大学1年〜今。
2017.01.14 22:50
過去は捨てようとずっと思ってた。
あんまり過去を振り返りたくない。
暗い気分になるから。
でもね、見方を変えれば、
辛い過去は、
私ががんばって乗り越えてきた過去
とも言えるとおもう。
全部は書けないけど、
少しずつ記録として残しておきます。
今読んでくださってる方、
ただの備忘録であり長々と続いていきます。
覚悟あれ( *´艸`)
6年前、テニスサークルのメンバーで
山形にボード合宿へ。
ボード1日目を存分に楽しみ、夜ごはんを堪能し、部屋でゆっくり休んでいた。
すると、深夜、突然のみぞおちの激痛。
痛みもがいて床で転げ回って泣いて叫んだ。
これが私にとって初めての痛みだった。
死ぬのを覚悟した。
みぞおちをザクザク刺されてる
そんな感覚だった。
さすがに周りがやばいと判断し、
救急車🚑が呼ばれた。
そのまま病院へ行き夜を越した。
入院して安静にしていくように言われたけど、山形で入院したら、みんなと帰れなくなるからと断った。
仙台帰ってきて、翌日も同じことが起き、
今度は背中まで激痛が走り泣きじゃくった。
このまま痛みで死ぬのかな?
どこか悪いのかな?
そんな不安が続き、病院回りをして、
たくさんの検査をしてもらった。
でもどこ行っても大きな異常はなし。
薬をもらうも全然効かない。
検査の出費も続いたが、
同じ検査ばかりで無駄な気がした。
諦めモードになった。
毎回痛みの恐怖に怯えて
かれこれ5年間。
こんなに辛いのに、
病院の判断はなんなの?、
ちゃんと診てくれない、
そんな気持ちが生まれ、
病院への信用もなくしていた。
痛みがあるのは事実。
でも何で異常なしって言われるのか、
なんか悔しかった。
病院行ってもどうせ同じ繰り返し、
と通院しない期間も続いた。
ただ、私が痛みの発作を起こすたびに
周りの人たちがびっくりして
救急要請する、それの繰り返しだった。
大学3年の教育実習では
保健室にお世話になった。
大事な研究授業は乗り越えたものの、
私が何事もなく3週間の実習を
乗り越えられるわけがなかった。
このいつ来るかわからない痛みがある限り、教壇には立てない。
そう思って、
聾学校の先生という夢を諦めた。
毎週やってた学習ボランティアですら、
痛みで休むこともあった。
子どもたちや保護者に申し訳なかった。
先生に向いてると言って背中を押してくれた保護者の方が沢山いたからこそ
悔しさでいっぱいだった。
教師の責任の重さを知ってるからこそ、
今の身体の状態では
中途半端な教育しかできない。
そう思った。
大学3年。
親の離婚があった。
さっさと離婚してしまえば楽なのに
そう簡単には行かなかった。
働かない母は父に怯えながらも、
金銭的な事を考えて
なかなか印を押せなかった。
ただ毎日父親に会うのを避け、
車や、祖母のカラオケボックスで寝泊まり
をする、そのせいで話し合いが進まない、
私と姉は母と父の間に入る、そんな生活が続いた。
おじの自殺の後だったから、
母を1人にすることはできなかった。
おじと母を重ねて見てしまう自分がいた。
だからこそ余計に見ないふりはできない。
私も母と外で寝たり、カラオケボックスで寝たり、ごはんを作ってお弁当に詰めて母に運んだり、そんな生活をした。
でも内心は母と距離を置きたい時期だった。
家庭問題の現実から逃げたい一心で、
アルバイトを掛け持ちした。
深夜3〜4時までラーメン屋、
早朝6時からカフェ、
昼間は大学、
そんな生活をしていた。
忙しくして何とか気を紛らわせた。
でもそのせいで
姉が母に付き添うことが増え
申し訳なかった。
姉は母に拘束されて生きてきた。
なぜか私は良いのに姉はダメ
そんなことも多かった。
アルバイトしてても突然来る痛みに
苦しんだ。ホールで倒れたり、厨房で倒れたり、痛みで失神してたり。
痛みが増していき、呼吸もうまくできない時も増え、明らかな異常を感じた。
そんなのは母にも父にも
相談できるわけがなかった。
大量のアルバイトの制服(笑)
離婚騒動も無事に決着がついた。
結局母と父は別れ、
私と姉は成人してたし、どっちにもつかず、
二人暮らしをはじめた。
やっと母と父から解放され
とても嬉しかった。
狭い部屋でふたり、
あぁ人生ってこんなに楽しいのかと思った。
バイトから帰ると
疲れたでしょって
お風呂溜めててくれたり、
栄養満点のご飯作っててくれたり、
世間一般のお母さんって
こういう感じなのかな?と思った。
そして大学4年。
姉は転勤で山形に行き、
新たな新居での一人暮らし
(彼もほとんど私の部屋にいたが)
が始まった。
体調も酷く、ゼミには行かなかった。
アルバイトも少しずつ減らしていった。
卒論は家でやり、メール添削してもらった。
卒論のテーマはこれ。
このテーマを選んだ理由や
その他卒論を書くに至っての経緯などは
今度気が向いたら書こうかなꉂꉂ ( ˆᴗˆ )
いろんな文献を読んでくと、自分たちに当てはまる事例もあった。私と姉はアダルトチルドレンなのかな、
卒論を書きながら薄々そんなを考えていた。
アルバイトは生活のために掛け持ちで続けた。彼とは仕事の時間が真逆だった。彼は当時9時〜21時,私は21時〜朝4時。同じ職場だけど入れ違いで、明け方寝顔を見るだけ。シャワーを浴びてまた6時前には仕事へ行った。
冬は原付で帰れず、ガストで仮眠をとった。
明け方の全身の冷えが毎日キツかった。
途中で限界を迎え、アルバイトはひとつに絞った。家で休む日も増えた。
病名はっきりしないまま、
薬漬けの日々をおくった。
そして卒論を出し
何とかギリギリ卒業した❁︎
教員採用試験は受けなかったため、
離婚騒動の合間に内定を得た
保険代理店のコールセンターに就職。
座っての仕事で私の身体にとっては
とても良い環境だった。
しかしそれでもなお私には無理があった。
最初の5日間のお泊まり研修から
痛み発作炸裂。
夜中に発作を起こし、同期が気付いて、
上司を呼んだ。
上司もすごいびっくりしたとか。
熱も下がらず、
部屋は予備の部屋にうつり、
研修は休み休み半日ずつ出た。
ごはんはスーツ姿のお偉い上司を
目の前にしてパジャマで食べた笑
ホテルでおかゆ食べていた。
いきなり研修から同期と別行動で
大きく遅れをとった。
でも同期は私の分をしっかりフォローしてくれて、内容を共有してくれた。
研修に出てもすぐ痛みが来て、
上司におんぶされ部屋に戻る
その繰り返しだった。
会社での仕事が始まり、
部署のメンバーに恵まれた。
私の机の横には
常に毛布が敷けるスペースが確保され、
異変に気付いた上司がそこまで連れて行ってくれた。
何かあると薬を飲ませ、
ホットタオルやら白湯を用意してくれた。
早退する時は、無事に家に着いたらメールしてねと言われ、優しさ、ありがたみを感じた。家まで送ってもらう時も多々あった。
ラッキーなことに
出だしから新卒ではトップの成績で、
また
全体でも表彰される成績を取り、
部署達成もしていたため、
なんとか痛みを持ちつつも仕事ができた。
成果を上げることで、何とか居場所を作った。休みの日は大好きなカフェで
勉強した。
先輩にも積極的に質問し、
体調が良い時は居残りして勉強した。
病気だからこそ、
居場所を作ろうと人一倍の努力はした。
でも結局は
周りの人に申し訳ない気持ちが
1番前に出てしまい、
正社員として働くのは今の私じゃ無理
と感じ、1年弱で辞めてしまった。
でも今でも仲良くしてくれる先輩もいて
私は人に恵まれてると実感してる。
その後はフリーターとして
いくつかの仕事した。
どの仕事も体調面で迷惑をかけまくった。
突然の発作に怯えながらも
生活の為に働いた。
周りの人に恵まれ、
痛みの恐怖を抱えながらも
何とか続けて来れた。
帰り道土砂降りの中倒れ込んで
びしょ濡れになったこともあった。
道端でしゃがみ休むことも多々あった。
痛みだけじゃない色んな恐怖に怯えた。
逆に多くの人の温かさを感じた。
子どもが好きで始めた塾講師は
上から評価され、
正社員にスカウトしていただいた。
正社員は負担が大きいため断って、アルバイトとして続けていた。
しかし身体のことがバレた途端
クビ。
その頃には手首や指の関節まで
痛みが広がっていた。