『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』①
https://dananet.jp/?cat=62 【『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』】より
『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』
裸子の尻の青あざまてまてまて 小島 健
イクメン!
恋愛している間が一番楽しいのかもしれない。それが頂点に達してプロポーズになったりして、振られたり一緒になったりします。そのときのドキドキ感ったらありませんよね。
求婚の薔薇束抱へ雪国へ 小島 健
というように真っ赤なバラの花束を抱えてゆくほど格好をつけたりしちゃうのです。そしてめでたく結婚に。 二人だけの新婚生活がはじまります。
臨月の妻に随ふ炎暑かな 小島 健
妻が妊娠しても一緒に買い物に行って荷物を持ったりします。主導権はもちろん妻です。いそいそと健さんは付いて行くのです。
やがて出産。赤ちゃんをお風呂に入れるのはパパの役目。首のすわらないうちはおっかなびっくりの手つきもしだいに慣れてきて、オムツの交換もお手の物。
子の尻をていねいに拭き文化の日 小島 健
パパの大きな手で可愛らしいお尻を丁寧に拭くのです。そこに愛情があふれております。ハイハイをし、立って歩くようになるとヤンチャになってきますよね。
一緒にお風呂に入って、湯上りの子どもをバスタオルで拭くのですが、バタバタと廊下を走ってゆく子どものお尻が青いこと。蒙古班ですよね。それもまた可愛い!
それを「まてまてまて」と追いかけていくパパの顔がニッコリしていて楽しそうです。バスタオルに包みこんで子どもをしっかりと抱きしめます。 こんな満ち足りた新婚生活の一つひとつの気づきも俳句になるのです。 この子どもはどのように成長していったのでしようか。
* * *
私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(2)
起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希
「起立!」
学級委員が号令をかけます。クラス全員が立って、「礼!」で一礼。
「着席」で椅子に腰をおろして、授業がはじまります。
その瞬間、開け放されてあります校舎の窓から、青葉風が教室いっぱいに吹きこんできたというのです。そんな学校での一場面を見事に切り取ってみせてくれています。
黒板に落書きがしてあったり、今週の目標とか書かれてあったりしましたよね。
黒板にDo your best ぼたん雪 神野紗希
などとね。具体的なものの発見を俳句に詠むことで、そのときの教室の景色が読者の脳裏に浮かび上がってきます。
この句の場合、黒板に白墨で書かれた「Do your best」です。そして、窓の外には花びらのような大きな雪がふんわりと教室を包むように降っております。
青蔦や第二理科室星の地図 神野紗希
青蔦がからまった雰囲気のある校舎の理科室。試験管やフラスコでの実験やカエルの解剖などをするのです。
その理科室の隅には人体模型が置かれてあったり、壁に星座図が掛れています。銀河系宇宙の星の地図を見て、そのなかの太陽系の第三惑星の地球という小さな星の一つに、「いま」自分がいることを思ったりしているのです。
水澄むや宇宙の底にいる私 神野紗希
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(3)
妻がゐて夜長を言へりさう思ふ 森 澄雄
俳句を読んでゆくとき、上から下へとゆっくりと読んでゆくわけですが、「妻がゐて」と読んだときに妻がいる場所を想像します。たとえばリビングでくつろいでいる場面とかを思い浮かべます。次の「夜長を言へり」で、妻が「夜も長くなって、もうすっかり秋ですね」と言っている映像を自分の頭のなかに組み立ててゆきます。
そして最後の「さう思ふ」で自分も「そうだね」と頷き返しているのです。その夫婦の会話をそのまま俳句にしたのです。妻の言葉に「さう思ふ」とうべなうことによって仲の良い夫婦が「いま」「ここに」いることの幸せを感じさせてくれます。
なれゆゑにこの世よかりし盆の花 森 澄雄
ところが、妻が亡くなってしまって一人になったとき、「妻がいてこそのこの世なのだ」と、お盆の花を供えながらつくづく思っているのです。このように亡くなって初めて「気づく」こともあります。この世に生きてあることだけで十分いとおしいのではないのでしょうか。
はるかまで旅してゐたり昼寝覚 森 澄雄
昼寝をして夢でも見たのでしょう。この「はるかまで」は、近江とかシルクロードとか実際にある遠い場所ではなく、「かの世」ではないでしょうか。時空を超えて向こうの世界を覗いてきて、ポッとこの世に浮かび上がって昼寝から目覚めたという感覚なのでしょう。
腕組んでしづかにをれば小鳥来る 森 澄雄
腕組みをして静かに佇んでいると小鳥たちが渡ってくるよ、というのです。ここに静かな時間と静かな空間があることに気づかされます。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(4)
渡り鳥みるみるわれの小さくなり 上田五千石
渡り鳥がみるみる小さくなって空の彼方へ遠ざかってゆくのを見て、自分が渡り鳥の視点になって自分がみるみる小さくなってゆくように感じられたのです。いわば渡り鳥の方から見ている自分がいるということの衝撃があります。見方を少し変えることによって、「いま」「ここ」にいる「自分」に気づくことができるのかもしれませんね。
作者の上田五千石は、「俳句によって、初めて私は私自身と巡り会うことができたのでした」と言っております。
ゆびさして寒星一つづつ生かす 上田五千石
澄み切った夜空に星が、一つずつはっきりと見えてきたのです。
赤く輝いているのがオリオン座のベテルギウス、その下の白い星がおおいぬ座のシリウス、こっちがこいぬ座のプロキオンと、星を一つひとつ指さしていっているのです。自分という小さな存在が宇宙という大きないのちに生かされていると同時に、自分もまたその星一つずつを生かしている存在なのではないかというのです。そうした宇宙と自己の意識とを通わせることですべてが生き生きと見えてきたのでしょう。
もがり笛風の又三郎やあーい 上田五千石
もがり笛を漢字でかきますと虎落笛です。冬の激しい風が電線などに当たって唸るような音を発する現象です。その激しい風は宮沢賢治の「風の又三郎」が吹かせたものだと想像し、いま、眼前にいない「風の又三郎」に「やあーい!」と呼びかけているのです。メルヘンを感じさせてくれますよね。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(5)
最澄の瞑目つづく冬の畦 宇佐美魚目
比叡山延暦寺の根本中堂に入って、平安時代に最澄が灯した「不滅の法灯」を見ると、最澄の教えは連綿と現在まで続いているのだと実感します。比叡山から下りてきて、作者は、稲を刈り取ったあとそのままにしてある冬田の畦に立って、しばらくもの思いにふけっていると、心の深くから最澄の瞑目している姿が、浮かび上がってきたのではないでしょうか。確かに、絵や彫刻に描かれた最澄像は、手を定印に結び、結跏趺坐して静かに目を瞑っておりますよね。
この心のなかから浮かび上がってきたものを掬い取るという感覚は、自分の知らない自己に気づくことなのかもしれません。平安時代から今も続いている最澄の瞑目と、「いま」ここに佇んでいる作者の瞑想とが重なって見えてきます。
最澄の書に息あはせ息白し 宇佐美魚目
最澄の書には「久隔帖」などがありますが、作者は、最澄の書を手本として臨書しているのでしょう。最澄の文字に現われた緩急や墨つぎによって最澄の呼吸を体験しているのです。そして、最澄の呼吸と自分の呼吸を合わせていっているのです。その息が冬の寒さで白いのです。
雪吊や旅信を書くに水二滴 宇佐美魚目
松など大きな木が雪で折れないように縄を放射状に張ったものが雪吊です。金沢の兼六園が有名ですが、作者も金沢を旅したのでしょうか。旅先で手紙を書こうと思い、水を入れてある陶器の水滴から、硯に水を二滴ほど注いで墨を磨ったのです。この「水二滴」で、ちょっとした短い手紙であることが想像されます。何を書いたのでしょうかね。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(6)
雪たのしわれにたてがみあればなほ 桂 信子
「ほら! 雪」
空から白いものがちらちらと降ってくると、何かワクワクとした感情が湧き起ってくるものです。雪は、まるで天からの贈り物のように感じられます。そこで雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりしますよね。
もし、自分にライオンや馬のように鬣(たてがみ)があったならば、雪が舞い降る雪原のなかを思う存分に走り回りたいというのです。雪はそれくらい楽しいもので、童心にしてくれます。そうした自分の「心の動き」に気づき、こんな楽しい俳句にしてしまう桂信子さんはなんて素敵な女性かと思います。
この作者は、
窓の雪女体にて湯をあふれしむ 桂 信子
という句も作っております。浴室の窓の外には雪が降っています。今、自分は室内にあって暖かいお風呂に入っているのです。たっぷりと湯が張られた浴槽に身体を入れると、お湯は浴槽をどっとあふれてゆくのです。そこに豊かな量感の女性の身体を感じさせてくれます。
忘年や身ほとりのものすべて塵 桂 信子
年末になって自分の身のまわりを眺めると、買ったのに読まなかった本や雑誌、着古した洋服、きれいなお菓子の箱や包装紙、まだ使えるかもしれないと思っている品々、捨てられない物で部屋があふれかえっているのです。それらの物は、「すべて塵」であると断定し、「断捨離」できない自分を客観的に眺めているのです。その「気づき」が俳句になったのです。
そんななんでもない日常の景色に新たな光を当てて、平明な言葉で表現してみせてくれているのです。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(7)
初夢のなかをどんなに走つたやら 飯島晴子
みなさんはどんな初夢を見たのかな。初夢は今年の吉凶を占うとされていますよね。この作者はひたすら走ったという夢を見たのです。何かに追われて走ったのでしょうか。そんな恐怖感があります。夢のなかの無意識の世界で起こったことも俳句になってしまうのです。走り続けたあとにハッとして目が覚めたのです。
豆ごときでは出て行かぬ鬱の鬼 飯島晴子
節分の夜に「福は内、鬼を外」と言って豆を撒きますよね。そんな豆ごときでは、自分の身のなかの鬱という鬼はなかなか出ていかないというのであります。自分の心の有り様を客観的に見つめ、その気づきを俳句にしております。
さつきから夕立の端にゐるらしき 飯島晴子
郊外を歩いていますと、向こうの方では黒雲が立ちザーッと夕立が降っている様子がうかがえます。今、自分が歩いている所では、雨が降ったり、日が差したりしていて、どうも夕立の端にいるようだと気づいたのであります。それをそのまま素直に詠んでおりますが、夕立の「端」という言葉が一句を立たせております。
作者は、「自分の顔や姿も鏡の平面で知るしかない。声も直接自分の耳で聞けないとすれば、自分の心や精神や内面といわれる形のない曖昧なものを自分で知ることなどできそうにない」と言います。そして、「現在の自分の一瞬をとりあえず一句にみることができれば、それで十分なのであろう。」と述べております。
つまり、出来た一句に、自分の現在の姿を見るのであります。それは、今まで知らなかった自分の姿に出会うことなのかもしれません。 すなわち、「気づき」なのであります。
わが闇のいづくに据ゑむ鏡餅 飯島晴子
葛の花来るなと言つたではないか 飯島晴子
俳句は、心の闇を裂いてゆく光なのかもしれないのだ。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(8)
鞦韆しゅうせんは漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋みつはし鷹女たかじょ
鞦韆はブランコのことです。中国では春になると宮廷の女性たちが着飾ってブランコに乗って遊んだそうです。みなさんもブランコを漕いだことがありますよね。ブランコを漕いでいると体が揺れるのと同時に心も揺さぶられてくる感じがしませんか。その心の高ぶりが最高潮に達したとき、愛は奪うものだと気づいたのであります。「漕ぐべし」「奪ふべし」という命令形に強さが出ています。
笹鳴に逢ひたき人のあるにはある 三橋鷹女
春にホーホケキョと鳴く鶯も、冬は「チャッ、チャッ」と舌鼓を打つように地鳴きをします。そんな寒い時期に「まあ、逢いたい人はいるにはいるのだが……」と呟いているのです。そんな心の揺れを見つめて俳句にしております。
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり 三橋鷹女
みなさんも嫌いなものは嫌いですよね。夏痩せをしても嫌いなものは食べたくないですよね。それと同じように嫌いな人は会うのも嫌ですよね。この中七下五の表現にはっきりとした自己主張があります。それがこの句の魅力であります。
みんな夢雪割草が咲いたのね 三橋鷹女
雪割草は、早春に白色や紅紫色の小さな花を咲かせます。眠っていますといろいろなことが夢に現われてきます。夢のなかで逢った人も出来事も、眼が覚めてしまえば「みんな夢だったのね」と気づくことはありますよね。そして、今、目の前には可憐な雪割草が咲いているのです。そんな句ですが、今、この世にこうして生きていることもまた夢のなかのことかもしれないのです。
三橋鷹女は、「一句を書くことは、一片の鱗の剥脱である。四十代に入つて初めてこの事を識つた」と書いております。そして続けて言います。 「一片の鱗の剥脱は、生きてゐることの証だと思ふ」とね。だから、「『生きて 書け──』と心を励ます」と言うのです。
生きてあることの、鷹女のいのちの気づきが俳句のなかに込められているのではないでしょうか。
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 三橋鷹女
老いながら椿となつて踊りけり 三橋鷹女
鷹女は、自分の心のなかの風景を見て、それを俳句にしていっています。一句詠むことで、一つの心が剥がれ落ちていっているのかもしれませんね。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。