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富士の高嶺から見渡せば

「慰安婦像」を子供にどう説明するのか②

2017.01.16 07:09

釜山総領事館前の「慰安婦像」をめぐり、日韓の間の外交的亀裂が深まるなかで、次期大統領候補の藩基文氏は「像の撤去が条件なら(日本政府が韓国に送った)10億円は返すべきだ」と発言した。国際法の番人であるべき国連事務総長まで勤めた人物が、ウィーン条約など国際法を完全に無視する態度はいかがなものか。『シンシアリーのブログ』には、「とある店で(普通の韓国人が)『慰安婦像を設置するのは合意違反ではない。日本が像に文句を言うのが合意違反だ』とする超理屈をリアルで聞いたことがあります。多分、こちらが合意違反するのは正当な権利で、日本がそれを指摘することこそが不当なことだから、真の合意違反だ・・とでも思っているのでしょう」とある。

http://ameblo.jp/sincerelee/entry-12235214790.html

韓国人はどうしてここまで「上から目線」になれるのか。日本人は彼らに見下される状況をいつまで続けなければならないのか?こうした関係をやめにして、歴史問題では未来志向で「対等の立場に立つ」というのが、日韓合意の精神だったはず。彼らが、日韓合意を破棄したいと望むなら、おおいに結構だ。「最終的かつ不可逆的解決」という合意によって、欺瞞に満ちた「慰安婦」問題の真実を世界に訴え、わが父祖たちの名誉回復を行うことさえ困難になっていたからだ。「日韓合意」破棄は、もう一度、慰安婦問題の虚偽と真実を世界に訴え、むしろ韓国や中国のほうが女性に対する深刻な人権問題を抱えていることを世に晒すいい機会になるかもしれない。

<「性奴隷国家」はむしろ中国や韓国だった>

ところで前回のこのブログでは、韓国の幼い子供たちが「慰安婦像」に関する説明を聞いて、当時、わが子を取り戻すために立ち上がらなかっただらしない親や、戦後何十年もこの問題を放置し続け何の対応もとらなかった政府に、大いに不安や疑問を抱くのではないか、と書いた。

一方で、われわれ日本人から見て、不可思議に思うのは、韓国や中国の大人たちが、自分の子供や孫たちに「慰安婦」の何たるかを教えるとき、彼らには自身を省みて、恥ずかしさやためらいといったものはないのだろうか、ということだ。

そんな疑問を抱くのは、韓国も中国も、彼らの民族の歴史には、「慰安婦」や「性奴隷」に類する人々をさまざまな形で生み出してきた過去が厳然としてあり、今なお、女性を商品として扱う「性の交易」が、それこそ政府の幹部を含めて日常的に行われ、売買春ビジネスは一大産業として活発に機能している現実があるからだ。曇りなき子供たちの目を見て、韓国や中国の大人たちは、人間として、民族として、天地神明にかけて自分たちの主張には一点の非の打ち所もなく、悪いのは「いまだに謝罪も反省もしない鬼畜のような日本人だ」とほんとに言い切れるのか。

具体的な事例を示してみよう。古来、シナ大陸と朝鮮半島の王権・支配者は、互いに朝貢・冊封関係を結び、朝鮮半島からは「貢女」(こうじょ)と呼ばれる女性がシナの皇帝への貢ぎ物として大量に献上されてきた。朝鮮半島からシナの宮廷への唯一の献上品はそうした「女奴隷」だった。

台湾出身の評論家・黄文雄氏によれば、「韓国は世界でもっとも代表的な性奴隷国家であり、人類史上最長の性奴隷国家として近代まで存続してきた。朝鮮の王朝は唐代以降、貢女や献女として性奴隷を朝貢品として宗主国に提供し続けてきた。さらに戦略的商品として半島はるか西方にいるチンギス・ハーンにまで性奴隷を贈与していた。元・明の時代は朝鮮貢女の最盛期であった。売春立国は決して朴政権からではない。すでに高麗朝の時代から政府による軍妓(これこそ正真正銘の従軍慰安婦)の売却が行われ、アジア最大の娼妓輸出国となっていた。清の時代、台湾北部の炭鉱町にある売春宿は朝鮮人娼妓だらけだった」(黄文雄著『米中韓が仕掛ける「歴史戦」』ビジネス社2015年P90~91)。中国も韓国も「性奴隷」が取り持つ関係に長年依存してきたのである。

後漢の末期、西暦184年に起きた黄巾の乱のあとから三国志の時代にかけて、50年間にわたる内戦で、シナの人口は5600万人から400万人まで急減し、本来の漢民族は絶滅したといわれる。黄巾の乱のあと人間がほとんどいなくなった華北の平原には、北方からユーラシア系の諸民族が次々侵入して定着。そのあとに続いたのは、異民族国家が林立する五胡十六国と南北朝の戦乱の時代だった。(『岡田英弘著作集Ⅱ世界史とな何か』藤原書店2013年P270)

北方異民族による度重なる侵入や、互いに覇を競って争いあう内戦では、街や住民を「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす」、いやゆる「三光」と呼ばれる焦土化作戦が伝統的に行われてきた。また古来、シナには「洗城」あるいは「屠城」という言葉がある。住民をひとり残らずみな殺しにして、ひとつの街(すなわち「城」)を空っぽにすることだ。家々を焼き払い、婦女子は手当たりしだいに略奪、暴行した。「資治通鑑」には、「将兵たちは人を殺すのを、あたかも草刈りの気楽さで、面白がってやっていた」。「流血は川をなした。これを洗城という」などの記述にあふれている。(麻生川静男著『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(角川SSC選書2014年p70~73))

「三光」や「洗城」「屠城」といった風景は、日本人居留民230人を残虐な方法で殺害した「通州事件」(1937年)や国共内戦時代に共産軍が半年間に渡って長春市を完全包囲し、市民30万人から70万人を餓死させたといわれる「長春包囲戦」(1948年)まで、彼らのDNAとして連綿と引き継がれているのではないか。(続く)