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東日本大震災・ゆれたことば

2018.06.26 14:59

https://sectpoclit.com/tag/%e6%9d%b1%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%a4%a7%e9%9c%87%e7%81%bd/ 【東日本大震災】より

ゆれたことば #1

「瓦礫」

千倉由穂(「小熊座」同人)

東日本大震災から10年が経った。その日わたしは帰省していた仙台にいて被災したのだが、その後、当時に関することばを発することができなかった。出来事があまりに大きく、ことばはあまりに小さいと感じてしまったからだと思う。わたしにとって、10年という月日は沈黙に閉じていた。

わたしは10年前の3月11日に立ち、この連載をはじめたいと思う。そのためにまず、宮城県俳句協会『東日本大震災句集 わたしの一句』を開くことにする。同協会の呼びかけにより集まった俳句をまとめた一書。読み進めていくなかで、その連なりから、風景のようなものが立ち上がってきて、それが震災の現場の風景なのだろうと思った。

  カーナビに消えし街並寒波来る   青森 三戸 栗山朗子

  音すべて地図より消えぬ春の闇   宮城 栗原 小野寺裕子

街がなくなるということがどういうことなのかを、これらの俳句で知った。カーナビにはある道がないこと、地図にある暮らしが根こそぎなくなっていること。その中で、とくに異質さを放つことばがあることに気付いた。

  津波忌の瓦礫に魂のやうな影    青森 八戸 田村正義

  秋の蝶瓦礫の上に休みけり     秋田 仙北 齋藤園子

  瓦礫よりかすかに雛の笛太鼓    仙台 宮城野 遠藤玲子

  瓦礫といふ地図になき山鳥帰る   仙台 宮城野 竹中ひでき

「瓦礫」と一塊に書かれているが、それは暮らしを形作っていた、いや暮らしそのものの残骸だ。色を失った瓦礫の山が目前にそびえる。地図にあった暮らしは跡形もなく、地図にはない山となった瓦礫。

だが、この瓦礫も今はもうない。昨年の夏に宮城県・荒浜地区を訪れたことを思い出す。家の土台と、あとは雑草ばかりが平坦に広がっていた。

10年目にかけてテレビでは特集が組まれ、繰り返し津波の映像が流れる。画面の端に映った波が、一瞬にして画面いっぱいに押し寄せてくる。瞬間、何もかもを攫っていく。撮影者のむせび泣く声すら攫っていく。今回「ことば」について書く場を与えられて、10年という時が経ったからこそ巡ってきた機会だと感じ、立ち返ろうと思った。その時に、俳句に、向き合うことは、「ことば」と向き合うことになるのではないだろうか。

すべての事象は、「ことば」で結わえられ、形作られていくものだと思う。それは強さにもなり、狭さともなる。出来事は歳月によって、忘却されてゆくのではない。「東日本大震災」としてパッケージ化されていってしまう。そうならないために、ことばをことばでもって紐解いていきたい。

津波よって一瞬で瓦礫になってしまった街の、一瞬はその先もずっと続いていく。歳月が均していったとしても、心に押し寄せた瓦礫はなくならない。

  蝶生まる瓦礫の町を故郷とし    仙台 宮城野 佐藤成之

【執筆者プロフィール】

千倉由穂(ちくら・ゆほ)

1991年、宮城県仙台市生まれ。「小熊座」同人。東北若手俳人集「むじな」に参加。現代俳句協会会員。


ゆれたことば #2

「自然がこんなに怖いものだったとは」

堀田季何(「楽園」主宰)

東日本大震災が起きた時、私は驚かなかった。震動にせよ、放射能にせよ、「未曾有」と言う言葉が相応しい災害であったものの、遠からずこのレベルの天災及び人災が起きることは、前世紀より予見していたからである。当然、政府や東電の酷い対応や国内マスコミの(政府発表を垂れ流すだけの)大本営発表も予見していた。東日本大震災はまだ終わっておらず、今も続いているが、2011年から2021年までの当事者たちによる愚行やそれに伴う多くの惨事も予見していた。

私は、超能力者でもなんでもないが、俳句・短歌以外の仕事が確率及び統計を扱うものであるため、古今東西の自然史及び人類史を俯瞰し、特に過去の地震や社会心理学、並びに行動科学の研究成果をある程度頭に入れ、日本という島国でシミュレーションすれば、東日本大震災のような天災及び人災が遠からず日本で起きること、しかも、すぐに収束しないことは、十分想定の範囲内だった。

無論、私のように予見していても、具体的な場所や日時を予知できなければ、恐るべき災厄の前に無力なのは言うまでもない……。東日本大震災が起きた時、私は驚かなかった。驚かなかったが、茫然となっていた。自分が何をすべきかがわからなかったからだ。それに、その後の自分の人生を考えても、何をすべきかがわからなかったからだ(仕事の案件がすべて消えてしまうことも予見できた)。

しばらくして、予見していた直接的及び間接的な人災が始まり(今も続いている)、私は、ただただ悲しく、ただただ悔しかった。怒りさえ込み上げてこなかった。大切な家族や家を失った人たちに比べれば、震源地から非常に遠い南関東の埠頭地区にいた私は非常に恵まれていた。天災の面では、津波被害はなく、地域は震度5強、地盤の関係上、拙宅はたぶん6弱程度の揺れに遭うだけで済んだ。シャンデリアは天井に当たって砕け散り、洋服箪笥の引き出しは全て部屋の反対まで飛んでゆき、私の枕の上には、箪笥の上に置いていた頭蓋大の石が着地していた(就寝時間だったら死ぬか重傷を負っていた)が、それだけで済んだ。原発事故の面にしても、放射能も飛び交っていたが、南関東では、身体を損なうレベルではなかった。ただし、原爆で一族の大半を殺されているので、政府及び東電の対応、並びに国内メディアの大本営発表が予見通りに現実化するのを目の当たりにして、吐き気が止まらなかった(いまだに気持ち悪くなる)。結局、生活に十年以上も暗い影を落としている大きな金銭的打撃以外の面では、私は被害者ではなかった。反面、原発問題においては、全日本人を含む全人類が当事者だと思っているので、私も当事者だというスタンスである。

さて、「ゆれたことば」としてまず挙げたいのは、多数の俳人たち、特に花鳥諷詠や季語を大切にする俳人たちの少なくない割合が口にした「自然がこんなに怖いものだったとは」という率直にして愚かな言葉である。私みたいに予見していても無力だったのは上述の通りだが、自然を怖いものだと思っていなかったのは、なにも予見していなかったというレベルの話でなく、これまでの人生、あなたたちは災害大国である日本に生きてきて何を見てきたのですか、と問いたくなるレベルである。自然を、俳句を作る素材としてしか見做していなかったのですか。自然を賛美することばかりに気を取られていたのですか。

太古より、多くの日本人は、地震、台風、大雨、火山、津波、大波、吹雪などにより命を落としてきた。東日本大震災ほどの規模でないにせよ、現在の激甚災害に相当する大災害は頻繁にあったし、激甚災害未満の大災害に至っては毎年のようにある。それなのに、「自然がこんなに怖いものだったとは」である。これに「もう同じ目で自然(や季語)を見られない」という言葉が続く。

本当に、東日本大震災によって「自然がこんなに怖いものだったとは」という新たな認識に至ったなら、少なくない俳人たちの脳味噌から(生きている間に起きた)過去の災害についての全ての記憶や知識が偶々抜け落ちていたのか、記憶や知識はあったものの、東日本大震災と(生きている間に起きた)過去の災害との死者数及び被害者の差だけでこの認識に達したのか、どちらかしかあり得ない。そして、前者のような「選択的集団認知症」は医学的にあり得ないだろう。となると、後者になるが、被害程度の差で自然への認識をいきなり改めるのは、あらゆる災害の死者や被害者にとって極めて失礼な話だろう。

畢竟、東日本大震災後に「自然がこんなに怖いものだったとは」と言い始めた俳人たちは、信用したくても、信用できない。どんなに良い人柄であっても、あらゆる災害の死者や被害者を貶めるこの言葉を吐けてしまう無神経さは、警戒に値する。

(次回は5月11日ごろ配信、千倉由穂さんの回です)

【執筆者プロフィール】

堀田季何(ほった・きか)

「楽園」主宰、「短歌」同人、「扉のない鍵」別人。現代俳句協会幹事。


ゆれたことば #3

「被災地/被災者」

千倉由穂(「小熊座」同人)

前回「瓦礫」を取り上げた。その語になぜ立ち止まったのか、その時わたしはうまく説明できなかったが、後に高島俊男著『漢字雑談』(講談社)を読み、新聞やテレビに「がれき」という言葉が出てきたことについて書かれた箇所があったので引用したい。

これは、今の記者が「瓦礫」という言葉(字)の意味を知らないこともあるが、一つには、津波で流された堆積・散乱しているものを指す言葉がないこともあるだろう。わたしはしかたなく日記に「塵荼」「残骸」などと書いているが、もとより適当ではない。あの、ありとあらゆる物の全体を指し得るものではない。政府も「がれき」と言い出した。一同の結論は、――「瓦礫」とは別の「がれき」という言葉ができたのだと認めるほかない、ということになった。

言葉がそのものを指し示すのではなく、近いと思われる言葉を当てはめたということ。このように言葉の持つ意味は膨らんでいくのかと思うと同時に、改めて異質な言葉だと感じた。

その語に自分が当てはまるのか、長く戸惑っていたものがある。

震災から一年程経った頃、わたしはホテルなどの配膳バイトをしていた。ある時、企業で行われるパーティのケータリングを手伝うことになり、数名で車に乗り合わせ移動していた。その途次、運転席の年配の男性に「宮城出身と聞いたけど地震大丈夫だった?」と聞かれたのだ。その質問には、いつも口ごもってしまっていた。一言では言えず、内陸部だったので家は大丈夫だったが、家に帰れない所にいて避難所となっている体育館で過ごしたのだと説明した。するとその人は「じゃあ、被災者じゃん」と言い、そこに重ねるように隣にいた同年くらいの女性が突然「わたしも被災地ボランティア行ったんで」と大きな声で言った。その後、車内は被災地ボランティアの話へと移っていった。

女性のなぜか競うような物言いにも驚いたが、自分が「被災者」であったと言うことができないと思っていたことを実感した。もっと大変な被害に遭った人が多くいて、そのうえ大学生活を送る関東の暮らしに戻った身だからというのが理由だ。ではなんと言うのかと思うと、やはり当時は被災者の一人だったというしかないのだが。

新聞やテレビで、「被災地の復興」「被災地の今」という文言を見かける。被災地は姿を変えていき、それを復興という。津波の被害のあった土地は瓦礫が撤去され、整えられ、また建物が建ったりする。けれど原発の被害のある土地は、被災当時のまま残されて今では雑草に覆われている。当然、一言に「被災地」とは言えない。被災の状況はそれぞれに悲惨だ。

一方で、「いつまで被災者なのか」「取り残された被災者たち」という形で、人間は取り上げられる。いつまで、どこまでが被災者なのか。グラデーションのある言葉で、わたしはその薄い端に位置していると思っていた。グラデーションは、波紋とも言い換えられるかもしれない。震災から時が経ち、波紋は薄く広がっていく。被災者という言葉の端っこにいると思っていたわたしも、それでやっと震災について書いていいと思えるようになったという部分もあるのだ。

けれど、時折思い出す「じゃあ、被災者じゃん」と言ったバイトの人の声は、最初からグラデーションも何もない真っ平なものだったと思う。

時が経ち、被災地と呼ばれる場所も、被災者と呼ばれる人も変化していく。では、被災地/被災者という言葉そのものは、これからさらにどう変化していくのだろうか。その使い方に、ひとつずつ立ち止まっていきたい。

被災地の空は水色燕来よ    仙台 泉 木村照代『東日本大震災句集 わたしの一句』

被災者は瓦礫と言はず春の雪  仙台 太白 豊田力男

被災地にクレーンのうなり陽炎へる 宮城 柴田 中野西範子

被災地となりし生家や夏燕   福島 南相馬 寺澤安子

被災船浜に五年目涅槃雪    仙台 太白 柏原日出子『五年目の今、東日本大震災句集 わたしの一句』

(次回は6月11日ごろ配信、堀田季何さんの回です)

【執筆者プロフィール】

千倉由穂(ちくら・ゆほ)

1991年、宮城県仙台市生まれ。「小熊座」同人。東北若手俳人集「むじな」に参加。現代俳句協会会員。