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富士の高嶺から見渡せば

慰安婦問題の裏には北朝鮮が指示した日韓分断工作

2021.06.28 16:45

社民党の福島瑞穂氏が、フランス政府から国家功労勲章「シュバリエ」を受章したという。福島氏が弁護士として戦後補償裁判に関わったことや、死刑廃止やジェンダー平等推進などの取り組みが評価されたらしい。「戦後補償裁判」といえば、日本政府を相手に慰安婦訴訟を起こしたのは福島弁護士と高木健一弁護士だった。福島氏は韓国に渡って「元慰安婦」らと接触し、金学順(キム・ハクスン)氏を原告になるよう説得した。そして日本政府から賠償金を勝ち取るための訴訟の筋書きを書き、金さんに答弁の仕方まですべて指南したのが福島氏だといわれる。

<参考:福島瑞穂氏の説明責任~「慰安婦問題」のシナリオライター>

金学順氏は貧しい親に売られてキーセンハウスの養子となり、そのキーセンハウスの義父に連れられて中国に行き慰安婦となったと自ら告白していた人物で、そんな「強制連行」とは何の関係もない人物を被害者に仕立て、損害賠償請求訴訟をでっち上げたのである。当然ながら裁判は、最高裁まで行って敗訴している。福島氏らの提訴の目的は、戦後補償問題の解決とか女性の人権の回復などというより、日本を徹底的に貶めて時の政権に打撃を与え、日本と韓国・北朝鮮を対立関係に追い込むという政治的意図があったのは間違いない。こんな人物に国家功労勲章を贈るというのだから、フランス政府の見識も権威も地に墜ちたものだと思う。

<日韓分断工作として日韓「慰安婦」共闘>

コリア国際研究所の朴斗鎮所長は、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の成立には、実は社民党の前身である日本社会党が深く関わり、挺対協の結成には「日韓分断」という目的があったと論じている。

<朴斗鎮TV2020/5/21「暴かれた元慰安婦支援団体の正体~「挺対協」と「正義連」~」

1980年代まで慰安婦問題は韓国ではほとんど問題にされなかった。むしろ日本では「慰安婦」や「従軍慰安婦」という言葉が様々な形で提起されていた。1972年沖縄が返還され、沖縄で暮らしていた裴奉奇(ペ・ポンギ)さんが自身の身分を証明する必要から1975年に「慰安婦」だったと証言した。しかし「慰安婦」というが、裴さん自身は「見知らぬ男から『仕事せんで金儲かるところがある。行かないか』と言われ、釜山から船を乗り継ぎ、渡嘉敷島に渡った」というだけで、渡嘉敷島などという狭い島に慰安所があったとは思えず、「慰安婦」だったという証明はない。しかし、慰安婦だと名乗ったのは1975年の裴奉奇さんが最初で、マスコミの好奇の目に晒されることになる。元毎日記者・千田夏光による新造語『従軍慰安婦』というタイトルのフィクション本が出版されるのが1973年、詐話師・吉田清治が虚構本『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版するのは1977年だ。

そうした中、1987年6月、韓国で民主化宣言が出された直後の1987年8月、長崎で開催された原水爆禁止世界大会に、のちに挺対協を結成する母体となる16の女性団体の一つ「韓国教会女性連合会」会長の李愚貞(イ ウジョン)女史が参加し、社会党婦人会議の清水澄子氏に接触し、北朝鮮と連携する手助けを依頼する。この時、KCIAの監視と妨害を恐れて長崎湾に浮かぶ船上で韓国教会女性連合会、日本社会党婦人部、北朝鮮統一戦線部傘下の祖国統一民主主義戦線の3者による秘密会談が行われ、3者の連帯をどう実現するかの謀議が行なわれた。そのとき密約として決まったのが「アジアの平和と女性の役割シンポジウム」の開催と、そのための実行委員会の結成だった。なぜこの名称にしたかというと、この名称なら日韓の左翼と北朝鮮の連携とは分からなかったからだと清水澄子氏は回顧する。

(朝鮮総連機関紙「朝鮮日報」2002年6月6日付、清水澄子「李愚貞さんを悼む」参考)

挺対協が慰安婦問題に関与したのは1990年の結成以後からで、それは日朝国交正常化の政治的な動きと関連していたというのが、朴斗鎮所長の見方だ。

海部内閣だった1990年9月、金丸訪朝団として平壌を訪問した自民党と社会党は「日朝3党合意」をまとめ、国交正常化後の補償問題を取り上げた。その3党合意に基づいて1991年1月、平壌で日朝国交正常化予備会談が行なわれ、この過程で北朝鮮は、日本の賠償金1兆円獲得と日韓分断戦略としての慰安婦問題に目を付けたという。こうした政治的背景をもとに1990年11月に挺対協を結成。1991年5月に日本社会党婦人会議が組織した「アジアの平和と女性の役割シンポジウム」が東京で開催され、1987年8月の長崎での密約が実行に移された。この時、北朝鮮からは祖国統一民主主義戦線のヨ・ヨング代表と韓国からは挺対協代表の尹貞玉(ユン・ジョノク)氏が参加。両者は南北共闘に合意し、これ以後、挺対協と北朝鮮の繋がりが強まることになったほか、日韓の左派団体と北朝鮮が慰安婦問題で共同戦線を張ることになった。

その後、1992年9月に平壌で「第3回アジアの平和と女性の役割シンポジウム」が開かれ、清水澄子氏や李愚貞氏が金日成主席との会見を果たすが、ここから慰安婦問題を利用した北朝鮮の日韓分断工作と賠償金増額作戦が本格的に動き出すことになったという。

挺対協はその後、北朝鮮の意向に沿って、慰安婦のおばあさんを助けるという名目で、日韓分断作戦を実行し、この動きは尹美香(ユン・ミヒャン)氏が挺対協の理事長になってからいっそう明確になった。それは尹美香氏の夫とその妹が北朝鮮のスパイとして逮捕され、有罪判決を受けたことからも分かる。

この挺対協の実態について、チュ・ドンシク「地域平等の市民連帯」代表は「すべての運動は、問題の解決を模索することにあるが、尹美香と挺対協は慰安婦問題の解決を望んでいない。彼らに必要なのは問題の解決ではなく、問題の深刻化、悪化、慢性化であり、その問題がそのまま維持され大きくなることだ」と指摘し、「それは運動ではなく、陰謀のための企画であるだけだ」と批判する。

チュ・ドンシク氏はさらに「挺対協は、日本政府の補償金を慰安婦ハルモニたちが拒否するようにあらゆる術数をめぐらし、そのお金を受け取ったハルモニに対しては「娼婦、売春婦」と罵倒した。このような行為を通じて彼らは、より根源的には日韓、韓米関係を破壊し、大韓民国を「金氏北王朝」と中国の手に委ねようとした。これらの不純な意図のために国民が甘受しなければならない被害は計り知れない。歴代政権がこの問題について通常の感覚を持っていたらこれらはすべて国事犯、反逆罪で処罰されていた」と指摘した。

<朴斗鎮TV2020/5/21「暴かれた元慰安婦支援団体の正体~「挺対協」と「正義連」~」

ところで、福島瑞穂氏は、河野談話が出される前に行なわれた日本政府による慰安婦女性への聞き取り調査にも立ち会ったとされる。日本社会党として挺対協や北朝鮮への支援だけでなく、慰安婦問題を利用した日韓分断工作にも深く関わり、その舞台裏も熟知しているはずである。本人は黙して語らないが、フランスの勲章授与というニュースは改めてそのことを思い起こすきっかけとなった。

「挺対協」とその後身である「正義記憶連帯」による日韓分断工作は、日韓の民族感情を利用してこれまで見事な成功を収めてきたかに見える。しかし、その過程で挺対協・正義連帯の「利権化」と「聖域化」が進み、この団体がいかに腐敗し、汚い「慰安婦ビジネス」の金儲けをいかに手広く展開してきたか、図らずもその正体を世界に晒すことになったのである。

ソウル南山の「記憶の場所」慰安婦246名の名前を刻んだ碑