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俳句は脳を揺さぶる

2018.06.26 04:54

http://www.valley.ne.jp/~brain/miyako/nou.htm 【俳句は脳を揺さぶる】菊池 都 より

俳句の仲間との出会いは、不思議なものがある。一度も面識がないのにお互いの俳句を詠んでいることで、旧知のように感ずる。それは、雑誌を通して句を見せ合うことで、お互いに現在の時間を共有していることにほかならないからであると思う。だから、雑誌だけを頼りに俳句を作り続けることができるのであろう。その大きな理由は「写生」と「季語」にあるのではないかと思っている。

写生とはつまり、まず景色を見ることである。自分の頭の中で作り上げた景色ではなく、現実に目の前にある世界を自分の目で見ることから写生は始まる。句として表現された俳句には、景色そのものだけではなく、その時の自分の感情、自分の視点、あるいは自分と向き合った景色との関係がそのまま現れる。同じ場所に立っても、時間が違えば句に現れる景色は違う。それは、景色を見る自分自身は一時として同じ時間にとどまることができないからである。

この「写生」はほかならぬ右脳を働かせねばならないと「右脳俳句」を提唱した大脳生理学者がいた。その人は私の研究の師であり、俳句の師でもあった。『雲雀』主宰であった品川良夜(本名・品川嘉也・故人・元日本医科大学教授)である。余談ではあるが、今話題になっている将棋の羽生七冠の脳波を初めて測定し、右脳の活動が普通の人とは違うことを示したのはほかならぬ品川教授である。右脳俳句といっても、右脳派という流派を作ったわけではなく、俳句を作るには私たちの大脳の中でも特に右脳を優先させなければならないという主張を言い表したにすぎない。私達の大脳はご存知のように右半球(右脳)と左半球(左脳)に分かれている。左右の脳の機能分担を簡単に説明すれば、左脳は言語を中心とした論理的な情報処理であり、右脳はイメージ中心の感性的な判断処理を司っている。

私たちが俳句を作るとき、右脳のイメージと左脳の言語情報のやりとりとしてみることができる。景色と向き合っていると、触発されたイメージが右脳から出てくる。それを左脳が言葉に置き換える。いったんイメージに言葉がつけられると、逆にその言葉から関連情報が出てきて、さらにイメージとイメージの結合が行われ、新しいイメージができる。イメージが大きく介在する言葉と言葉の新鮮な結びつきが俳句における創造ではないかと思うのである。だから、新しい俳句とは、いままで他の人が気付かなかったモノとモノとの関係を言語化することになるのである。ただし、私たちの脳は無から有は生み出さない。外界から脳に入ってきた情報をいわば加工しているのである。そのためには、情報の収集は欠かせない。それが俳句における「写生」といえるのではないだろうか。

吟行は全感覚を集中できる

それでは、言語化されていないイメージ情報を収集するにはどうしたらいいか、それには吟行という方法がある。吟行は集中できる移動空間だと私は思っている。漫然と景色と向き合っていても、句が浮かぶはずもない。まず俳句を作ろうと意識せよとは、品川良夜師の言葉である。吟行に行ってもおしゃべりだけで帰ってくる人はいないように、誰でも一句でも作ろうと意識して出かけるのが吟行である。肩肘張らずに自然に「俳句頭」になれる気楽さがある。みんなで俳句を作ろうとしていれば日常の意識から解放され、新しい視線でモノと対峙できる。この気楽さと日常から離れることが、ふだん酷使されている左脳を休ませ、右脳が優位に働き出す環境を作るのである。

俳句は短いだけに、一瞬でも集中できればいい。そのとき、全感覚を動員することである。さらに、イメージ脳である右脳を、言葉や概念の左脳から自由にしてやる。無心に景色を見るとはそういうことである。そうして、初めて感動が生まれる。感動とは、感覚に何か言い表せない刺激がぶつかってくるときに起る。その刺激を受け取る準備がこちら側になければ、感動は生まれない。吟行で先ず俳句を作ろうと意識せよとは、その準備を整えることになるのである。

季語は生きている

また、俳句には季語がある。季語というのは、自然の時間の流れを表す言葉であると考えている。お互いの句を読んで、共感できるという根底には、季語が大いに働いているはずである。季語は単なる季節を指定する言葉ではなく、自然や生活の生き様を表す言葉ではないだろうか。だから、同じ季語でも共通するイメージは年代によって違うこともある。その時代時代に生きている人たちと共に、季語も生きているのである。

私の俳句仲間に、言語障害に陥ったとき、季語から言葉を取り戻せたという人がいた。倒れる直前まで俳句を作っていたというが、ある景色を見たときに、季語が口をついて出た。それから言葉が次々と戻ってきたそうであるが、俳句を長年やっている効用ですと語った。季語が持つイメージが豊富に脳に蓄えられ、景色を見たときに刺激となって脳を、心を揺さぶったのであろう。俳句をやっているとボケないといわれるのは、こんな所にも理由があるのかもしれない。そのためには、積極的に吟行に参加して歩くこと、常に自分の視線でモノを見、感動する心を忘れないことである。

見知らぬ土地で

旅先で見かけた俳句大会にぶらっと参加したことがある。いわゆる流派もまったく違うのであるが、快く仲間に入れてくださった。見知らぬ人たちと俳句を見せ合うことで、その土地の自然や生活の時間まで共有できたことは、俳句のおかげであると思っている。

            日本語という枷のあり雛の部屋    都

                       「俳句四季」 1996年四月号