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​生ききる!

2018.06.28 13:47

https://www.mitori-bunka.com/%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81%E3%81%AB 【​生ききる!】より

はじめに

 私が医師を志した動機は、自分でいうのもおこがましい話だが、一人でも多くのがんの患者の命を救いたいと言う純粋な思いからであった。

実際に医師として社会に出て関わり始めたのは当時死亡率が第1位の肺癌の患者で、直接治療に関われる呼吸器外科であった。腕の立つ外科医を目指して日々手術に明け暮れる日々を送っていたが、思いとは裏腹に現実は厳しく治療成績は悲観的なもので、多くの患者を看取ることを常とするような状況であった。その当時は、早期発見・早期手術が患者にとっても治療者にとっても唯一の希望であり、多くの患者ががんとの闘病の末次々と亡くなってゆく現状に、ただ医術だけではどうしようもない大きな壁にぶち当たる中で出会ったのが『緩和ケア』であった。医術というスキルを超えて患者と向き合うホスピスケアの可能性に魅せられて、50歳の節目でメスを置きホスピスケア医としての道を選ぶ決断をして、現在の松山ベテル病院の門をくぐり本格的に取り組みだした始まりである。それから20年が経ち、当時の思いは冷めることなく今も現場で患者・家族の皆さんと向き合う日々を送っている。

 仕事を始めた当時は、しっかりとした系統的な教科書と言えば洋書の原著しかなく、病棟での日々の様々な症状への対応に右往左往するばかりで、症状緩和がうまくできず昼夜を問わず駆けずり回る日々を送っていた。そんな日常の中で、外科医だったころの疾患に縛られた視点から、人間としての一人の患者の生き方に寄り添うケアの在り方に、医療の原点を看るような思いで過ごせる自分に喜びを感じる日々でもあった。ちょっとした心無い前医でのスタッフの言葉に傷つき、ホスピス病棟でのスタッフの優しさに心の傷が癒されてゆく患者や家族の姿にホスピスケアの持つ力に魅了されていた。

 医療の現場では、“患者が先生であり患者に学べ”とよく言われている。しかし科学の発達はより客観的なデーターを基にした正確な治療の在り方が求められている。病気の治療が全面的に重要な局面ではデーターはとても大切な評価の指標となる。抗がん剤治療中の患者に頻回に採血検査を行うのは、抗がん剤の副作用で白血球が減少してしまう事があり、その結果肺炎を起こしてしまった場合時として致死的な結果に繋がる危険があり、頻回なデーター収集は治療を安全にかつ確実に行うためには不可欠なものである。その一方で、病気を持った人は病気だけではなく社会で生活して行くための様々な問題を抱えながら生きて行かねばならない。“患者に学ぶ”という医療の基本が、高度に専門化された治療の現場では時として忘れ去られている現状があり、緩和ケアは病気を持った“人”を看るという視点を示す医療の基本であると言える。

 人を看る視点は思うほどたやすいものではなく、多くの患者と接する中から少しずつ実感として身につけて行く時間がかかるもので、そんな中で出会ったのが正岡子規の随筆『病床六尺』であった。子規は当時死に至る病と恐れられていた結核に罹り35歳という短い生涯を閉じている。この随筆は子規が新聞「日本」に明治35年5月5日から亡くなる2日前まで連載され、死と向き合う人の嘘偽りのない心情を余すことなく表現し、病による苦痛・煩悶、果ては号泣する苦しみにもかかわらず、ふと感じる日々の生活の中での喜びや楽しみをユーモアをもって記されている。さらに、人生を賭して取り組んでいた近代俳句創出への熱い思いも書き綴られている。子規の文章は、死と隣り合わせで過ごしている人間でなければ感じることができない生きる事、死ぬこと、日々生活する事の素直な思いが余すことなく表現されているのもで、ホスピスケアを学ぶものとして終末期ケアにおける貴重な記録と言える。

 ホスピスケアという視点から『病床六尺』を読み解くことで、生きる力へのヒントであったりケアする者への寄り添う力になる事を期待している。

​子規と結核

 では、『病床六尺』をひも解いてみよう。

「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へ足を延ばして体をくつろぐことも出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つこと、癪にさはる事、たまにはなんとなく嬉しくてために病苦を忘るるやうなことがないでもない。・・・・・・・病人の感じは先ずこんなものですと前置きして・・・・」

第1回目の書き出しである。子規は明治35年9月17日に亡くなっているが、病床六尺はその年の5月5日に連載が開始となっているので、子規の人生の最後の4か月余りを記録したものとなる。書き出しの「病床六尺、これが我世界である。・・・」からイメージすると子規は畳2枚程度の空間で生活していたことになる。トイレは別としても食べる事、寝る事、人と会う事、などなど、生活のほとんどをタタミ2畳の中で過ごしていた事になる。この様な身の上になったのは子規が結核に罹ったことが始まりとなるが、まず結核から話を始める事にする。

 記録によると子規は22歳の時(明治22年5月、1889年)に喀血をきっかけに肺結核と診断されている(注1)。その当時の結核と公衆衛生事情について見てみると、肺結核は明治期の近代化の波に乗って都市部で爆発的に流行している。当時、肺結核は肺病と呼ばれていたが、明治15年(1882年)コッホによって結核菌が発見され、肺病が結核菌によって発病することが証明された。明治37年(1904年)に「肺結核予防二関スル件」の内務省令が出され、結核が喀痰により伝染するという当時の学説に基づき、公衆の集まるところには痰壷を置き、痰の消毒を行い、結核患者が居住した部屋、使用した物品は消毒するように決められている。子規は明治35年に亡くなっているので、制令に基づく感染対策の徹底が行われる以前に自宅療養をしていたことになり、一般市民に流布する知識の中で療養していたと想像される(注2)。日本における人口動態統計は明治31年に「戸籍法」が制定されその翌年から全国統計が始まっているが、子規が亡くなった明治35年頃の死亡順位は第1位は肺炎、第2位に結核、第3位が脳血管疾患となっている。子規が発病した当時の一般の人達の肺結核に対する恐れの統計的な根拠がなかったとしても、死に至る病として認識されていたことは想像に難くない。子規は本名を常規というが、明治22年に喀血しその翌年の随筆『筆まかせ』第2編 明治23年の部「雅号」に「去歳春喀血せしより子規と号する故」という記述ある。子規とはホトトギスの異称で、ホトトギスは口の中が赤く鳴いている姿があたかも血を吐いているように見える事から、自分自身の身の上をホトトギスの姿に映したものと思われる。実際に子規は喀血した時に「卯の花をめがけてきたか時鳥」、「卯の花の散るまで鳴くか子規」などの句を詠んでいる。不治の病で先行きを覚悟した子規の思いと本名との重なりで子規と雅号した子規のその後の人生が見えてくるような重みを感じる。

文献:

注1)和田茂樹 『正岡子規入門』平成5年5月 思文閣出版

注2)青木正和 『わが国の結核対策の現状と課題(1)-我が国の結核対策の歩み-』日本公衆誌 第55巻 第9号 667‐670 2008年