偉人『勝海舟』
幕末の明治維新で世が混乱している最中幕府を守り存続させるために奔走し、徳川の臣下として江戸城無血開城を成し遂げ江戸100万人の命を救った人物が勝海舟である。
今回は彼のように先を見通し行動を起こせるような子供に育てるためにはどうすべきかを考えてみる。
彼が生まれたのは今から200年前の東京両国、貧乏旗本の長男として生まれた。父小吉は自叙伝『夢酔独言』通りの乱暴者として名を知られた放蕩の不良旗本であり、有り金全部を酒や吉原遊びに継ぎ込む有様で、母はその諸行に耐え忍び、その生活は正月の餅さえも買えず親戚から貰い歩き、家の柱を薪にするほどであった。
しかし父は自分のような人生を子供には送らせてはならないと反面教師として学問や剣術を学ぶよう息子を導いている。
父小吉は放蕩者ではあったが町人からは慕われ相談事が持ち込まれることもあり、その事案に対応し行動する父の姿を見て育った。海舟はその様子を目にしながら江戸市中の庶民と交流し育ち、庶民が何気なく話す言葉や生活を見聞きし成長し、江戸の市民が政治に何を求めていたのか、そしてどのような不満を抱えていたのかを肌で感じることができる幼少期を過ごしていた。海舟の優れた社会情勢や時代の移り変わりを読む力はこの幼く貧しき時代に培われたものである。
また大奥に親戚がいた縁で第十一代将軍徳川家斉の孫初之丞の遊び相手として2年間大奥での生活を勤め上げた。幼い子供とはいえ貧しき生活から一転して華やかな大奥に入るのであるから食べ物一つとってもその差をまざまざと感じていたに違いない。
詰まる所初之丞の早世により海舟が幕府に召抱えられる道は閉ざされ父は落胆するも、剣術の道に励むと自ら父に伝え江戸で厳しいといわれる道場へ入門し剣術と禅で精神力を鍛えたとされる。落胆する父の横で次はどうすべきかを自ら考えることこそが彼の最大の強みである。彼がどのような困難にあってもびくともしない精神性は既にこのときに完成したといえる。
海舟は『逆境こそ成長の糧』逆境に立たなければ本物ではないと説いている。こう考えると強かな政治家だといわれる所以が分かる気がするが、この考え方は一朝一夕にできたわけではない。子供の頃から経験によるものでそれらは全て先へ進むための道しるべのようなものである。
西郷隆盛率いる新政府軍は江戸城総攻撃を決め、旧幕府徳川家陸軍総裁の勝海舟は西郷との交渉で江戸城無血開城を成し遂げた。海舟は交渉が決裂するようなことがあれば江戸市中の人々を非難させ城内外に火を放つことを想定し、もう一方では新政府軍が反乱を起こした場合にはイギリス公使から旧幕府への手厳しい制裁を下さないようにと政治的根回しを確りと準備していたのである。どのようなことが起きてもいいように幾つかの選択肢を想定し備えるその政治手腕はすでに子供の頃から繰り返し行ってきた思考力の賜物であったともいえる。
また海舟はこうも語っている。「ある人物をどれだけの人間なのかを見極めるときには、日の目が当っていない時にどのように過ごしているかで図れ、日の目が当っている時には何をやっても上手く行くものでその人となりを判断することはできぬ」と語っている。
自分自身の損得は考えず、世のため人のために正しいとうことをやり通し、たとえ人に批判されようともその批判は他人のもので、自身のあずかり知らぬことであると言い切った。世の中の大勢に流されること無く自身の信念持ってわが道を進めと言い、鈍感力の凄さを平然と語っている強さが彼にはある。これら全ての考え方は幼き頃からの日々の積み重ねで得たものである。
勝海舟は幼き頃から経済的に恵まれない環境にあり、結婚し子供を持ってからも生活は楽なものではなかった。経済的に苦しいと心も貧しくなることがあるが時勢がそうはさせなかった。外国船が盛んに開国を要求し押し寄せ市民の不安がる思いを察知し、外国の知識や学問の必要性を感じる先見の明があり幕府のあり方の矛盾に気付き、幕府よりも日本国の事を優先したのである。
なぜ彼が境遇を恨まず未来を見据えることができたのか。それは育ちである。
貧しさを感じていたのは事実であるが他者を羨ましく思うことなく、自らの境遇を憂えることもせず自分自身で道を切り開くことを明言し実行した。どのような状況になっても対応できるように選択肢を考慮し行動するということが幼き頃より実践されて育っているといえる。このように育てば江戸城無血開城は成し得るべくして成し得た事といえる。
では子育てに於いて先を読める子に育てるためにはどうすべきなのか。
これは幼い頃から先を読んで行動する思考力を付けることに他ならない。乳児は点でしかものを見たり聞いたり行動することしかできないが、予測脳が付き始める頃から点と点を線で結ぶように思考の芽が伸びてくる。このタイミングを逃さないように時系列形式で少しずつアナウンスの範囲を広げていくべきである。そして必ずそのアナウンスの中には思考させる言葉や教えが必要である。時に親はアナウンスが指示になり子供を思い通りに動かそうとする傾向があるが、それでは子供自身が自ら考えて行動することができない子に育て上げてしまう。
父小吉は自分自身の所業の果てにどのような生活があるのかを明らかにし、我が過ちを同じように辿るべきではないと子供に見せる姿勢は天晴れといえよう。また待ち人の相談事を受けどうすべきなのかを行動で見せる父の姿は、やんちゃな父親でも子供には思考と行動の手本としての姿が存在する。私達親は子供が常に背中を見ているとの思いで発言し行動しなければならないのである。しかしそれは成功体験ばかりではなく、小吉のような失敗でも導き方によっては大きな学びになることを彼らが教えてくれている。
またその上に子を思う親の愛情深かさを海舟は感じていたに違いない。その裏付けられるエピソードを最後にご紹介しよう。
9歳の海舟が剣術修行の帰り野犬に襲われ命の危うさに直面した。自らの命と引き換えに息子の回復を祈り水垢離を行い、苦しむ息子の側から片時も離れずにいたそうだ。狂犬病の犬に襲われたことを考えると一命を取り留めたのは奇跡に近いことである。
父小吉は直感的に息子が歴史上大事を成し遂げる人物になると確信していたのだろうか。