WPPマーティン・ソレルCEOの辞任 コングロマリット経営の成り立ちとこれから<前編>
この話題もベムで触れない訳にはいかないだろう。読者の皆さんお待たせしました(笑)。なんとも謎だらけのままWPPのSir Martin Sorrell (73歳)がCEOを辞任するという、筆者個人としては残念なアナウンスが4月14日の週末土曜日に業界を駆け巡った。
このソレル氏の辞任に対する現在までの状況のおさらいと、WPPやOmnicom、等の「コングロマリット」としての意外な成り立ちについて紹介しつつ、今後の広告やマーケティング・コングロマリット行き先に触れてみたい。これらをまとめて語れるのも業界ベムならでは、の特集だ。
■ソレル氏のAmazon級の成長軌跡
ソレル氏は1975年に英国の「Saatchi and Saatchi」社の初のファイナンシャル・ディレクターに就任し、その後独立して「Wire and Plastic Products(WPP)」という買い物かごの企業を1985年に買収することで広告事業の器とした。「買い物かご」だった企業が「企業の買収かご」の企業へと変身を遂げた瞬間である。
それから32年後の現在WPPは総従業員数20万人、世界112カ国にオフィスを持ち、企業価値2.2兆円(200億ドル:150億ポンド)にまで成長した。Revenueの年平均成長率(CAGR)は何と29%である。これはAmazon級の成果で、初年度の売上を1として毎年前年比29%伸ばせば、ソレル氏の在任期間の32年で2,680倍の売上を作ったことになる(図1)。
■謎のままの、ソレル氏辞任の「理由」
報道の通り、辞任の発端はWPPがソレル氏に対して「personal misconduct(個人の不適切行為)」「misuse of assets(WPP資産に対する不適切利用)」「financial impropriety(財務に関する不適切)」に対する内部監査を行った結果とされている。しかもその調査の結果は一切物質的な事象は何も公表もされないまま、ソレル氏自身に対しても「一切悪い行動はナシ」と判定され、調査は終了している。解任ではなく辞任であり、対応方法としては「引退」として、その後のストックオプションや残りの5年分の報酬なども支払いは継続される。ソレル氏のPR会社を通じたコメントは「自分の辞任がWPPにとって、取り得る最高の道」とした。
まずはCEOを辞任に追いやる圧力となりうるのは株主と考えるのが妥当だろう。ところがWPPの大株主の上位は、ほとんどが米国系のファンドと一部の欧州系のファンドで構成されている。これらの株主であるファンドは全て「ソレル氏のファン」で構成されており、「ソレルCEOだからこそ保有していた」銘柄であったはず。よって株主からの単なる不信任によるCEO降ろしというシナリオは考えづらい。
あるいは、日本で起こったセブン&アイの鈴木(前)CEOの辞任や、三越伊勢丹の大西(前)CEOのような経営陣の「内乱」であれば、その反対派が交代のCEOを立てるが、WPPは事実上CEO不在のままだ。現在の取締役議長が暫定CEOに「スライド」し、準備不足な役員2名が共同COOとしてスライド就任している。この状況から鑑みても、CEO継承プランがないままの突然の辞任であり、まるでソレル氏が事故にでも遭遇したような、緊急対応の様相だ。
昨年、日本の電通(前)CEO石井氏が労働環境に対する責任を取って辞任をした際には、現山本CEOという後任がすでに予定されていたことと比べても、今回のWPPの一件は異次元の状態である。現在WPP「外部の」英国系の人材がスカウトの中心として名前が上げられている。
ソレル氏への報酬が2015年には約110億円(1.07億ドル)に達し、それに関係した非難と推測した報道もあるが、ソレル氏は、特にWPPの企業としての財務行動に関しては自分の報酬の取り決めを含め単独(個人)では動けない(監査会社や、弁護士会社、PR会社を経由した行動を取る)はずで、秘密裏に何か不祥事を起こしたとは考えにくい。
それでも「辞任」が、「最高の手段」であるためには、辞任と引き換えに何かがチャラになる、という事だ。憶測にすぎないが、ヒントは暫定CEOが財務発表時に述べた「a matter of privacy(個人のプライバシー)」の表現だ。「ソレル氏にとっての「非常に個人的な事」なので、調査結果の公開を控える」というセリフだ。法的な不正はWPP的にもソレル氏的にもあり得なく、それ以外のイエローカードが存在したという事だろう。この続きに興味のある方は、ニューヨークの榮枝に直接聞いてもらいたい。
いずれにしてもソレル氏は人的ネットワークも資金も潤沢に(!)保有されているので、32年前とは格段に違うエンジェル投資家としてやファンドとして再び活躍することも出来るだろうし、その方が新しいポートフォリオを作る近道と思えば個人的な道は広がるだろう。余談トリビアだがソレル氏は2005年の離婚では当時の英国史上最高額の財産分与を行い(株式売却分約67.5億円:4500万ポンド)、その後ダボス会議主催者のメディア・ディレクターと再婚し、2016年に女の子を授かっている。前妻との3人の息子はすでに40歳代前後で、全て金融業界で指揮をとる人材として自立している。ソレル氏の誕生日はバレンタインデー(2月14日)であり、本人の誇り(欧米では男性が女性に尽くす日)であるのは筆者が個人的に聞いた事がある。
■WPPが失った「ソレル・プレミアム」
むしろ結果的に追い出した側のWPP社は、いわば「ソレル・プレミアム」を失った。この1年ほどで株価はすでに30%ダウンの傾向にあり、辞任発表後の週明けはさらに9%ほどのダウン。ところがその翌週にWPPの第1四半期の発表が予定通り開催され、ソレル氏抜きの初の財務発表会だったのだが、「予想より良かった」事で9%ダウン分を戻している。この復活発表はソレル氏が自身で発表したかった事だろう。
今後のWPPは「ソレル・プレミアム」がなくなった割安感が継続するならば、Omnicom等の投資集団から受ける買収のリスクが高まる。あるいは利益を出している広告会社やPR会社、調査会社が単体で切り売りされる可能性もささやかれている。
日本でも既に電通がWPP系列エージェンシーとの合弁であった「電通ワンダーマン」と「電通ヤング・アンド・ルビカム」の株を買い取って電通自社名に吸収し、完全にWPPとのネジレを精算した報道がされている。英語メディアでは逆の目線で上記の電通とのJVの「アジアの支社」をWPPが買い取った、という報道になっている。
これも余談だが、ADKがベインと組んだ「脱WPP作戦」は「脱ソレル作戦」と言えるが、まさかWPPからソレル卿が居なくなることは想定していなかった作戦だった。ADKの施策に口出しがうるさいソレル氏が居なくなるのであれば、ADKは急いでベインと駆け落ちしてまで「WPPの持つグローバルリーチ」を手放す事も無かったのではないか、という後出しの考えが働く。
■コングロマリットが「所有」し「束ねる」価値は何か、切り売り分解した方が企業価値は高まる?
さらに市場の分析では、WPPの現在の株価を元にしたWPPの企業価値が150億ポンド(2.2兆円)だが、現在傘下の企業や株を売れば、220億ポンド(3.3兆円)になりえるだろう、という予測がある。これはアクティビストを含む、今やコングロマリットは切り刻んだ方が資本効率はあがる、といういつもの理論が登場している。集団よりも分離した方が価値が上がるのならば、コングロマリットの形態の価値に非常に疑問が出てくる。
この流れで具体的にWPPの傘下企業、投資株を売ればどうなるかの噂話が耐えない。WPP傘下の大きい企業での放出例が「調査・データ会社のKantar」、その次に「VICE株」「AppNexus株」等への投資解消の話がある。
Kantarならば、例えばKantar自身がMBOを通じて独立するとか、あるいはデータ競合企業の「Nielsen」が買収するならば、35億ポンド(5,250億円)と見積もられ、WPPの現在の負債量51億ポンド(7,650億円)の 多くを返済できる。
さらに「WPP Digital」は精鋭のテック企業の多くに投資しているがコンテンツ企業の「VICE」やアドテクの「AppNexus」の名前も上がっている。AppNexusはIPO前だが、推定20億ドル、WPPは15%保有しているので、ざっくり300億円強の価値がある。これらのエクイティー投資を合算すると帳簿上は25億ポンド(3,750億円)だが、今の株高で売れば60億ポンド(9,000億円)に相当すると言われている。すでに株式市場はリーマン・ショック直前をはるかに上回る市場価値を形成している。ソレル氏が作った価値を「売るなら今」という理論は十二分に納得できる。
後半は、そんな株式市場の景気(株高の時に売り払う)がコングロマリットの成長と無縁では無かった話を紹介する。何と日本の89年バブルが関係している。