逝去した。その遺骨は、栗田家の菩堤寺である松山萱町の得法寺内の先塋の納骨塔に葬られた。御手洗島の満舟寺境内に樗堂墓と刻した石碑が建てられているが、これは遺骨を分葬したのであろう。

 伊予俳壇への影響

 樗堂はその師暁台を深く敬慕し、またその俳風を遵奉して俳諧復興運動に尽力した。彼自身が芭蕉を研究し、これを憧憬して蕉風の復興を念願したことは、彼の著作によって容易に諒解される。彼の俳風は、この傾向を基盤として展開した。彼の句は典雅であり優麗であって、その中に懐古的なものさえ存在する。従って、革新的というよりは、むしろ穏健であり、平明である。それは、彼が蕪村今暁台に見られるような気韻や活気に幾分欠けていたことによる。

 また樗堂が俳人として活躍したのは、江戸文化の爛熟した文化時代に当たっていたから、俳諧復興の精神が稀薄となった当時の俳壇の傾向に負うところが大であったであろう。すでに松山地域では、天明以前から葛飾派に属する俳人が多かったが、彼はその勢力と対峙し、さらにこれを圧倒して、美濃派の黄金時代を将来させた。樗堂は黒田白年・松田三千雄・武井嘯雲らの俊秀の門弟を擁して活躍を続けた。はるかにのちの明治の革新運動の一つの温床が、育成されていたといっても過言ではないであろう。