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Okinawa 沖縄 #2 Day 123 (13/08/21) 旧玉城村 (14) Nakandakari Hamlet 仲村渠集落

2021.08.14 13:49

旧玉城村 仲村渠集落 (なかんだかり)


今日はいつもとは違うルートで向かう。津嘉山から、本部、照屋、喜屋武、大里、大城を通り、大城ダムの坂を登り、琉球ゴルフ倶楽部の北側外周の喜良原、親慶原を突っ切り、次回訪問予定の垣花から坂を下り、仲村渠に入る。



旧玉城村 仲村渠集落 (なかんだかり)

仲村渠は沖縄発祥の地ととされている。その集落の始まりはアマミキヨが定住した明東 (ミントン) と考えられており、その他アマス屋、ナガマシ屋という旧家も存在している。琉球祖先宝鑑によると、「長男天孫氏は中山王の始組なり。在せし地は玉城間切仲村渠村三重殿と言う家なり」とある。この地から琉球各地に天孫氏の子孫が移り繁栄したとされ、その多くの子孫達は東御廻い (アガリマーイ) で毎年このミントンを拝んでいるそうだ。はっきりとした文献は無いにしろ、昔からの伝承や、沖縄各地の住民がこのミントンをルーツとして訪れ拝んでいることからも仲村渠部落が琉球発祥の地に大きく関わっていると思われる。

データがある明治時代の人口は約400人であったが、それ以降人口はどんどん減っており、ここ40年は230人程で停滞している。世帯数も明治時代に比べても10%程しか増えていない。仲村渠地区のほぼ半分は北にある琉球ゴルフクラブになっており、集落は丘陵の斜面の谷間にあり、集落が拡張する余地はほとんどない。かつてここには米軍のCGSという秘密部隊の基地があり、1976年に沖縄の返還とともに閉鎖され跡地に琉球ゴルフクラブが建設された。この場所が占領下でなかったなら、仲村渠の歩みも随分と変わっていたかもしれない。

仲村渠集落の領域がGoogle Map (下記地図で赤く囲った部分) と南城市ホームページに紹介されているものと異なっている。南城市ホームページでは集落の南東の海岸部分は含まれていない。海岸は仲村渠浜となっているので、南城市ホームページが間違っているようだ。集落の北西部分、仲村渠区の半分は琉球ゴルフ倶楽部になっている。南東部はその半分が傾斜地で、かつては段々畑になっていたようだ。その南は海岸への平坦地で民家はほとんどなく耕作地となっている。これは昔から変わっておらず、住宅地は昔からの集落の付近で拡張はしていない。

玉城村誌に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)


仲村渠集落で拝んでいる拝所は多く、便宜上2班で手分けして御願を行っている。


仲村渠集落訪問ログ



西喜名地 (イリチナヂー) のイートクのアジシー

垣花から県道137号 (佐敷玉城線) を仲村渠集落へ下る途中に琉球ゴルフ倶楽部との境にある林への入り口があった。ここは仲村渠集落の北のはずれにあたる。この中にイートク門中の古墓があったという。ここに、かつて、葬られていたイートク門中の遣骨も、垣花の外当 (フカータイ) 門中の墓に合祀されたといわれているので現在は集落では拝まれていない。林の中は草が刈られている場所もあり、門中の人には今でも拝まれているのだろうか? 

石垣が残っており、その一画に古墓があるのだが、古墓は樹々が覆い、その形ははっきりとは見えない。(写真右下)


上ジョーナカアカマ地のアサギのアジシー

西喜名地 (イリチナヂー) のイートクのアジシーの奥は琉球ゴルフ倶楽部になっており、金網で囲まれている。よく見ると金網の一部が剥がれて中に入る事が出来る。そこから道がある。別の場所の金網も壊れて通れ、そこにも道がある。この古墓はゴルフ場敷地内にあるのだが、ここからアサギ門中の人達が墓まで行き拝んでいるのだ。道の突き当たりにやはり古墓があった。これが上ジョーナカアカマ地のアサギのアジシーだ。この後、集落内を巡った際にこのアサギ門中の屋敷跡に神屋や井戸があった。


西喜名後の殿 (イリチナクシヌトゥン)

西喜名地 (イリチナヂー) のイートクのアジシーから県道137号 (佐敷玉城線) を渡った坂の下には幾つかの拝所がある。石畳が残る坂を下ると、低い石垣で囲まれた民家 屋号 西喜名がある。石垣に沿って道があり、林の中に通じている。

林への入り口は広場になり、そこに西喜名後の殿 (イリチナクシヌトゥン) がある。アミシヌ御願の際に集落でで拝まれている。


知名殿 (チナトゥン)

林の中に入ると石積みが目に入る。ここが知名殿 (チナトゥン) で、地頭が離任する時に、知名殿の火ヌ神を家の人に託したといわれている。隣家の人は屋号を知名 (チナ) と改め、託された火ヌ神を管理するようになった。殿 (トゥン) は石垣に囲まれて、その奥に石の手水があった。琉球国由来記の「知名之殿」に相当すると思われる。「知名之殿」では、垣花ノ口により麦穂祭、稲二祭が司祭された。仲村渠集落にはノロは常駐しておらず、通常は玉城ノロが玉城、百名、仲村渠、奥武、仲栄真を管轄していた。ここはなぜか垣花ノ口によって祭祀が行われていた。


知名後の御嶽 (チナークシヌウタキ、女ヌ御嶽 イナグーヌウタキ)

知名殿 (チナトゥン) の奥に更に道が続く。その道に知名後の御嶽 (チナークシヌウタキ) があり、女ヌ御嶽 (イナグーヌウタキ) とも呼ばれている。神人の名付け所 (任命式典所) で、男子禁だったと伝わる。琉球由来記の喜名之嶽 (神名: ソントンノマイケガ御イベ) に相当するとみられる。

この近くに知名後の御嶽への遙拝所があると「南城市の御嶽」では書かれているのだが、その拝所の写真は知名後の御嶽と同じものが掲載されている。周りをそれらしき物を探すが、道を進むと別の入り口まで来てしまった。道を引き返しながらもう一度探す。これかなと思うものは、あるにはあるのだが、香炉は見当たらず、結局不明のまま。

知名後の御嶽の奥にはウ (フ?) ナチチのアジシーと書かれた石柱の古墓がある。ひょっとして、これが知名後の御嶽で先程の香炉が置かれてある拝所が遥拝所かもしれない。今まで巡った拝所で古墓が御嶽となっているものもあった。女神とされた古墓もあったので、可能性はある。


奥武之殿 (オーヌトゥン)

知名殿 (チナトゥン) の林を抜けると集落北東部になる。ここにに奥武島と仲村渠を管理していた役人が使っていた屋敷の跡と伝わる場所があり、奥武之殿 (オーヌトゥン) と呼ばれる拝所が残っている。祠は木の屋根で覆われていた様で、今はその骨組だけが残っている。祠の前の広場の角にある方形の石を拝み海に向かったそうだ。琉球国由来記の「奥武之殿」に相当する。

祠の奥にも石を積んだ拝所か井戸跡らしきものが残っている。


仲村渠公民館 (仲村渠児童館)

仲村渠集落の中心地にある公民館まで行き。そこに自転車を停めて、残りの文化財を徒歩にてまわることにする。公民館の前は広場になっている。ここはかつての村屋 (ムラヤー) だったのだろうか? 公民館には事務員がいたので、駐輪のことわりを告げる際に、聞いてみたが、他の集落の人で、最近ここに勤めはじめたので分からないいう。どこの集落もほとんど同じだが、あまり人は出歩いておらず、訊ねる人を見つけるのも大変だ。若い人は村の歴史を知っている事は稀で、聞くにはおじいかおばあに限る。おじい、おばあを見つけると、気になっている事を聞いてみるのだが、今日はコロナの影響か、暑いからか、出会う事はなかった。

国道137号線から公民館の広場に入ってくるところに大きな壁画がある。塀には前回訪れた百名の受水走水 (ウキンジュハインジュ) での親田御願 (エーダヌーガン) と約100年程前に首里から伝わった綱曳きが描かれている。親田御願 (エーダヌーガン) は旧暦1月の最初の午の日に行われる田植え儀式だが、戦争で途絶えていた後に、ここ仲村渠の人々が復活させ、米地 (メージ)、受水 (ウキンジュ)、走水 (ハインジュ)、に手を合わせて拝んだ後、親田の田圃に入り稲を植え付け、そして祝毛 (ウュエーモー) に移動して東西南北におじぎをする33拝の四方拝を行い、田植えから稲刈りまでを表現した天親田 (アマエーダ) のクェーナを歌って豊作と無病息災を祈願している。

この壁画は新しく2018年に出来た。ここレポートのはじめに示した人口推移グラフにも現れている様に、仲村渠集落は過疎化が進み、このままでは稲作発祥の地の歴史を継承していくことに不安を感じ、村おこしと地域内の世代間交流を目的として、壁画プロジェクトを起こし完成となったものだ。

集落は小さいが、とても綺麗な印象を受けた。まずは路地まで掃除がされてゴミが落ちていない。民家は気を使っているのだろう。出来る限り昔からの石垣の塀を残す様にしている事だ。稲作発祥だけでなく、沖縄発祥の地を守っていこうとの地域住民の想いが感じられる。これだけでなく、これから巡った集落内にもその想いを感じる場所があった。


根所 (ニードゥクル)

仲村渠児童館 (公民館) の北に根所の拝所がある。ミントングスクからの初めての分家が住んだ屋敷の跡と伝わる。

根所の広場の端、丁度、公民館の上には、集落巡りではいつも見かける酸素ボンベの鐘があった。この鐘はほとんどは公民館前に置かれているのだが、ここの公民館前には無かったので、どこにあるのだろうと思っていたが、ここにあった。集落巡りではいつも気になる文化財の一つで、見つかるとホッとする。


新喜名の西の井泉 (ミ―チナヌイリヌカー)

根所の道向かい民家 屋号 新喜名 (ミ―チナ) の敷地内に根所と一連 (チュグサイ) の井戸といわれている新喜名の西の井泉 (ミ―チナヌイリヌカー) があるそうだが、敷地内という事で、塀の外から探すが、見当たらない。資料には写真右の様な井戸があると載っていた。


神谷之殿 (カミヤヌトゥン)

新喜名の屋敷跡の西側にかつて神谷之殿 (カミヤヌトゥン) があったそうだ。現在は民家の駐車場になっており、祠や香炉はなく、拝まれていない。百名集落を訪れた際にこの神谷之殿についての解説があった。百名は第二尚氏時代には、村は国王の支配下に置かれ、村を支配した代官の殿としてこの神谷里主所之殿を設けたとあった。当時百名村は神谷村と呼ばれており、仲村渠はその百名 (神谷) 村に属していた。百名にはそれまでの殿が三つ残っており、今でも拝まれている。何故、神谷之殿は百名ではなく、離れた仲村渠に造られたのだろう? 百名集落では戦前までは祭祀を行っていたのだが、現在では香炉も無く、拝まれていないのは何故だろう?昔から拝んでいた殿の他に、琉球王府からの押し付けられた殿として愛着が持てなかったからだろうか? 琉球国由来記には「神谷里主所之殿」が記載されており、それに相当するとみられる。ここでは、玉城ノロにより麦穂祭、稲二祭が司祭された。


仲村渠樋川 (ナカンダカリヒージャー)

一度仲村渠公民館に戻り、休憩して水分補給を行う。今日も晴天で暑い。休憩後、今度は公民館の南側を巡る。公民館の下は広場になっており、カービラと呼ばれる石畳の坂道を下ったそこに仲村渠樋川 (ナカンダカリヒージャー) がある。ここに来るのは2度目だ。前回は何も知らずに訪れたが、今回は十分に下調べをしての訪問。仲村渠集落から、海岸に向かって降りる傾斜地を切り開いて建設された沖縄の伝統的な石造形式の集落共同の水場で、地元では古くから産井泉 (ウブガー) とも呼ばれており、初期の造りは、水場に木製の樋をすえた程度のものだったが、 大正元年(1912年) に津堅島の石工により、粟石を港川から船で下田の水堅浜まで運びそれから今の場所にかついで運び、石造りの樋川に造り替えられた。 仲村渠は水の豊かな地域で、仲村渠樋川は仲村渠を代表する湧泉で国の指定文化財にもなっている。1945年の沖縄戦で破壊されたが、2004年に、1913年当時の樋川とその一帯の復元事業が実地され、現在の景観が整えられている。

1950年代に簡易水道が設置されるまでは飲料水、洗濯、野菜新井、水浴びに利用された。昼間は女性たちの井戸端会議、夕方は野良仕事帰りの人々の水浴び、青年たちの力石勝負の場として賑わったそうだ。戦後は米軍が周辺地域に下水を流すようになっため、汚染されて飲料水として使用できなくなったが、現在はおもに農業用水として使用されている。

樋川の山側には野面積みの擁壁を築き、そこは湧水を貯める貯水槽になっており、擁壁沿いには湧き水を導く暗渠を通って、4つの樋から水が流れ落ちている。中央の開放部分の3つの樋があるのが男性用の水浴び場 (イキガガー) で、水場には芋洗い場が設けられている。その前は広い石畳 (カービラ) の広場になっており、そこは暗渠になっており、水を農地に運んでいる。

右の石垣で囲まれた中が女性たちの水浴び場 (イナグガー) がある。小さな洗い場もあり、ここでも樋から勢いよく水が流れ出している。

1916年の大正天皇の御大典 (即位の礼と大嘗祭) の記念事行でイナグガーの東に共同風呂が設置された。その場所には赤瓦葺きの建物が建ち、五右衛門風呂が復元されている。

仲村渠樋川の左上に祠が設けられている。樋川は、1月2日の初ウビーと6月25日のアミシヌ御願で御願されている。

仲村渠樋川の前の石畳 (カービラ) の先は耕作地になっている。そこには貯水槽があり、水溝を勢いよく水が斜面を流れ落ちている。よくみると耕作地の一画に稲が植えられている。とても小さな水田なので、農業としてでは無く、稲発祥の地としてのアイデンティティとしてのものだろう。調べてみると、数年前にこの集落の青年達が、稲作会という組織を作り、かつて盛んだった稲作を復活させようと、受水走水で育てた赤米の苗を譲ってもらい、使っていない畑を地権者から借り受け開墾して水田にしたそうだ。沖縄で経済的に稲作が復活するとは思えないが、この様に沖縄の稲作の歴史を残す活動は有意義な事だろう。


仲村渠農村公園

仲村渠樋川の側に仲村渠農村公園がある。かつては何だったのだろう? サーターヤーかも知れない。

広場の海岸側にはベンチがあり、ここからの眺めは非常に素晴らしい。今日仲村渠樋川を見に来た人達を何人か見かけたが、その人達は必ずここに来て、景色を見ながら休息をとっていた。

丘陵から眼下に見える海岸に無人島のアージ島がありその周りが仲村渠の浜で観光地になっている。アージ島は無人島なのだが個人所有で、研修施設がある。島への入り口はゲートがあり施錠されており、島に入ることはできない。どうも研修施設も使用されている様子はないそうだ。

この展望台の所にも酸素ボンベの鐘が吊るされている。この下の海岸にある畑で働いていた人たちへの連絡の為にここに置かれていたのだろう。


平良原小の井泉 (ヒラバルグヮヌガ-)

農村公園の展望台から北に向かって下る坂がある。この道は樋川さんぽみちと呼ばれ、仲村渠樋川から垣花樋川に通じている。坂道沿いに平良原小の井泉 (ヒラバルグヮヌガ-) がある。ここは久高島の人たちがミントン参拝の際に手足を清めた井泉といわれている。ミントンへは百名路、下田路の2組に分かれて向かうそうだが、この井泉は下田路を通る人々に使用されたといわれる。井泉は今でも使用しているようで、昔ながらの形では無く、コンクリートで固められて、水道の蛇口がつけられて、現代風に改修されている。


平良原小の久高井泉 (ヒラバルグヮヌクダカガ-)

平良原小の井泉 (ヒラバルグヮヌガ-) をほんの少し下った所にも井泉がある。平良原小の久高井泉 (ヒラバルグヮヌクダカガ-) や、仲屋比久ヌ井泉 (ナカヤビクヌガー) とも呼ばれている。この井戸も近くにある平良原小の井泉 (ヒラバルグヮヌガ-) と同様に、久高島の人たちがミントンに参拝する時に手足を清めた井泉といわれている。その際、久高島からの魚等の土産に対して仲村渠は井泉の道向かいにあるターンム (タロイモ) 畑のターンム (タロイモ) 等を久高島の人に持ち婦らせたという。


アサギの神屋

平良原小の井泉 (ヒラバルグヮヌガ-) のある崖の上にはアサギ門中の元屋 (ムートゥヤ―) のアサギの屋敷跡があり、その敷地内にアサギ門中の元屋の神屋がある。二月・五月・六月ウマチーの際に拝まれている。今日はじめに訪れた琉球ゴルフ倶楽部敷地内落にある上ジョーナカアカマ地のアサギのアジシーの古墓への遙拝所にもなっている。


アサギの庭 (ナー) の井泉 (カー)

アサギ門中の元屋の神屋の奥の庭に井泉 (カー) がある。アサギの庭 (ナー) の井泉 (カー) と呼ばれている。


アサギ東ハンタのアジシー

屋号 アサギの屋敷の東側は崖 (ハンタ) になっており、石垣がある。そこにアサギ家の古アジシー墓があるそうだが、どれが古墓なのか石垣なのかは、よくわからない。多分写真右下がアジシー (按司墓) だろう。


仲屋比久 (ナカヤビク) のアサギのアジシー [未訪問]

アサギの神屋の北側、樋川さんぽみちへは傾斜地で深い林になっている。傾斜面にアサギ門中の古墓があるそうなのだが、入口は見つからず断念。かつて、ここにはアサギ門中の遺骨が葬られていたが垣花の外当 (フカータイ) 門中の墓に合紀されたといわれている。


明東城 (ミントングスク)

県道137号線沿いの屋号 長桝 (ナガマシ) の敷地内、標高110mの丘にミントングスクがある。ここは城塞としてのグスクではなく、聖域としてのグスクだ。ミントングスクの由来は、古い記録等がなく詳らかでないが、周辺部からは、石斧や沖縄貝塚時代中期の土器片や貝殻等が採集されている。このことからこの地域にはアマミキヨ以前から人が住んでいたのだろう。

アマミキヨの直系子孫と伝わっている仲村渠を開いた根屋とされるミントゥン家 (知念家) 個人宅にある。前回ここに訪れたのだが、事前に調べると個人宅とあったので、中に入らずに外から見ただけだったが、その後、調べると、ここの地主さんが一般の人や参拝者には開放していると書かれていた。庭を通って、登り口のところにある寄付金入れに、お金を入れてグスクを見学できるとあったので、今回はじっくりと見たい。実際に現地に行くと、寄付金入れは無くなっており、人も住んでいない様だ。今まではトイレやグスク手入れをされていたのだが、今後はどうなるのだろう? 村で管理することになるのだろうか?


ミントン井泉

ミントングスクへの階段下民家の側にミントンの井泉がある。これがグスクの井戸なのか、ここの知念家の井戸なのかは書かれていない。

庭の階段を登った所の左側が、遥拝所になっている。これ以上中は神聖な場所でノロや神人以外は立ち入りが出来なかった。かつては、村人や一般の参拝者はここでアマミキヨの墓である山嶺 (サンティン) を御願していた。

グスクの頂上には平坦な広場があり、周りに大岩がいくつもある。この中に拝所や古墓が点在している。


遥拝所からここで一番大きな岩が見える。これがこのミントングスクの中心の山嶺 (サンティン) で、琉球開闢の女神、アマミキヨ (阿摩美久・アマミク) と、男神のシネリキヨ (志禰礼姑・シネリク) の墓と伝わっている。この岩の中三箇所に葬られているそうだ。それで香炉もその数あるのかも知れない。伝承では、沖縄人の祖神アマミキヨ族が大東島 (ウフガガリジマ) からやって来て、百名の海岸のヤハラヅカサに上陸し、暫く重利口の洞窟 (浜川御嶽) に住み、その後にこのグスクを築き定住したとされる。アマミキヨは琉球神話の神なのだが、神話ではニライカナイからこのミントングスクにアマミキヨとシネリキヨが降臨したとある。これとは別に渡来人としてのアマミキヨ族と考えられている。このアマミキヨ族がどこから来たのかについては様々な推論がある。唐の山東からとか、日本本土からとか色々ある。この地でアマミキヨ (阿摩美久・アマミク) と、男神のシネリキヨ (志禰礼姑・シネリク) は3人の男の子と2人の女の子を授かり、その子どもたちから子孫が繁栄し、沖縄各地に散らばっていったと伝わっている。集落を巡った際に、幾つかの集落でこの地からアマミキヨ族の一部が移住して村立てをしたという所があった。具志堅の世立門 (ゆったちじょー) などはその一つだ。


このアマミキヨ (阿摩美久・アマミク) と、男神のシネリキヨ (志禰礼姑・シネリク) の墓の奥にも古墓がある。百名大主のアジシー (墓) と伝わっている。百名大主はアマミキヨを先祖とする天孫氏の人物。


この他にもグスク内には幾つか拝所がある。広場の一画には儀式の際に供る豚を殺す場所がある。


久高島を拝む東世の御通し (アガリユーヌウトゥーシ)


ニライカナイへの御通し


ミントンの御嶽 (火之神)

ここで二人の男性と出会った。東御廻り (アガリウーマイ) を自動車でしているそうだ。御願というよりは、観光としてまわっている様だ。

この明東城 (ミントングスク) は、国正の「東御廻り (アガリウーマイ)」や聞得大君 (きこえのおおきみ) の就任儀礼 (の帰路) に参拝された。東御廻り (アガリウーマイ) はニライカナイからやってきたアマミキヨにまつわる14の聖地を拝巡するルートで、初代琉球国王となった尚巴志(1372-1439) が始めたといわれている。首里城内にある園比屋武御嶽から始め、与那原町と南城市にある拝所を巡るもの。このうち幾つかは既に訪れ、残りは知念にある拝所で、知念を巡る際に訪れる予定だ。いつかは、通しで、昔と同じように徒歩にて巡ってみたい。約37kmになるので二日必要だろう。

園比屋武御嶽 → ❷ 御殿山 → ❸ 親川 → ➍ 場天御嶽 → ❺ 佐敷グスク → ❻ テダ御川 → ❼ 斎場御嶽 → ❽ 知念城 → ❾ 知念大川 → ➓ 受水・走水 → ⓫ ヤハラズカサ → ⓬ 浜川御嶽 → ⓭ ミントングスク → ⓮ 玉城グス

仲村渠の村落祭紀では、3月あるいは4月の神御清明 (カミウシ―ミ―)、 6月25日のアミシヌ御願で拝んでいる。




明東 (ミントン) の神屋

ミントングスクのある屋号 長桝 (ナガマシ) の住居の二階隣には神屋があり、祭壇には、厨子が置かれ、中央に「阿摩美姑神」の位牌、その左にアマミキヨ (阿摩美久、アマミク、アマミチュ) とその外側にシネリキヨ (志禰礼姑、シネリク、シルミチュ) の香炉、向かって右側には天孫子、その外側にミントンの先祖の香炉が安置されている。祭壇左手の床面には火ヌ神を祀る香炉が置がある。1月2日の初ウビー、2月15日の二月(ニングヮチ) ウマチー、5月15 日の五月(グングヮチ) ウマチーの村落祭紀で拝まれている。

この神屋から、山嶺 (サンティン) への階段とは別の石畳道が奥にも通じている。この行き止まりに古墓があった。大和に行ってきた人の墓と言われている。


トクン下のミントンのアジシー

ミントングスクの南西にある崖にあるミントン家の古墓がある。道路の脇がら崖下に降りると斜面に墓がある。ここには、ミントン家の遺骨が葬られていたが、現在は、垣花の外当 (フカータイ) 門中の墓に合祀されていると伝わる。資料に載っていた写真からは石積みが崩れてしまっている。遺骨は移されてしまったのだが、現在でも集落で拝まれている。


前アカマの拝所 (メーアカマヌウガンジュ)

今度は集落南部の百名集落との境にある拝所を訪れる。屋号 前アカマのそばにある拝所で、番屋とも呼ばれている。村の種火を置いていたといわれる。琉球国由来記の「仲村渠里主所之殿」に相当するとみられる。玉城ノロにより、「麦穂祭」、「稲二祭」が司祭されていた。


前アカマの拝所の井泉 (メーアカマヌウガンジュヌカー)

前アカマの拝所 (メーアカマヌウガンジュ) の道向かいの塀に通用門らしきものがあったが、そこは門ではなく井戸跡になっていた。前アカマの拝所の井泉 (メーアカマヌウガンジュヌカー)、または番屋ヌ井泉と呼ばれ、前アカマヌ拝所とグサイ (鎖、対の意味) の井泉といわれている。


前ガナハ前の久高井泉 (メーガナハメーヌクダカガ-)

前アカマの拝所の近くに、前ガナハ前の久高井泉 (メーガナハメーヌクダカガ-) があると資料にはなっていたが、よく見るとここは先日百名集落を訪れた際に見た井戸跡だった。久高島の人たちが百名路を通り、ミントンを参拝する前に手足を清めた場所という。ここは百名集落では拝まれておらず、仲村渠集落で拝まれている。


これで仲村渠集落の文化財巡りは終了。まだ時間があるので、旧玉城村の最後の訪問地になる垣花集落を訪れることにして、仲村渠に一番近くにある垣花樋川を訪れた。この垣花樋川は、今まで訪問した井泉で、一番気に入っている所。訪問記は、次回の垣花集落訪問記にふうめることにする。



アーヂ島 (2022月2月1日 訪問)

2021年8月13日に仲村渠集落を訪れた際、仲村渠農村公園から見下ろせた無人島のアーヂ島に立ち寄った。このアーヂ島には急な斜面を降りなければならず、前回の訪問では、仲村渠集落巡りで、エネルギーを使いは果たし、ここまで降りてまた昇るという気力が残っていなかった。今回はちょうど、旧知念村の山里集落を巡った際に海岸まで降りたので、海岸線を通ってこの島まで来てみた。知念岬からここまでは海岸線の道が通っている。ここで海岸通りは途切れ、百名ヤブサツの御嶽がある崖で行き止まりとなっている。アーヂ島は無人島で個人所有で立ち入り禁止となっている。観光会社の研修施設と出ていたが、現在は地場のOKINAWA RESORT LABが所有して、「無人島プロジェクト」を打ち出し、ここに観光リゾート施設の開発を計画している。ホームページには、立派な施設の完成予定図が掲載されている。まだ計画段階の様で、この会社ではこの島をそのまま貸出しの事業を行っている。研修や団体のキャンプなど、申し込めば利用でき、インターネットでその利用案内が出ていた。そこにこの島の歴史などが出ていた。「アーヂ島とは、神の島、久高島と本島をつなぐ無人島4島の一つであり、ニライカナイから渡ってきた、女神アマミキヨのアマミキヨ集団がコマカ島、タマタ島、アドギ島、アーヂ島の四島を経由した「ゴッドライン」を渡り、ヤハラヅカサから、沖縄本島に降臨したという伝説が残っており、神秘性のある島です。」とある。OKINAWA RESORT LABはIT企業でアプリ開発、システム開発、ITサービスを行っているのだが、沖縄の地場企業ということから、その収益を沖縄の文化の継承、沖縄への貢献という理念でこの「無人島プロジェクト」を推進している。是非とも成功してもらいたいと思う。[コマカ島へは安座真の待垣泊 (マチザチトゥマイ) から、知念海洋レジャーセンターが船を出している]


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査 I 南部編 (2001 沖縄埋蔵文化財センター)
  • 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)
  • 玉城村誌 (1977 玉城村役場)