『啓発』って、簡単なようで簡単じゃない。
啓発とは、『人が気づかずにいるところを教え示して、より高い認識・理解に導くこと。』という意味がある。社会活動をしていると、いろんなところで『啓発』という言葉と接するが、『啓発』は、やっぱり【啓発される方】にも【啓発する方】にも、ある種の心構えがいると思う。
【啓発される方】からすると、たしかに『啓発』は胡散臭さを感じることがあるかもしれない。そういったときに、自分を啓発しようとする人に対して危機を察知し、批判的に見ることは決して間違いではない。ただ、文字通り意味を捉えるならば、これまで自分が知らなかったことを知るためのチャンスでもある。たとえそれがあなたにとっての正解ではないにしても、これまでの考え方に新しい種を植えてくれるきっかけになることは少なくない。
一方で【啓発する方】は、確かにこれまで一般的でなかったことを広める、よのなか(社会)における“伝道者”のような役割がある。しかし、そもそもよのなか(社会)に唯一絶対の答えはない。【啓発する方】には、心のどこかに「自分は間違っているかもしれない」という“ビビリ”がいると思う。個人的には、ビビリの心がある人の方が、考え方が深くしっかりしていたり、じっくり話を聞いてみたいと思うことが多い。
時々だけど、どうも「自分の考えが絶対に正しい」ということを前提に、啓発をしようとする人を見かける。けど、ちょっと考えたらそれっておかしいことに気づく。例えば、「投票率を上げる!」と使命感に燃えて啓発をしている人が、「投票率を上げる理由」もなく活動をしていたらどうだろう。そこから共感を得ることは難しいのではないだろうか。
それどころか、【啓発される方】に対して「あいつは頭がおかしい」と言いかねないような人もいる。もし、それが【啓発する方】の本音だとしても、「それを言ってはおしまいだろう」というレベルの話だ。決して口にしたらダメだし、そもそもそう思っている時点で、【啓発される方】の批判的な目線をだますことはできない。【啓発する方】の上から目線は、余計に【啓発される方】との距離を生みかねない。そうなったら本末転倒だ。
『啓発』に関わる人には、批判的な目線(啓発される側)やビビリの心(啓発する側)を持ち、『この考え方は必ずしも正しいとは限らない』という前提を知ることが必要だと思う。また、批判的な目線やビビリの心を持つためにも、小さな頃から、酸いも甘いも噛み分けることが大切である。