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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 124 (16/08/21) 旧玉城村 (15) Kakihana Hamlet 垣花集落

2021.08.17 08:38

旧玉城村 垣花集落 (かきはな、カチヌハナ)


今日は旧玉城村にあった18の集落の最後の垣花集落を訪れる。



旧玉城村 垣花集落 (かきはな、カチヌハナ)

昔は和名と垣花というニつの集落があり、年代ははっきりしないがニつの集落が合併して垣花という部落となったといわれている。部落は高台にあるため、戦前は飲料水にみ、部落より下にある樋川より水を運ばなければならなかった。当時、普通の女性ではお嫁に行くのを嫌うくらい、不便な部落であった。しかしながら、美人の多い所として有名で、玉城の部落廻りの琉歌に「ミヤラビ美さや垣花」とあり、また薩摩からのイリガン御用 (これは調べてもはっきりとは分からなかったのだが、イリガンとは髢 [かもじ] の事で女の人の付け髪の事、薩摩からの調達でこの地の女性の髪が選ばれたということだろうか?) の時に選ばれたのもこの部落の女性だったそうだ。

第二次大戦では多数の儀牲者を出し、また軍の駐屯地に接近しているため元の部落に帰るのが遅れた。戦争の終未期は避難民の収容所として千人を越える避難民が住んでいたが北部への移動を命せられ止むなく北部に移動した。また、相当数の残存家屋がありながら、作業員や一般民が全部取り壊し、跡形もなく荒れ果てていたが、昭和22 (1947) 年にようやく移動が許可され復旧に着手した。米軍が樋川の水を使用していたので、それから少し分けてもらって生活していたが、戦後、ポンプアップによる簡易水道が設され、部落設立以来の願望が叶った。しかし、耕地の表土は軍用地内に運び込まれ、また、よい土地は軍用地に接収されたため、軍用地跡のコンクリート張りや荒れ地を開望するのに大変な苦労があったという。

この部落には大きい門中が三つある。外当門中と恩納門中。これは「アアマミキョ」「ミントン」の後裔で、前平良門中は佐敷の小按司 (尚巴志) の子孫として繁栄している。

1880年 (明治13年) の人口は446名で旧玉城村では4番目に人口の多い集落だった。戦後、避難民の収容所として千人を越える避難民が住んでいた。帰郷が許可された後は次第に住民はもとの集落に戻り、一時期、垣花住民の7割はキャンプ知念 (現 琉球ゴルフ倶楽部) で働く軍雇用員で、そのため生活も除々に向上してきた。1960年の人口データでは416名とほぼ昔の姿に戻ったのだが、本土復帰後も人口は増えず、近年は人口減少が続いており、2020年末では352人と明治時代から100名も人口が減っている。この傾向は旧玉城村の南部の仲村渠、中山、新原に共通しており、不便な土地であることが大きな原因になっている。

人口データからも分かるように、民家は昔からの集落に集中し、その外側には拡張されず、農地のままとなっている。2013年に佐敷・玉城・知念の3地域の接点に住宅街を建設したが、人気がなく一時期はゴーストタウンとまで呼ばれていた。近年は人気が高まっているそうだ。3LDK一戸建てが2500万円ぐらいで購入できる。

集落内を巡ると、空き地が目立っていた。やはり過疎化が課題になっているのだ。ただ、多くの民家には昔の石垣やその石垣の上にコンクリート塀を継ぎ足したところが多く残っていた。昔ながらの沖縄集落の雰囲気が残っている集落だ。



玉城村前川誌に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 垣花之嶽 (神名: アフイハナテルツカサノイベ)大森 (神名: ナフシナデルハイノ御イベ)中森 (神名: マシラゴノ御イベ)上里森 (神名: オシアゲクダオシアゲマキウマイケガマイトクノ御イベ)
  • 殿: 恩納之殿上間之殿


垣花集落でも3班に分けて御願を分担しているが、便宜上なのか、かつての和名村、垣花村とぁかれていた時代の名残なのかは分からない。


垣花集落訪問ログ


8月13日に仲村渠集落を訪問を終えた後、時間に余裕があったので、垣花樋川を再訪した。



上里森 (イーザトゥムイ)

垣花樋川へ下りる道の右 (南) 側の広場が上里森 (イーザトゥムイ) で鍛冶屋跡といわれている。草刈りをすると鉄の滓が出てきたそうだ。地図上は、この場所なのだが、確信は無い。垣花樋川を訪れる観光客の駐車場になっている。琉球国由来記の上里森 (神名: オシアゲクダオシアゲマキウマイケガマイトクノ御イベ) と推測されている。かつては和名ノロによって司祭されていた。垣花集落は和名村と垣花村が前身で、和名ノロと垣花ノロがいた。


垣花樋川 (カチヌハナヌヒージャ)

垣花樋川 (カチヌハナヌヒージャ) は和名井泉 (ワナガー) とも下川 (シチャンカー) とも呼ばれている。垣花集落は垣花村と和名村が合併して出来た集落なので、それぞれの村での呼び名が異なっていたのだろう。この樋川には2年前に来たことがある。一番気に入っている井泉だ。何度でも訪れたい場所。ここへは仲村渠集落から緩やかな下り坂の樋川さんぽみちが通っている。道の途中までは自動車道路だが、途中から遊歩道となり、垣花樋川に通じている。

今回は垣花集落から趣のある石畳の急坂を下る道で向かう。この石畳道は明治時代に整備されたそうだ。石畳には導水管が敷かれている。これは1952年に簡易水道設置の際に村屋の前に貯水槽まで水をポンプで汲み上げるために敷かれたもので、樋川の水は飲料水、生活用水として現在も垣花集落に供給され使用されている。

石畳の坂道の途中に休憩所が二つある。上の方に上休み石の平石 (イーユクイイシヌヒラシサー) があり、文字どうり平べったい石があり、少し下った所には中休み石 (ナカユクイイシ) がある。下るときは特に気にしなかったのだが、登ってくる時には、手ぶらでもかなりきつく、昔は男性は一斗缶を担ぎ、女性は水桶を頭に乗せて石畳みの坂道を水汲みで行き来した。その水汲みは辛く、「垣花ヌ嫁ナヤーウラン (垣花の嫁になる人はいない)」と言われる程であった。水を汲んで登って来ていた。この休み所は不可欠だっただろうと感じた。

坂道を下ると広い空間が現れ、そこに池がある。今日は大勢の人が来ている子供が池で水遊びをしている。この池は農耕馬の水浴場で、馬浴川 (ウマアミシガー) と呼ばれていた。

馬浴川 (ウマアミシガー) の上、西側の坂道に近い方には女川 (イナクガー) で女性の水浴び場がある。多分昔は囲いがあったと思う。近年設置したのだろう水の出口は龍の頭の陶器になっている。この奥に湧水口がありそこから水路が引かれ、勢いよく水が噴き出している。垣花樋川は三つの湧水口から水を引いているそうだ。

馬浴川 (ウマアミシガー) の上、東側が男川 (イキガガー) の水浴び場がある。女川に比べて少し大きく造られている。この奥にも湧水口がある。戦前には、男川の水流を利用して米製粉用の水車が設けられていたそうだ。

男川の上には祠が造られて、拝所になっている。垣花樋川は正月の初ウビー、6月25日のアミシヌ御願、10月1日の生子御願の村落祭祀で拝まれている。

この樋川から海岸に向けての山道があったので、そこを進む。いたる所に溜池に様な水溜りがある。垣花樋川から水が流れ込んでいる。

この地域は、昔から水量豊富で垣花樋川一帯は、沖縄本土復帰の頃までは下方海側に水田が広がり、樋川はその水源となっていた。その名残が少しだけ残っていた。段々畑が小さな規模だがある。その周りは、地形からかつては段々畑だった事がわかる。ここからまだ下に道が通じているが、降ってしまうと帰りが辛いので、ここで樋川に引き返す。


タミ井泉 (ガ-)

垣花樋川からの山道にはタミ井泉 (ガ-)とかクヮーガ井泉と呼ばれていた井泉があった。水はほんの少しだけ溜まっていた。この付近にはこれ以外にも幾つか井戸跡があるそうだ。


ハイ井泉 (カー) [未訪問]

資料にはタミ井泉 (ガ-) の近くにハイ井泉 (カー) という井泉が紹介されていたが、見つから無かった。この井泉はウヮー井泉やクヮー井泉とも呼ばれる。最初にウヮー (豚) を潰して洗った場所という事で、ウヮー井泉とも呼ばれているのだ。

ここからは今日 8月16日に訪問した文化財等のレポート。


垣花公民館

垣花集落は小さな村で文化財が中心地に集まっているので、まずは公民館に行き、そこに自転車を停めて徒歩にて巡った。公民館は外壁の塗装工事中で、派手なピンク色にお色直しの最終段階。以前もピンク色だったのだが、これ程派手なショッキングピンクではなく淡い桃色といった感じだった。ここが村の中心地で、村屋があった場所。



和栄泉 (貯水槽)

公民館の前の丘の上に貯水槽の様なものがある。多分垣花樋川から水を汲み上げこのタンクから集落に給水していたと思う。家に帰ってから調べてみると、やはりそうだった。住民達が米軍が置いていったエンジンとパイプを使ってポンプアップによる簡易水道が1953年に完成した。以前は和名バンという小字名だったので和栄泉と命名された。当時は上下2つのタンクがあったのだが、公民館前の駐車場整備の際に崖を削ったので上のタンクのみ残っており、現在でも稼働しているそうだ。 


垣花グスク

公民館から貯水槽のある丘の裏に別の丘があり、その頂上、標高120mに垣花グスクがある。公民館からは30mぐらいのところで、かなり近い場所なので、集落は垣花グスクの城下村だったのだろう。県道137号線 (佐敷知念線) までグスクは伸びており、そこに垣花城址跡碑が建っている。集落のどこからも垣花グスクは見え、集落の象徴の存在の様に思える。

垣花グスクは二の郭と主郭のニつの郭から成り、主郭の奥が御嶽が置かれた聖域になっている。かつては「和名グスク」とも呼ばれていた。垣花グスクの築城年代に関しての古文献は無く不明だが、石垣の積み方、規模等から14世紀頃にミントン按司の次男が築いたとか、英祖王の長男 (大成) から分かれた中城屋宜按司が、玉城グスクの東の防衛の為に築城したとの説がある。城跡には、サンゴ石灰岩を積み上げた野面積みの石垣が残っている。

グスクへの正式登城道は公民館側にある。無造作に置かれた岩や石で登城道が上に伸びる。そこを登ると、踊り場があった。ここが何に使われたかは書かれていないが、城内には垣花之御嶽があり申請名場所になり、ノロや神人 (カミンチュ) 以外は立ち入り禁止だったので、ここから遙拝したのかもしれない。そのような感じの場所だった。

この踊り場に出る道がもう一つあった。ノロ殿内の屋敷の前から道が登っていた。和名 (垣花?) ノロが祭祀に向かう道だったのだろうか?


二の郭

踊り場を更に登ると二の郭への入り口の門がある。

二の郭は縄張り図では広い敷地になっているが、現在はほとんどが木々で覆われて、主郭への道付近が開けているだけで、道の先に主郭への門が見える。もともとは兵士が集まれるような広場だっただろう。

二の郭の入り口門から石垣の上に沿って武者走りの様な道がある。昔からこの道があったのかは分からないが、防備の為に石垣に沿って兵士が待機できる場所があってもおかしくはない。ここからは南東の方角に海岸が望める。

この道に沿って行くと主郭に入るところに拝所がある。この場所が何なのかは書かれていないのだが、グスク内には按司墓や若按司墓があると書かれていたので、その何れかだろう。思納門中が拝んでいるそうだ。


主郭

主郭は広場にななっている。ここに垣花按司の住居があったのだろう。周りには石垣跡が残っている。


垣花之嶽

主郭の奥は一段高くなっており、聖域で御嶽があった場所。琉球国由来記には「垣花之嶽 (神名: アフイハナテルツカサノイベ)」と記されている。垣花ノロが祭祀を行っていた。御嶽のイビの近くには「奉寄進 嘉慶二十?年」と刻字された灯籠がある。垣花グスクは、6月25日のアミシヌ御願の村落祭祀で拝まれている。

垣花之嶽がある場所石垣の下の城外に拝所があった。ここにはグスクからではなく集落の方から道が通じている。ここの石垣は立派で、グスクの現存している石垣では一番高く積まれている。ここも、按司墓や若按司墓の何れかだろう。


垣花之嶽の奥にグスクから集落への急な道がある。もう一つの虎口だろう。通常は使われておらず、緊急事態に脱出の為の道ではないだろうか?

垣花グスクを居城とした垣花按司については諸説あり、確かなことは判っていない。小説尚巴志では、下の図のような関係となる。小さな地方按司である事から、近隣の按司達との政略婚姻で関係を保っていた。垣花按司は糸数按司の義弟で、島添大里按司だった汪英紫に滅ぼされた大城按司真武の義父とも伝わっている。(妹が嫁いでいたとの説もある)大城按司真武と汪英紫の長堂原の戦いでは佐敷按司 (尚思紹) と共に参戦している。三山時代には東方同盟の有力按司 (糸数、玉城、知念、垣花) の一人で、後に頭角を現してくる佐敷按司の尚思紹・尚巴志親子との関係を深めている。尚巴志が南山国を滅ぼし三山統一の際も最後まで尚巴志に抵抗した糸数按司や玉城按司とは異なり、尚巴志側として行動したようだ。

糸満市の真壁集落を訪れた際に調べた資料では、真壁按司と垣花按司は兄弟だったとあり、真壁按司が飼っていた白馬をめぐって国頭按司と戦いになり、ともに討ち死にしたと伝わっている。これは三山時代の初めかグスク時代の事だろう。


新屋 (ニーヤ) の神屋

公民館の前の広場の西側直ぐの所に石垣で囲われた屋敷跡がある。新屋 (ニーヤ) の神屋で、現在は空き地になっている。敷地内にコンクリート製の神屋が建っており、その中には綺麗に香炉が置かれている。数年前まではブロック塀の民家の写真が資料に載っていたが、この集落も過疎化が課題となっている。


ノロ殿内 (ドゥンチ)

新屋 (ニーヤ) の神屋と垣花グスクの間にノロ殿内 (ドゥンチ) の屋敷跡がある。ここも空き地となり、人は住んでいない。敷地内は草木が生え茂り、奥にコンクリート製の神屋が建っている。垣花ノロ火ヌ神が紀られている。神屋内には、向かって右には5つの香炉が置かれた祭壇、左に霊石ー基と3つの香炉が置かれた火ヌ神が祀られている。祭神については不明。このノロ殿内は、正月の初ウビー、6月25日のアミシヌ御願、10月1日の生子御願 (ショウシイワイ) で拝まれている。琉球国由来記の「垣花巫火神」にあたり、毎年、正月の御祈願と9月麦初種子、米種子に王府より供物が供えられ、王府からの使いが来て祭祀を行なっていた。垣花ノロ火ヌ神は王府祭祀の場として玉城アマチジ (雨粒天次)玉城ノロ火ヌ神 (赤嶺の神屋) と同様に、重要な祭祀所であった。


思納 (ウンナ) 門中の神屋

垣花グスクの外側、ノロ殿内 (ドゥンチ) から通りを隔てた所に思納門中の神屋があるのだが、ここは民家で人が住んでいる。塀に囲まれているので中には入れない。資料の「南城市の御嶽」によれば、神屋の手前に、薩摩侵入と関わる伝説「イリガン御用」にちなんだ井戸跡が残っている。神屋の祭壇は2つに仕切られ、向かって右側に思納門中神人の3つの香炉、左側に大按司等を祀る4つの香炉がある。祭壇左は火ヌ神で、三つ石と「寄進金城仁屋」等と刻字された2つの香炉が置かれていると書かれていた。(資料にあった祭壇の写真は右のもの) 思納 (ウンナ) 門中はアマミキヨ族が定住したミントンの子孫と伝わっている。思納 (ウンナ) 門中の神屋は、正月の初ウビー、6月25日のアミシヌ御願、10月1日の生子御願 (ショウシイワイ) で拝まれている。琉球国由来記にある「思納之殿」に比定されている。


イリジョーグラ

公民館の西側、県道137号線 (佐敷知念線) から垣花集落に入った所の交差点のど真ん中に井泉跡がある。昔は車も無く、人の往来が多い交差点の場所に井戸があってもおかしくない。井戸は昔は人が集う社交場だった。このように、道路のど真ん中に井戸がある集落は幾つかあった。掘り井戸で、戦前までは雑用水として利用されていたそうだ。


拝所

イリジョーグラからエータイジョーに向かう道路の脇に拝所があった。資料などには出て来ず、詳細は不明だが、綺麗にされているので、集落では大切な拝所の一つと思われる。


エータイジョー

公民館 (写真ピンク色の建物) の北の広場にエータイジョーと呼ばれる井泉跡がある。チー井象とも呼ばれた。先程のイリジョーグラと同じく三叉路のど真ん中にある。昔はイリジョーグラもここも、道が出合う広場になり、人が集う場所だった。ここも掘り井戸で、戦前までは雑用水として利用されていた。広場の奥には樹齢100年を越えるカジュマルの木がある。

広場の脇には祠が二つある。コンクリート製の祠の中には火の神と香炉が三つ置かれた祭壇がある。このコンクリート製祠の脇には小さな祠が置かれている。資料ではこの拝所については書かれていないのだが、個人的推測では、ここには垣花集落の有力門中の屋敷があったと思う。時代と共に別の地に移っていったが、先祖はここで小さな神屋を建て、祀り、集落で面倒を見ているのだろう。



次は公民館の東側の拝所をめぐる。


上間小 (イーマグヮ) の神屋

公民館の前の道を東に50m程いくとほぼ集落の東端になる。そこに拝所が集まっている。その一つが上間小 (イーマグヮ) の神屋で、下庭下 (シモナグヮ) とも呼ばれている。 祭神は久高島から飛んできた「ユーヌハジマリ (世の始まり)」の神を祀っていると伝わっている。この上間小 (イーマグヮ) の神屋の向かいにある当 (アタイ) の神屋と対 (グサイ、鎖) となる男神が紀られている。


当 (アタイ) の神屋

上間小の西側の道向かいにある神屋で、屋号 当 (アタイ) の神屋。役人の家だったといわれている。また。先程の上間小の神谷と対 (グサイ) となる女神が祀られていると伝わる。


ソーカビ

上間小 (イーマグヮ) の神屋から少し東に行った所、集落東端にソーカビと呼ばれる井泉跡がある。ここには屋号 浜比嘉もしくはソーカビと呼ばれた屋敷があり、その家のそばにあることから、ソーカビと呼ばれている。屋号 浜比嘉もしくはソーカビの屋敷後には立派な石垣の塀が残っている。


稲堂 (ンチドー)

上間小 (イーマグヮ) の神屋から北側に向かう道の脇に拝所が置かれている。これは仲村渠の城間門中の拝所で稲堂 (ンチドー) という。垣花集落が城間門中に託されて拝んでいるそうだ。この拝所の由来等については不明。



上間の殿 (イーマヌトゥン)

稲堂 (ンチドー) の前の道の向かいに上間の屋敷があり、その一角に上間の殿 (イーマヌトゥン) がある。三つ石と香炉が置かれ火ヌ神が祀られている。祭神は、ムラ火ヌ神で、琉球国由来記の上間之殿に相当する。垣花ノロと和名ノロによって麦穂祭、稲二祭が司祭されていた。


垣花農村公園

垣花集落の北西に森の丘があり、その中に二つの御嶽があると書かれていた。そこへの道は載っておらず、森の中に通じる道を探す為、まずは森の北側から探すことにする。その途中、垣花農村公園があった。多分、昔は製糖場 (サーターヤー) があったのではと思う。


中森 (ナカムイ) 

中森 (ナカムイ) への道を探すが見つからず、付近の住民に聞いて見たが拝所が森の中にあるとは聞いた事がないという。40才代ぐらいの人で、世代交代で、村の拝所は忘れ去られる様だ。次は森の下の方で探すことにする。拝所は大体のケース山道を登って行く事が多いので、下の方に上り道があるかも知れない。先程訪れた上間の殿 (イーマヌトゥン) がある上間の屋敷の裏側の畑の畦道が森の下側に伸びている。そこを進むと、森の中に入る道があった。多分ここだろう。山道を登ると突き当たりに岩の前に石が積まれ香炉が置かれている。ここが琉球国由来記の中森 (神名: マシラゴノ御イベ) と考えられている御嶽だ。和名ノロによって司祭されていた。


大森 (ウフンディ)

中森 (ナカムイ) から畑の畦道に戻り、更に進むともう一本山道がある。道は石畳では無いが岩や石で造られている。

ここを登ると広場になり、その奥に大岩が聳えている。垣花村の東にあった和名村の御嶽とされ、琉球国由来記の大森 (神名: ナフシナデルハイノ御イベ) と考えられており、かつては、和名ノロが「大森」を司祭していた。


これで垣花集落の文化財巡りは終了し、旧大城村の18の集落全ての訪問が終わった。次に訪問する集落を考えないといけないのだが、下調べの参考に図書館で調べていたのだが、今は新型コロナ感染対策で図書館は緊急事態宣言が解除されるまでは閉館となっており、情報収集が難しい状況だ。ここ数日、インターネットで入手できる情報で次回訪問先を決めることにしよう。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査 I 南部編 (2001 沖縄埋蔵文化財センター)
  • 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)
  • 玉城村誌 (1977 玉城村役場)