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自由を取り戻す権利。

2021.06.30 00:08

私は、何者かになりたいわけじゃない。

会社社長とか、デザイナーとか、建築士とか、スピリチュアルカウンセラーとか。。。

何かの肩書きがついたらピンとこない。

でも、人に自分を説明するときには何者なのかをわかってもらいたいと思うから、つい肩書きのようなものを考える。

そのときにいつも、

「私は誰?」「私は何者?」という問いにはまってしまう。

30代の後半にこの問いが私から離れなくなり、

死んでいるような生き方をした数年があった。

答えを見つけたい。

でも、見つからない。

私は誰?何者?何のために生まれて来たの?

建築の仕事を手放し、

いろんな仕事を転々とし、

花屋のバイトから、ミスドの店員、美術品の輸送梱包、パソコンのインストラクターに、掃除の手伝い。。。

一定の仕事に就かず、でも、お金がないと生きていけないと思い込んでいた数年。

死んだように生きていた。

 

私はそこから自由になった。

そのきっかけは「精神哲学を実践する。」だった。

私のど真ん中にいつもあるのは

「知ってるだけじゃ、本当にわかっているとは言えない。」だ。

なぜかたくさんのこと(情報)が入ってくる私。

昔は体も若かったし、それらに追随するように動き回ることができた。

でも今は、耳をすませ、内側から聞こえる声を聞き、

湧いてくるものが情報であり、それに沿って動くと決めた。

とは言え、精神哲学を実践する。ということって、実は「修行」なんだってことも、のちに氣がついた。

 

私は、知ったスピリチュアル情報を「生きるために実践する」ことをただただやっているだけの人間だったんだ、と。

だから、肩書きが見えなかったのだ。

あえて表現するなら、実践者だ。

ウンウン。そうそう。

よく、もう修行はいいよ。なんていうけれど、この地球に生まれて来た限り、何らかの重りを背負って生きてるわけで。

その逃れられないみんなが持っている重り。

 

それが肉体だ。

肉体がある限り、この地球で生きることには「制限」がかかる。

自分の自由を一番最初に止めようとする重し、それが肉体。

私は物心ついた時から、「向こう」に帰りたがっていた。

ここ(地球)に生きているのが、なんて「重く」て「回りくどくて」「しんどい」と思って、早く解放された「楽な世界」に生きたいと、幼稚園入る前から思っていた。

そうか。

楽になりたかったんだ。

 

で、私は、この地球にいながら、肉体を持ちながら、

いかに「楽になるか」「自由に生きるか」を「実践」して来たんだ。

 

ウンウン。

しっくり来てるぞ。この言葉。

家を作るということを通して、私はそれらを伝えたい。。。違う、自分がそう生き続けたいんだ、実践したいんだ!

 

で、共にその実践で魂を磨き合う仲間ともう一度出会いたいんだ。

 

ただそれだけだ。

 

 

伝える。。。ていうことをしないと、共鳴が起きないから、伝えるだけで、私の魂は「生きる」ということを「実感する」「魂の実践している人たち」と共にいたいだけなんだ。

 

でもね。究極をいうと、みんな魂のやりたいことをやってるわけで、みんな「それをやっている」ということもわかっている。

 

だけど、あえて、そこに【自由】を重ね合わせるのが私の得意とすることなんだ。

 

私と話して「楽になる」という人は、だいたいが、その人がやれなかったことに「許可を下ろしている」からだ。

やっていいじゃん!

何でダメなの?

 

ダメな理由を消し、やっていい理由を伝えるだけ。

それだけで、クライアントは楽になる。

 

でもそれって、実はもう、コツさえつかめば、自分で自由になれるんだよ。

ただ、自分で自由になる権利を行使するだけ。ただそれだけなんだよ。

 

自由を取り戻す権利は、一人一人の中にある。

誰に渡してもいけない。

自分で自由になれ!そう私はいつも言い聞かせている。

それを「実践」しているだけ。

 

会社で働いているから不自由です。

子供がいるから自由にできません。

主人がダメだというからできません。

親が反対するからやれないんです。

人の目があるから打ちたくもない注射打ちます。

何か言われるのが嫌だからやるの止めます。

 

 

魂が望んていることの反対をすることが【不自由】と感じるんだよね。

 

自由になって、楽になりたいのなら、

自分で自由を取り戻す権利を使わないと。。誰になぜ許可をもらわなくちゃいけないの?

こういうことを言うと、よく、

「じゃあ、人を殺したいと思ったら殺してもいいっって言うの?」

と反論してくる人もいる。

 

とても言葉を選ばず、乱暴に聞こえるかもしれないけれど、

「魂がやりたいことなら仕方ないのでは?」と思う。

 

本当の本当の本当の本当に、人を殺したいと思っているかどうかじゃないか?

戦えと言われたから。

奪われたと思ったから。

憎いと思ったから。

怒りが抑えられなかったから。

でも、その奥の奥にある魂に、

「本当に殺したいのか?」と聞いたら、

本当に人を殺したいと言う答えが返ってくるだろうか?

惑わされた何かに覆われた本当の自分の声が聞こえなくなったから、殺すのかもしれないよね。

 

ライオンがウサギを食べるためのために殺す。。と言うような自然の摂理がある中で、死生感をちゃんといつも見て生きていれば、

「人間の魂」は殺す(命を終わらせて魂の課題を強制終了させる)と言う選択を取るとは思えないんだよなあ。

 

これも私の精神哲学で、正しいとか間違いなんて知らないけどね。

 

遠回りしたけれど、私はただただ、私を表したいだけ。

私を現したいだけだ。

生と魂をつなぐ実践という形通して自由を取り戻し、

そんな自由な人たちで遊ぶように生きる地球を見たい。

私らしく、楽しく軽やかに、そして、マジに面白く。

ファンキーシャーマンというネーミングがめっちゃ氣にいったのは、そういうところだったんだなあ。

笑家村プランニング

アメノウズメ塾

夢職自遊ハウス

ファンキーシャーマン

ふふふ。どれを取っても私らしい。

うん。いい。