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東日本大震災・震災俳句を読み直す

2018.06.26 08:14

https://sectpoclit.com/tag/%e6%9d%b1%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%a4%a7%e9%9c%87%e7%81%bd/ 【東日本大震災】より

「震災俳句を読み直す」第1回

あえて「思い出す」ようなものではない

―高野ムツオ『萬の翅』・照井翠『龍宮』・岡田利規「部屋に流れる時間の旅」

加島正浩(名古屋大学大学院博士課程)

「節目」というのは、事態の大幅な変化がみられたときに使用する言葉なのであって、単に月日が経過しただけで「節目」となるわけではない。ここ数年3月が近づくと、「震災」関連のニュースの数が増加し、11日を「節目」にガクッと減少する現象を恒例行事のように目にしている。筆者は「東日本大震災」以後の(広義の)『文学』に関心があるため、この時期の報道/記事も極力確認しようと努めるが、質は悪くない。むしろ丁寧な報道/記事に数多く触れるため、毎年この時期は胃をキリキリ痛ませている。報道する側の中身には問題はないのだ。

問題なのは、この時期に集中的に報道と記事を投下して、あるいはそれを読むことで、何かをした気になっている人間である。全く書かれないよりは、読まないよりは、ましなのか、どうか。質のよい報道/記事が多いだけに、気にかかる。

数年前、3月11日に黙祷をしている姿を収めたプリクラをSNSにアップロードすることが流行っていた、らしい。私はそれへの肯定的な意見も目にすることで知った。少なくとも、その日は震災を〈思い出して〉いるのだから、よいのではないか、と。なるほど、プリクラを取り、かつそれをSNSにあげ、そこから「いいね!」をもらっている瞬間は(すべて総計すれば、1日程度の時間がそこには費やされているだろう)かつて震災があったという事実を〈思い出して〉いるだろう。しかし、それで終わる。

自分が震災で亡くなった死者に思いを馳せているような姿を収めて、「いいね!」をもらおうとする人間の関心は〈私〉にある、亡くなった死者にはない。〈私〉の関心は1ミリもそこから動かない。

「文学」の仕事のひとつは現行の〈私〉の枠組みから動かない人々を、そこから「追放」することであろう。〈私〉が知らない「現実」へと。

では「文学」は、俳句は、どのように〈私〉(たち)を「現実」へと開き得るのか。

高野ムツオは、地震の被害を被り、自宅まで歩いて帰る必要があったこと、自宅のすぐ近くまで津波が押し寄せていたことなどから、震災の「当事者」として捉えられてきた俳人のひとりである。また〈車にも仰臥という死春の月〉などの「名句」を詠んだことから、震災詠を考える際には名前の挙がる俳人でもあり、震災句が収められた『萬の翅』(角川学芸出版、2013年11月)は話題となった。

彼の震災句の特徴は、上句に「春の月」という季語を持ってくる取り合わせのすごさと、津波により多くの車が横転した光景を「仰臥という死」という言葉で言い表す表現力であろう。その表現の力は〈地震の闇百足となりて歩むべし〉にある「百足」という比喩や〈炎天の涙痕として勿来川〉のように涙の痕として勿来川を見立てる修辞性により組み立てられている。

そして彼の修辞性は、死者の声を「聞こう」とする姿勢において、強く力を発揮しているように思える。

  春光の泥ことごとく死者の声

  犇めきて花の声なり死者の声

  逆光にうねり死者呼ぶ蘆の花

  風花は声なり声は聞こえねど

春の日の光を浴びた泥に、犇めく花々に、逆光に曲がりくねる蘆の花に、俳人は死者の声をあるいは死者を呼ぶ声を「聞こうと」している。〈風花は声なり声は聞こえねど〉と俳人自らが詠むように、その声は聞こうとしても聞こえないものなのである。

しかし俳人は「聞こうとする」。それが高野の俳人としての倫理観であると私は疑わない。〈車に「も」仰臥という死〉と、「も」をつけて俳人が詠むとき、ではどういう死が車の外側にあったのか、俳人はそれを見ている(あるいは見ようとしている)。だからこそ「も」という言葉が出てくるのである。

もちろん、聞くこと見ることを試みたからといって、聞くことができるわけでも、見ることができるわけでもない。〈私〉たちは試みるだけでなく、「聞く」ことや「見る」ことが、本当にできるのかというのは、重要なテーマであるが、今回はそちらには立ち入らない。いずれ連載のなかでこの問いに立ち返ることになる。

ここでは、見て、聞くことを試みる高野ムツオに対し、「見てしまい」「聞いてしまう」照井翠を対比させてみたい。彼女が震災三部作の第一部と位置づける『龍宮』(角川学芸出版、2013年7月→『文庫新装版 龍宮』コールサック社、2021年1月)からである。

  喉奥の泥は乾かずランドセル

  骨壺を押せば骨哭く花の夜

  朧夜の首が体を呼んでをり

遺体の喉「奥」に泥が乾かずに付着している様子は、〈私〉(たち)の常識では、見えない。では照井は遺体の様子から喉奥に泥が付着していることを「想像」して詠んだのか。

しかし、夜に骨壺の骨が哭き、首が体を呼んでいると断定する俳人は、死者の声をはっきり「聞いている」のであり、ならば喉奥の泥も「見えていた」のではないか。

だからこそ〈芋殻焚くゆるしてゆるしてゆるしてと〉、〈花吹雪耳を塞いでゐたりけり〉などという句も詠まれてくる。芋殻を焚きながら〈ゆるして〉と何度も乞わなければならないのは、花が散る様のなかにいて耳を塞ぐのは、それは俳人が声を「聞いてしまって」いるからではないか。

岡田利規「部屋に流れる時間の旅」(『新潮』2016年4月号)は、震災の数日後に亡くなった帆香が夫の一樹に〈おぼえてるでしょ?〉〈おぼえてないの?〉と、震災からの数日間のエピソードを問いかけ続け、最後に以下のように述べる。

  帆香 ねえ。いくら目をつむったとしても、わたしのことは見えなくならなくて、あなたには、わたしのことが見えていない振りしかできない。

  だってあなたはわたしのことを目でみているわけではないから。

  だから、そこを閉じたらわたしのことが見えなくなる、そういう場所、そういう部位がどこかにないか、いっしょうけんめい探してる。そうでしょ?

  でもそんなところは、見つからない。

  見つからないし、わたしはわたしからすすんでこの部屋を立ち去ることもしない。だってここは、わたしたちふたりの部屋だから。

なぜ死者の声が「聞こえる」のか。おそらくその答えは照井にも一樹にもないだろう。ふたりは「聞きたかった」わけではない。なぜか死者の声を「聞いてしまって」いるのである。(付け加えるならば、いとうせいこうの『想像ラジオ』で、死者であるDJアークの声を車中で「聞いてしまった」人々も「聞こう」としていたわけではない。)

だから「聞く」ことをやめることもできない。なぜ「聞こえる」のかがわからないから。

死者はこの場から出ていかない。〈私〉(たち)は死者に触れることはできない。

チェルフィッチュ主宰の岡田利規は今年、俳人の池田澄子らとともに読売文学賞を受賞した

高野は死者の声を「聞こう」とした。それは俳人の倫理観だと―そして、それは死者の声が「聞こえた」と詠まなかった点も含めて―先に述べた。

しかし〈私〉(たち)は死者に能動的に働きかけ、その声を「聞く」ことはできない。ただ一方的に〈声〉は流れ込んでくるのである。死者の前で〈私〉(たち)は、受動的であるしかない。

では「文学」は、俳句は、どのように〈私〉(たち)を「現実」へと開き得るのか。

ひとつは「文学」や俳句が、読者の感情に働きかけ、強く読者を揺さぶることであろう。

「文学」や俳句が、ときに読み手の心を動かすことに異論を抱く人はいないだろう。しかし、それで死者の「声」が「聞こえてしまう」=「現実」へと〈私〉たちは開かれうるのか。今の私にそれに対する答えはない。「想像」することや「聞こえた」ふりはできるだろう。しかし、照井が経験したように「聞こえてしまう」ことは、おそらく〈私〉(たち)には起こらない。

(西加奈子の小説『i』において、東京に留まることで震災の「当事者」になれると思った考えが「傲慢」であったと、後に振り返る主人公「アイ」の姿を私は思い起こす)

ただ照井の俳句によって、〈私〉(たち)はそのような「現実」を生きなければならない俳人がいることを知る。

そのような俳人にとって、震災はあえて「思い出す」ようなものではない。

俳人は常に「震災後」を生きているのである。

そして「震災後」を常に生きているということは、11か月、震災を忘却の底に沈めていた罪滅ぼしをするかのように1年に1度「思い出す」行為を共有できず、そこからも締め出されていることを意味する。

新自由主義に搔き立てられ、日々を生きるだけでぼろぼろになっている〈私〉(たち)が、「震災」のことを常に意識するということは、確かに難しい。そのことを責めることはできない。

ただ「震災後」を「生きなければならなくなった人々」は、望んで震災後を生きているわけではないこと、自然と原発「事故」の圧倒的な脅威の前に立ち尽くすことしかできない受動の立場に置かれ、「その後」を生きろと、強制されたのである。照井の〈三・一一神はゐないかとても小さい〉という句は、そのようななかで詠まれている。

人間は忘れていく。それも仕方がない。忘れれば「思い出せ」ばよいのである。

しかし望んでいない「震災後」=「現実」を生きなければならなくなった人々がいることを「忘れて」しまうのだとすれば(私には残念ながらそのような人が多いようにみえる)それは「忘れて」いるのではない。

「忘れたい」と願っていたのではないか。能動的に「忘れよう」と試みている。無自覚に、無意識化で。自分の苦しい日常を生き抜くために。それは「震災後」を生きなければならなかった人々が「忘れたい」と願うこととは、やはり違う。

新自由主義の徹底的な浸透は世界から幸福の再分配の機会を奪ったのかもしれない。自分(たち)が生き残るのに精一杯な状況を作り出したのかもしれない。いや、おそらくそうなのだ。

しかし、「文学」は自分の日常生活を死守しようとしている人に、「余計なお世話」をするのが仕事である。「日常」に裂け目を入れる。〈傷〉をつける。〈創〉作や〈創〉造は、〈傷〉とは切り離せない概念である。(絆〈創〉膏、銃〈創〉などを考えればよい)

だから「文学」は新自由主義の浸透度があがればあがるほど、嫌われる。

嫌われるのが「文学」の仕事である。

そうであるならば、私はこの連載にも同様の態度で向き合いたいと思う。

これまでに詠まれてきた俳句を読み返しその度に、「震災」を自分とは無縁のことと捉え、早く「忘れ去りたい」と願い、自らを「震災後」の外側へと位置づけてきた主体に、それでも語り続けたいと思う。

〈おぼえてるでしょ?〉と。


「震災俳句を読み直す」第2回

その「戦場」には「人」がいる

―角川春樹『白い戦場』・三原由起子『ふるさとは赤』・赤間学『福島』

加島正浩(名古屋大学大学院博士課程)

震災直後に発表された「震災句集」において、最も注目を集めたのは長谷川櫂の『震災句集』であるが、角川春樹の『白い戦場』(文學の森、2011年10月)も言及されることが多かったように思う。ただし、長谷川櫂の句集同様、『白い戦場』も肯定的に読み直すことは難しいように思う。

前回、高野ムツオと照井翠を取り上げ、高野は死者の声を聞こうと試み、照井は死者の声を聞いてしまっていると述べた。

では角川春樹はどうかというと〈遺棄されし海市に骨の笛が鳴る〉などと詠むが、その音をおそらく聞いてはいない。もちろん、遺棄された骨の音を聞いて「鳴ってるねー」と、祭りのお囃子を聞くような態度で完結させられる俳人であるのなら別であるが、さすがにそれはないだろう。というよりもそれで完結させられるなら、やはり「聞いて」はいない。他にも〈たましひの犇めく海の朧かな〉のように「かな」を用いて余韻を響かせるように、死者(の声)を詠むこと(挙げていけばきりがないが〈春暁のしづかな雨や被曝の地〉〈原発忌見えざるものを怖れけり〉〈ぞろぞろと人なき街の仔猫かな〉などにも似たような印象を抱く)や〈いづれみな還りゆくなり春の沖〉と津波の死者を一般的な人間の死のなかに回収していくような詠み方にも違和感がある。俳人に震災を詠まなければならないとするような切実さが感じられないのである。

誤解を生まないよう付言するが、それは震災を経験していない局外者が震災を詠んではならないと主張したいのではない。ただ震災を必ずしも詠む必要はない(俳人のみならず言語芸術に携わる者は、同時代の社会的事件に必ず反応しなければならないということはない)にもかかわらず、震災を「詠む」俳人の動機を知りたいとは思うのだ。

17文字で構成しなければならない俳句という形式が、社会的事件を扱うのに適しているかどうかを議論できるほどの知識は私にはないのであるが、少なくとも「最適」ではないだろうと思う。(それは「文学」も同じであろうと思う)しかしそれにもかかわらず、「詠んでしまう」俳人に私は関心があり、また震災に「反応してしまう」(させられてしまう)局外者の心の動きに、ひとつの可能性があると考えている。本来「無視」してしまえばできなくもない人々が、そこに関わろうと「してしまう」心の動き―つまり主体的な意志ではなく、受動的に「巻き込まれてしまう」こと―に私はひとつの可能性を感じている。(照井は「聞いてしまう」からこそ、詠まざるを/書かざるを得ないのである)

しかし『白い戦場』には、そのような「反応せざるを得ない」俳人の心の動きは感じられない。その点で私は肯定的に読み直せる句集であるとは考えていない。角川は〈地震狂ふ荒地に詩歌立ち上がる〉、〈瓦礫より詩の立ち上がる夕立かな〉と詠んではいるが、彼自身が、「地震」や「瓦礫」から歌を立ち上げているとは思えないのである。

ただそれでも、今回取り上げるのは「白」と「戦場」という、ふたつの「イメージ」が気にかかるからだ。

白い戦場となるフクシマの忌なりけり

鳴りつぱなしの赤い電話やフクシマ忌

なぜ「白」なのか、なぜ「戦場」なのか、そのイメージで福島を詠むことが適切であったのか、ということが気にかかる。

「赤い」電話と「フクシマ忌」を対比させ、〈原爆忌チューブの赤を絞り出す〉と広島の被爆は赤と結びつけ、福島を白と結びつけ、〈フクシマや向日葵すらも日に叛き〉と(向日葵がセシウムを吸収するという話が広がり、一時期向日葵を植える動きが起こったことを踏まえてだとは思うが)上記の句を踏まえて黄色い向日葵が福島に叛く句を読むと、福島から色が消えたような印象を俳人が持っているように思える。

確かに、原発「事故」直後の福島を色彩豊かに彩ることは難しかったであろうと思う。丸木美術館で4月10日まで開催されていた山内若菜「はじまりのはじまり」展に3月20日にうかがったところ、たまたま山内さんが在廊されており、色々お話させていただいたのだが、最初の頃は福島を描く際に色を使えなかった。ただ次第に福島の人々にモノクロの絵を観ていると「事故」のこと、辛いことを思い出すと言われ、色を使えるようになったとおっしゃっていたのが、非常に印象的であった。

(ちなみに3月17日に開催された立命館大学主催のシンポジウム「東日本大震災。百年経ったら―記憶・継承・忘却―」にて、大友良英さんが、震災/原発「事故」直後はメロディ(物語)が書けなかったが、次第にコメディが必要だと思うようになり、それが『あまちゃん』につながっていくというお話をなさっていたのだが、相似形を成す話であると思う)

 『白い戦場』が福島を色鮮やかに詠まない(詠めない)ことは、理解できる。しかし、「白」は「戦場」と結びつくのである。そのため福島が「雪国」だから「白」と詠んだということではないだろう。

(付言すれば、福島第一原発に近い地域の浜通りは太平洋側の気候で、雪はあまり降らない)

おそらく、防護服が「白色」だからだろう。「戦場」は見えない放射性物質との戦いということなのであろう。俳句としては理解できないこともない。ただ仮に福島や福島第一原発に近い相双地区が「戦場」であったとしても、そこには人が生きており、「事故」以後に(強制避難、区域外避難は関係なく)住んでいた場所を追われた人々が生きていたのである。「白い戦場となるフクシマ」と俳人が詠むときには、そこに人の姿が見えない。

歌人の三原由起子は、福島県双葉郡浪江町に生まれ、原発「事故」により実家が強制避難区域となったのち、2013年4月1日に浪江町の区域再編により、実家は避難解除準備区域に振り分けられる。(三原が〈また町が民が心が裂かれゆく区域再編はじまる四月〉、〈昔から二つに意見を分かつ町と言われし町を三つに分ける〉と詠むように、この再編で住民はまたさらに分断された。加えて三原は〈ふるさとにみんなで帰ろう 帰らない人は針千本の中傷〉という歌を詠んでいることも指摘しておきたい。現在でもTwitter上では、「帰らない」人、区域外避難を行った人への誹謗中傷は絶えない。)

三原の『ふるさとは赤』(本阿弥書店、2013年5月)は、彼女の16歳から33歳までの歌を集めた第一歌集である。彼女の歌は、自分の生活やそこで経験される感情を詠んだものが中心であり、浪江で生き、上京し、結婚し、実家が「事故」で住めなくなり、様々に思い悩まなければならなくなる人の姿が歌集からはみえる。

「事故」以前の三原にとっての浪江=故郷は〈ギターケースを開けば故郷の香りして心は過去に駆けてゆくなり〉、〈いちめんに広がる青田に守られて過ごしたこころのまま生きている〉と浪江を離れていても、確かな存在感を有して自らのなかに留まっているものとして捉えられていることがわかる。〈保守の強き地盤の上で生きている友の言葉に若さを探す〉、〈反対の意見はたちまち悪口に変換される伝言ゲーム〉などと保守的な空気を有する地域での生きづらさも詠われながらも〈福島と東京の間で揺れている心は青春地点で鈍る〉と詠まれるように、確かに福島、浪江は彼女を作り上げた「故郷」として存在しているのである。

そして震災後、歌人は〈われのこころひとつひとつを育みしふるさとのために生きていきたし〉と原発「事故」後の生きる指針を定め、〈いま声を上げねばならん ふるさとを失うわれの生きがいとして〉、〈ふるさとを失いつつあるわれが今歌わなければ誰が歌うのか〉と歌人としての悲壮な覚悟を固める。では原発「事故」後、歌人にふるさとはどのように捉えられたのか。

iPad片手に震度を探る人の肩越しに見るふるさとは 赤

阿武隈の山並み、青田が灰色に霞む妄想 爆発ののち

海沿いの広すぎる空広すぎる灰色の土地 それでも故郷

空がただ明るい真昼 真夜中が永遠に続くようなふるさと

やりなおしできない世界を覚悟して警戒区域はいつも真夜中

満開の桜、青空変わらずにある変わりしは人のさまざま

浪江町の本震の震度は6強であった。東京にいた歌人はまず、強い揺れを示す赤色でふるさとを見ることになる。原発「事故」が発生したのちは、その赤色も消え「灰色」と詠われ、「真夜中」と色が消えた世界として警戒区域内にあるふるさとが示される。

ただしそれはそこに生きる人が否応なく直面させられた変化なのであって、「事故」以後もふるさとは美しいことが、満開の桜や青空を通して示される。〈うつくしまふくしま唱えて震災の前に戻れる呪文があれば〉とも詠われるように「事故」によって福島は変わってしまい、「うつくしま」という言葉が持つ意味も変わり、三原の歌ではその言葉は悲しく響く。

しかしそれでも、福島は美しくありつづける。

そして次第に色彩をともなって福島は詠まれはじめる。

東日本太平洋側の施設や津波用の河川水門などを建設する土木技術者で、震災によって長年自分が手がけてきた建物が一瞬で崩壊し、大きな喪失感に襲われたと述べる赤間学の句集『福島』(朔出版、2018年11月)では色彩が見え始める。〈死者は彩鮮やかに盆の落雁〉、〈福島をじつと見てゐる万年青の実〉、〈冬すみれ被曝検査を受けにけり〉などがそれである。今もなお帰還困難区域の指定が続く福島県浪江町津島地区のことなどを考えたときに、色彩をともなって詠むことが適切なのか、まだ私には判断がつかない。山内若菜さんがおっしゃっていたように、色のない世界に耐えつづけることが人間にはできないようにも思える。山内さんの《牧場 放》(2020年)は色彩豊かではあるが、被曝し亡くなった動物の姿が描かれ、私は非常に悲しい絵だと感じた。白黒以外の色を用いて描くことがすなわち間違いであるという単線的な理解は全く成り立たない。個展は大変に素晴らしかった。

ただそのことをあわせても、赤間学『福島』には気にかかる句がある。

〈町捨つる人もありけり赤い雪〉である。

まず事実として「町を捨てた」人など一人もいない。三原の歌に戻れば、彼女は「ふるさとを失う」と詠んでいた。強制避難区域からの避難であろうが、その区域の外側からの避難であろうが、原発「事故」がなければ、「避難」は存在しなかったのであるから、誰一人として町を「捨てた」人などいない。三原が適切に詠むように町を「失った」のである。

そしてそのうえで、〈赤い雪〉は何を示すのか。私にはわからない。金子兜太に〈雪の海底紅花積り蟹となるや〉という名句があるそうだが(この句ではおそらくないと思うが)何か先行する名句を踏まえてのことなのか。そうであるなら、俳句の教養が一切ない私の問題であるのかもしれないが、なぜ〈赤〉なのか。

「白い戦場」から「赤い雪」へと転換しても、なお私が思うのは、〈町を捨つる〉と詠むこの句から、三原の歌のような人の思いが読めないというその1点である。「戦場」であろうと「雪」が積もろうと、そこには様々な思いを抱えて、人々が住んでいた/る町なのである。人々には多様な思いがある。もちろん衝突もある。三原は〈脱原発デモに行ったと「ミクシィ」に書けば誰かを傷つけたようだ〉、〈原発の話はタブーと注意する先輩はまだムラに生きおり〉とも詠んでおり、そこに住む/住んでいた人々の思いを歌/句に織り込むのは、非常に神経をつかう作業であり、難しいことも事実だ。しかしそこに住む/住んでいた切り落とされ福島が詠まれるのは、そこに住んでいた/る人々を切り捨てることに等しいように思う。多様な人の思いを「単色」で詠むことはできないのかもしれない。

【付言】現在「復興」の合言葉のようにも使われている「うつくしま」であるが、そもそもこの言葉を作り出したのは、福島県知事を「辞職させられた」佐藤栄佐久である。安孫子亘監督のドキュメンタリー映画「『知事抹殺』の真実」によれば、佐藤は東京電力に安全対策をするよう強く求め続け、安全が確保されるまでは原発を再稼働しないとして福島第一・第二原発の全機を停止させたためか、第一次安倍政権時に捏造された可能性が極めて高い収賄事件で辞職を余儀なくされた。佐藤の作った言葉が「復興」の合言葉に使用されているのは、大変に「皮肉」なことと思う。


「震災俳句を読み直す」第3回

おぼろげながら浮かんできたんです。セシウムという単語が

―三田完『俳魁』・五十嵐進『雪を耕す』・永瀬十悟『三日月湖』

加島正浩(名古屋大学大学院博士課程)

三田完『俳魁』(角川書店、2014年2月)という小説がある。

定期的な原稿料を俳句の連載コラムで得る程度のさほど有名ではない小説家である玄という男を中心人物に小説は展開する。小説内で俳壇の重鎮とされている窪島鴻海という人物が、なぜかうだつの上がらない作家である玄に関心を寄せている。鳴海は石巻市の出身で、俳人としては広島の原爆詠で名を上げた人物である。

ある時、玄は俳人であった母の遺品を整理しているときに鳴海と母が師弟関係にあったことに気が付く。そして鳴海の句とされている俳句の原型が母の句にあることに気がつき、俳人であった自らの母が鳴海と師弟を越えた「特別な」関係にあったのではないかと玄は疑問を抱く。そのようななか、鳴海が震災後の故郷石巻を詠むことになり、その同伴者に鳴海は玄を指名し、ふたりは石巻に赴くことになる。

『俳魁』は、「色」気が多く、結社が色恋の人間関係の網目でがんじがらめになっており、句会が愛人に会う口実に用いられるテクストの表現に苛立つ方もいらっしゃるかもしれないが(パワハラ・セクハラの温床になりやすい師弟関係を含む場であるからこそ)その点は一度わきに置く。

ここで問題にしたいのは、窪島鳴海という俳人が詠んだ俳句を東日本大震災後に読むというテクストの仕掛け、また原爆詠で世に出た俳人の出身地が石巻であるという設定である。

彼が詠んだ句は以下のようなもので、それを東日本大震災後に読む玄は以下のような感慨を抱いている。

一閃の朝・蝉黙す街となる

饐ゆる飯すらなし女性徒ら死屍またぐ

黒き雨刺す広島の朱夏

原爆を受けた直後の広島、すべてが巨大な火の塊に灼きつくされた街を詠んだ鳴海の句に、どうしてもここ数日のニュースで眼にする風景を重ねてしまう。家々が根こそぎ津波に吞み込まれた三陸の港町、あるいは水素爆発であばら骨をさらす原子力発電所の建物を。

『俳魁』、45頁

原爆を詠んだ俳句に東日本大震災および原発「事故」以後の風景を重ねてしまうのは、それが「正しい」行為であるかどうか(さらにその「正しさ」を「問う」ことができるかどうかも)別として、震災後に俳句を触れる人間の態度として理解できるものではある。ただ鳴海が原爆を詠んでいたという設定は、原爆を詠んだ句に東日本大震災を重ねて読んでしまう以上には生かされず、震災後の故郷石巻に詠む際に原爆詠で世に出た俳人という来歴が小説内で生かされてはいない。

俳句の読み手が、原爆を詠んだ句に震災後の風景を重ねて読んでしまう様子を描き、原爆詠と石巻の出身という設定を施したのであれば、原爆と津波で被災した石巻とを俳人は繋ぎ得るのかどうかは問うて欲しかったように思う。

そしてこれは小説を離れるが、原爆(過去の災厄)を詠んだ句に、東日本大震災(現在の災厄)を読んでしまうことは、同時代にも多く行われていたように思うが、東日本大震災から原爆へと至る回路はどの程度あったのか、またそれはどのように可能なのかを今後は考えていく必要があるかもしれない。それは私の課題としても今後取り組むつもりである。

ただ、いまは、原爆を詠んだ句に東日本大震災以後の風景を読んでしまう話題に戻る。大きな災厄(人災)が起こった際に、過去の災厄(人災)を参照点にすることは、過去に学ぶという意味でも大きな意義がある。今回東日本大震災と原爆がつなげられる、その理由としてまず想定されるのは「放射性物質」の問題であろう。

玄自身も「留年の痛みマイクロシーベルト」(49頁)、「放射線に匂ひはあらず風薫る」「ベクレルと知つたかぶりを焼穴子」(87頁)、「風薫る甚振られたる国土とて」(89頁)などと震災後の「日常」には、これまでと変わらない日常を過ごしていても、そこには見えない放射性物質が付帯していることを示している。

それは現実の俳人にも、たとえば神野紗希が「暁・鴉・睡魔・マイクロシーベルト」(『俳句』2011年5月号)と、おそらく阪神淡路大震災時に友岡子郷が詠んだ句「倒・裂・破・崩・礫の街寒雀」を踏まえて詠んでいる試みがある。「放射性物質」のために、日常に変化が無いように思えても、確実に震災後「日常」は変化したのである。

そして福島県においては、その変化を鋭敏に捉えた俳人がいる。

五十嵐進がその人である。五十嵐の『雪を耕す』(影書房、2014年12月)には、五十嵐の俳句のみならず俳句論や、震災後の福島で生活することを綴った随筆などが収められている。彼は以下のような俳句を詠んでいる。

  あゝ以後は放射能と生きていくのかあやめ

  月光の無音γ線の波頭音

  弥勒よ水立ち上がる草をセシウム

  セシウムの産道くぐる野辺の目よ

  キノコよ柿よ腐って還れ不許出荷

  αβγか奴めこの身に棲みつくか

  汚染藁焼く日本の夜と霧

もちろん五十嵐にはまだ多くの句があり、挙げたものはその一部であるが、震災後の福島で生きる人間は「放射性物質」の飛散を意識して生きていかなければならないことが明瞭に示される。「あゝ以後は放射能と生きていくのかあやめ」はまさにその思いを率直に吐露した句であり、ここで述べられる「以後」は、自らが生きているあいだは放射性物質との「付き合い」が終わらないことを見据えているかのようにも捉えられる。

放射性物質と「付き合う」ということは、「汚染」や「被曝」と付き合うということでもあるが、以下のような現実にも向き合わされるということでもある。

すでに報道済みなのでご存じであろうが、出た、出てしまった。二本松市の米から食の暫定基準値500ベクレル/kgと同数値のセシウムが検出された。(中略)その検出の報道は、新聞によっては「福島県産米から検出」という見出しだったので私などはなんと心ない報道かとなさけなくなった。とうとう、あるいは、ついに、という思いと同時に、そう思った。日本で3番目に広い面積をもち、気候も異なる三つの地域をもつ福島県である。県産米とひとくくりにできるはずがないのに、との思いからである。自分のペン先によって福島県産の米がどのような扱いになってしまうのかという配慮がまったく働かないのだ。ペン先の倫理というものがあろうではないか。

『雪を耕す』、28-29頁

北海道、岩手県に次ぐ面積をもつ福島県をひとくくりに語ることはできず、福島が「汚染」されているという安易になされた報道に傷つけられた方は多い。それに反発するように歌を詠んでいる歌人に齋藤芳生がおり、彼女の主張や歌も看過されるべきものではない。

しかし一方で、放射性物質は飛散する。いわゆる放射線量が高い「ホットスポット」が、原発「事故」以後福島県ならず多くの地域に点在していることや、空間線量のみならず、内部被曝や土壌汚染の問題、放射線は浴びないに越したことはなく、この値以下であれば絶対に安全だと言い切れる「しきい値」も存在しない。そのためそれぞれの場所で生活を営んでいる人が、自身の置かれた様々な状況から、個人的に居住/避難の選択を選ばざるを得なかったのが原発「事故」以後の現実でもある。

(上記の問題に関しては、中村征樹編『ポスト3・11の科学と政治』(ナカニシヤ出版、2013年1月)尾内隆之、調麻佐志編『科学者に委ねてはいけないこと―科学から『生』をとりもどす』(岩波書店、2013年9月)、佐藤嘉幸・田口卓臣『脱原発の哲学』(人文書院、2016年2月)などを参照のこと)

そのため、特定の地域のみが原発「事故」の影響を強く被り、高い放射線量を計測し続けていると語ることにも、それ以外の地域では放射性物質による影響がないかのような印象を与えるため、それだけでは不十分であるはずである。それは郡山市から避難した森松明希子さん(https://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-21793-2.jsp)や、仙台から宮崎へと避難した歌人の大口玲子、東京から京都へと避難した詩人の中村純、沖縄へと避難した俵万智や白井明大などの強制避難区域外避難者の存在を無視することになり、三田や神野がマイクロシーベルトを含んだ俳句を詠んだ意味も理解できなくなるだろう。

そのような意味で問題があると考えるのが、永瀬十悟の震災詠である。

ここでは『三日月湖』(コールサック社、2018年9月)の「第一章・第二章」を中心に考えてみる。第一章では帰還困難区域に指定されてしまった地域を、第二章では放射線量が高い地域の様子を詠んでいる。

  廃屋となりたる牛舎燕来る

  村はいま虹の輪の中誰も居ず

  原発事故それからの日々夕かなかな

  一山の除染袋に雪降り積む

  村ひとつひもろぎとなり黙の春

  しづかだねだれもゐないね蝌蚪の国

  朽ちてゆくばかりの家や梅真白

  しろつめくさ廃炉への道渋滞す

  除染土に咲くあれこれや明日葉も

  さへづりの真ん中にある線量計

  避難区域の柵越しに見るさくらかな

  汚染土も土なり蝉の羽化はじまる

  炎天のマウンドに積む除染袋

  夏草やスコアボードはあの日のまま

  滴りの行き着く先の汚染水

  保育所に靴がそのまま秋桜

  陽炎や日本に永久の仮置場

廃屋となった牛舎や、帰還困難区域となった村に誰もいない様子、そのため家が朽ちていく様子や「あの日」のまま放置されてしまったスコアボードなどが詠まれ、汚染土や汚染水、廃炉がなかなか進まない様子、フレコンバッグや線量計が設置され、原発「事故」以後変わってしまった地域の様子にも触れられ、帰還困難区域や居住困難区域などの現状が詠まれているといえる。また「陽炎や日本に永久の仮置場」の句は、最終処分先が決まらない除染土や使用済み核燃料の様態を的確に詠んでおり、個人的には名句であるように思う。

しかし、気になる点もある。たとえば「村ひとつひもろぎとなり黙の春」「しづかだねだれもゐないね蝌蚪の国」に注目してみるが、村はひもろぎとなったわけでもなく蝌蚪の国となったわけでもない。「事故」によって沈黙させられ神籬のように、おたまじゃくしの国のようにさせられたのであり、村が「あの日」から沈黙させられてしまった根本の原因に永瀬は触れることを避けているようにみえる。「原発事故それからの日々夕かなかな」も原発「事故」以後に過酷な生活を送らされた/つづけている人々のことを思うとき、のどかなひぐらしの鳴き声に「それからの日々」を回収できるようには思えない。してはならないとも思う。

(余談だが、多くの人が思うように私も、原発は「事故」ではなく、人災であると考えるため、新城郁夫『沖縄に連なる―思想と運動が出会うところ』(岩波書店、2018年10月)で、一貫して原発「事故」と表記されているのを読んで以来、私も原発「事故」と一貫して表記している。俳句で「」を使うことは難しいかもしれないが、原発事故と素直に言葉にしているところにも、私はやや引っ掛かりを覚える。)

そして五十嵐の句と比較して気が付くのは、『三日月湖』は「放射性物質」の名前を出さないのである。もちろん『三日月湖』を読んでいれば、おぼろげながら詠まれた地域にセシウムが漂っていることを読み取れはする。しかしそれが「あの日」をもたらした根本の原因にどこか言及することを避けている印象をもたらしていることも事実であり、より問題であるのは、放射性物質に言及しないことで、放射性物質による汚染の問題が、フレコンバッグや線量計が置かれた、特定の地域の問題であるかのように読めてしまうということである。

放射性物質は飛散するのである。風に乗り、各地にホットスポットを作り出し得るのである。放射性物質による汚染の問題は、特定の地域に限られるものではない。五十嵐は「汚染藁焼く日本の夜と霧」と詠んでいた。原発「事故」の問題は、福島県に限られるものではない。というよりも、福島県に限り、福島県(→浜通り→相双地区→双葉…)の問題として矮小化し、問題を押しつけてはならない。「汚染」の問題が特定の地域の問題であるかのように読める俳句は、問題を矮小化する態度を醸成することにつながりかねないのではないか。

窪島鳴海は「黒き雨刺す広島の朱夏」と詠んでおり、黒い雨が刺したのは確かに広島である。長崎でもある。ただ放射性物質の飛散は福島に留まらないのである。その点を踏まえると、原爆詠と原発「事故」詠を単純に結ぶことはできないように思う。原発「事故」を単純に原爆に重ねることはできない。ただし、しなくてよいとも思わない。

75年以上、『文学』や芸術は、あるいは人文学の研究は原爆に向き合ってきた。

その蓄積と東日本大震災、原発「事故」を結ぶことで、双方が見落としてきたことを見いだせたり、新たに深く考えることのできる問題を浮上させたりすることはできるはずである。

東日本大震災、原発「事故」に留まらず、原爆やチェルノブイリや阪神淡路大震災…などと関連づけて考えていくということが、求められている課題のひとつであると私は考える。これについてはまた回を改めて考えたい。


「震災俳句を読み直す」第4回

あなたはどこに立っていますか

―長谷川櫂『震災句集』・朝日新聞歌壇俳壇編『阪神淡路大震災を詠む』

加島正浩(名古屋大学大学院博士課程)

ご存じの方も多いと思うが、2012年に刊行された長谷川櫂の『震災句集』は、刊行当時から現在に至るまで、酷評の嵐に晒された。その点については私も書いたことがある。(ご関心のある方は、拙論「東日本大震災直後、俳句は何を問題にしたか―「当事者性」とパラテクスト、そして御中虫『関揺れる』」『原爆文学研究』19号をご参照いただければ幸いである。なお、今年の12月には原爆文学研究会のホームページからPDFで閲覧できるようになるはずです)

暴力的に長谷川の震災句への批判を整理するならば、「被災地」の外側から、「被災地」を一度も訪れることなく、高みから「被災地」を見物しているような様子で偉そうに嘆いている態度が気に食わない。詠まれている句も、いかにも「他人事」のようだ、というものであったといえるだろう。その批判は的外れなものではない。

たとえば〈燎原の野火かとみれば気仙沼〉という句からは、気仙沼が燃え広がる様子の背後に、震災以前の燃える前の気仙沼の姿や燃えていく気仙沼への思いなどは読み取れず、〈春泥やここに町ありき家ありき〉もただそこに町や家があったことを想起しているのみで、泥にまみれた町や家の記憶や愛着などの感情を読みとることはできない。

また〈原子炉の赤く爛れて行く春ぞ〉、〈大地震春引き裂いてゆきにけり〉、〈原発の煙たなびく五月来る〉などの句には、地震と原発「事故」によりそれまでの生活が失われてしまった人々の姿はなく、地震と原発「事故」により、変容してしまった春の姿が詠まれているにすぎない。確かにこのような句は「被災地」を「高み」から見物しているような「呑気さ」が感じられ、震災後/原発「事故」以後を必死に生きざるをえなくなってしまった人々とは別の位相に生きているかのようであり、震災を詠んだ句として評価できるものでは確かにない。

しかしこのような「高み」から「被災地」を眺めるような句が、長谷川以前になかったというわけでは、どうやらなさそうである。朝日新聞歌壇俳壇編『阪神淡路大震災を詠む』(1995年4月、朝日新聞社、定価680円ですが、私は古本屋で3200円で買いました)は、阪神淡路大震災発災から間もない期間に、朝日新聞に投稿された短歌・俳句を数人の選者が十数句ずつ選び、編集した書籍であるが、「被災地」の外側から詠まれた俳句も多く取られていることがひとつの特徴である。ちなみに選者は、金子兜太、飴山實、川崎展宏、稲畑汀子の4名である。そのなかで最も気になるのは金子兜太選の句である。

大震災傍観者の性が哀し    甲府市

映像に炎ゆる神戸を見る寒夜  石巻市

汲み合へる崩壊都市の寒の水  大分市

何の咎なるや凍地に圧死され  福岡市

眠られぬ神戸突き刺す寒昴   東京都

先端の技術も無為の冬の地震  東京都

被災者をうちのめしゐる冬の雨 和歌山県

もちろん飴山選の句にも〈墓飛んで骨壺見えし寒地震〉(川崎市)というだからなんだよと言いたくなる、まさに「傍観者」による句というようなものもあれば、川崎選の句に〈寒空や地震の国の住み処〉(市川市)という詠み手が「被災地」や「被災者」に関心を持っていない句も存在する。稲畑選の〈地震ありし廃墟の中に春立ちぬ〉(奈良市)も、あなたが「廃墟」と呼ぶその場所には人々の生活があったのですよ、と言いたくなる「傍観者」の感がある。

ただ金子選以外の「被災地」外の人々による句は、飴山選の〈雪降り来「男」とのみの柩あり〉(神奈川県)、〈「妻です」と掌に白き骨風寒し〉(春日部市)、稲畑選の〈震災の瓦礫は墓標雪が降る〉(福岡市)、〈助け呼ぶ声細りつつ火事迫る〉(京都市)、〈消息の一声聞きに雪を踏み〉(鳥取市)など、実際に「被災地」を訪れた句もあれば、実際に訪れたのか、テレビの映像を観て詠んだ句なのかは判然としないものの、「被災地」や「被災者」の様子を丁寧に詠もうとする句が多いように感じられる。震災の瓦礫が墓標なのは、その下で人が亡くなっているからであり、「被災地」を「廃墟」と詠んだ句ともしかすると印象が変わらないように受け取る方もいるかもしれないが、私は「瓦礫は墓標」と詠むのは、「被災地」や「被災者」に心を寄せていると感じる。

さて、問題にしたいのは金子兜太選の句である。〈映像に炎ゆる神戸を見る寒夜〉、〈先端の技術も無為の冬の地震〉、〈被災者をうちのめしゐる冬の雨〉などが顕著であろうか。実に「他人事」・「傍観者」感のある俳句だと私は考える。「映像で」燃えている神戸を観ている詠み手は当然家にいるのだろう。寒夜とあるが、おそらく暖房器具の電源は入っているだろう。先端の技術も地震には無意味なものだなあと感嘆できる詠み手は「安全」な場所にいる。被災者が冬の雨に打たれていると詠む詠み手は、雨からは守られている。

おそらくこれらの句が東日本大震災発災時に詠まれていたら、長谷川櫂の句と同様、酷評に晒されていただろうと考える。ただしそれを述べることで、阪神淡路大震災発災時の俳人や金子兜太の倫理性の欠如を主張したいわけではない。東日本大震災時に長谷川の句は「他人事」で偉そうだと、俳壇から酷評されたその状況は、東日本大震災発災時に形成された「規範」(空気)であり、少なくとも阪神淡路大震災の発災時には存在しなかった(あるいは希薄であった)可能性が高いということである。つまり震災を詠むにあたり、何が望ましくないとされるかは、発災時の同時代の空気によってその都度形成されるのではないかということである。

金子は『阪神淡路大震災を詠む』の選を終えた後に、「『戦火想望俳句』のときのような政治の圧力がない現在、量の多いことは当然だが、質も予想外に高かった」「『傍観者の性が哀し』と言い切る誠実な心情の作に恵まれていたことが嬉しかった」と述べているが、東日本大震災発災時に『傍観者の性が哀し』と果たして詠めたかどうか。傍観者である自分に嘆息する前に、自分にできることをやれよと、私は感じるし、おそらくはそのような批判の声は私があげなくともあがったのではないかと思う。

ただ阪神淡路大震災時には批評家の笠井潔も「テレビ画面を通してみる被災地と被災民の姿を、娯楽の対象か保身の参考としてしか捉えることのない東京の、そして全国の視聴者は、ようするにわれわれは」「たぶん無関心にやり過ごしてしまうに相違ない」(笠井潔「大量死の行方」『新潮』1995年4月号)と述べており、どうやら堂々と「阪神淡路大震災は、残念ながら東京には関係ない」と言えてしまう空気があったようである。

そうである以上、金子兜太が東日本大震災発災時に〈津波のあとに老女生きてあり死なぬ〉というテレビ俳句をつくるなど、想望俳句に肯定的であった金子兜太の存在感ゆえに、阪神淡路大震災時には「傍観者」である自分を前面に出した句が詠めたというだけではなさそうである。おそらく阪神淡路大震災が起こった1995年という時代と、東日本大震災が起こった2011年という時代の違い。そして震災の質の違い。原発「事故」。などが俳句における震災詠にも影響していることは、疑いようがない。

そして、それをどう考えるかが問題である。「自由に」詠めた阪神淡路大震災の頃がよかったと考えるのか、「傍観者」としての態度を許さない東日本大震災発災時の方が震災詠は「進歩」したと考えるのか。

私はいわゆる被災「当事者」しか、震災を詠んだり書いたりしてはいけないという立場には立たない。むしろ震災と「無関係」だと考えている人に、どのようにしてあなたも「無関係」なわけではない、あなたもまた「当事者」なのであるということを実感してもらうか、そこに「文学」がどのように寄与できるのかを考えている。

しかし「自由に」詠めばよい、書けばよいという立場にも立たない。長谷川の『震災句集』が阪神淡路大震災を詠み、95年に刊行されたとすれば、おそらく別の評価を受けたとは思うが、それゆえに擁護したいとは全く思わない。

詠み手/書き手が震災をどのように捉えるのか、どのように関係するのか、どのような立場に基づいて詠む/書くのかは明確にするべきであると考えている。

つまり「傍観者」である自分に嘆息して終わるような詠み方は望ましいとも誠実だとも思わない。「被災地」の外側にいるように思われる自分にとっての震災とは何なのか、あるいは「被災地」や「被災者」とどのように関係するのか/できるのかを突き詰めて考えることこそが「誠実」な態度だと私は考える。

そう考えれば、〈何の咎なるや凍地に圧死され〉の句のように「咎なるや」と嘆息して終わることはできないはずである。自分と縁のある人が「凍地」で圧死したとしたら「咎なるや」とは詠めないだろう。「圧死」してしまった人と詠み手である〈私〉がどう関係するのか、できるのか。その点を突き詰めて考えるべきだと私は考えるのである。

【執筆者プロフィール】

加島正浩(かしま・まさひろ)

1991年広島県出身。名古屋大学大学院博士後期課程在籍。主な研究テーマは、東日本大震災以後の「文学」研究。主な論文に「『非当事者』にできること―東日本大震災以後の文学にみる被災地と東京の関係」『JunCture』8号、2017年3月、「怒りを可能にするために―木村友祐『イサの氾濫』論」『跨境』8号、2019年6月、「東日本大震災直後、俳句は何を問題にしたか―「当事者性」とパラテクスト、そして御中虫『関揺れる』」『原爆文学研究』19号、2020年12月。