Okinawa 沖縄 #2 Day 121 (04/08/21) 旧玉城村 (12) Miibaru Hamlet 新原集落
旧玉城村 新原集落 (みいばる)
- 新原ビーチ
- 竜宮の神
- 産井泉 (ウブガー)
- 西井 (イリガ-)
- 中の御神 (ナカヌウカミ)
- 新原公民館
- 東の御神 (アガリヌウカミ)
- 内森山 (ウチムリヤマ)
- 井泉小 (ガ―グヮー)
- 上真栄城 (イーメーグスク)
- 中井泉 (ナカガ-)
- アガリムティ
- 北の御神 (二シヌウカミ)
- 平間グスク (ヒラマグスク)
- ミーフガー
- イリーハンタガマ、アマミツの墓 (百名文化財)
- ハンタの井泉 (百名文化財)
- 古墓、龕屋跡
またまた、台風が近づいて来ている。天気予報は正午過ぎから雨と強風予報となっている。外を見ると日が照っている。沖縄では天気予報はあてにならない。以前も終日雨予報で外出を断念したが、一日中晴れで悔しい思いをした事が何回もあった。雨が降れば、どこかで雨宿りをすれば良いし、止まなければ、雨の中濡れて帰って来れば良いと思う様になって来た。と言う事で、思い切って出発。数日前に訪れた玉城集落まで向かい、その海岸線を走り、前回最後に訪れたサチバル井泉まで来た。ここの岬を越えると百名区に入る。百名区の海岸地域に新原集落がある。今日はこの集落を訪れる。予定ではまず本村の百名集落を訪れてからと思っていたが、午後からの天気に不安があるので、文化財の数が比較的少ない新原集落を訪れる事にし、天気がまだ保っていれば、百名集落の文化財の一部も見れれば良い。
旧玉城村 新原集落 (みいばる)
新原は百名南部の海岸沿いに立地する旧士族の村。1922年 (大正11年) に百名から分離独立して百名二区になった。ただ、字としては独立分離は出来ず、相変わらず字百名の一地域のままで住所も百名で現在に至っている。この新原集落の始まりは、琉球王統時代、18世紀後半に遡る。首里のなげ網漁業をを営んでいた森山家の人が海岸づたいになげ網をしながら新原海岸にやってきたところ、この海岸は遠浅のため漁量が多い。そこで漁業で暮すには最適な場所と認め、ここに移り住むようになって新原部落の歴史が始まったと伝えられている。それから小波津家、真栄城家が移住するようになり、1879年 (明治12年) の廃藩置県の頃までには高嶺、島袋、城間、大城、石嶺、玉城、屋比久の各家が移り住むようになり、1922年 (大正11年)、行政区として百名より分離し、百名ニ区として独立区長を置くようになった。新原部落は、明治・大正と半農半漁で生活している。住みよい静かな部落であった。しかし、1928年 (昭和3年) に、大火災に見まわれ、火は折からの東風に爆られ、東から西へ集落40軒のうち34軒が全焼する大惨事となった。住民はこれにもめげずなお奮闘努力を重ね、各家や部落の立て直しに励み、昭和17~8年頃には災害時以上の生活までになった。1944年 (昭和19年) より日本軍が駐屯するようになり、1945年 (昭和20年) には、戦火が激しくなり、自分の家を捨てて壕生活を余儀なくされ、その間米軍の砲火によって建物の大部分が焼かれてしまった。村内では百名と本部落の住民が戦後、真先に旧部落にもどることができ、残家屋を利用したり、仮小屋を健て避難民の収容地となった。農耕も他の部落よりも先に行なわれたため、終戦直後の食糧難時代も僅かながら他の部落よりは落ち着きをとり戻すことができた。本部落は、地理的にあまり恵れず、経済的変動の少ない所であるが、海に面し風光明美で、ビーチあり、近くには観光客が訪れる受水・走水、三穂田、浜川御嶽、天孫氏御嶽、ヤハラッカサ等の名所があり、海水浴客で賑わい、民宿、海の家、レジャー施設などがある。
新原集落の人口データは1960年からしか見つからず、大正時代に集落が独立した時点での人口は不明。1960年では旧玉城村では下から三番目だった。それ以降人口は減少している。近年も人口も戸数も減少傾向にある。
地理的に民家が広がる余地がほとんどないため、民家の分布は大正時代からほとんど変わっていない。
新原集落は琉球王統時代には集落としては認識されていないので、琉球国由来記には御嶽や殿は記載されていない。
新原集落訪問ログ
新原ビーチ
今まで那覇から島尻の海岸線を走ったのだが、殆どの海岸線は崖になっており、道路沿いに砂浜が長く続いているところは少ない。ビーチとして整備されているところの多くは崖を下って砂浜に出るといった感じだ。この新原ビーチは砂浜が長く続く天然ビーチで、隣の百名ビーチと合わせる2kmもの長さになる。
大潮の干潮時には沖合のリーフまで歩いて行けるほど遠浅の海。今は新型コロナ感染対策で緊急事態宣言下で、海水浴客は少ない。海の家や、レストラン、船の底がガラス張りのグラスボート、マリンスポーツのバナナボート、カイトボートも休業中だった。ここ数日は感染者数が連日最多を更新して急激に増加している。県も外出自粛を要請しているので、更に訪問客は減少しているのだろう。
竜宮の神
新原ビーチの上、新原集落西端に竜宮の神と呼ばれている拝所があると資料には書かれていた。掲載されていた写真を頼りに探すも見つからない。ビーチの有料駐車場の店番をしている青年に、地元に人か確認して、写真を見せて尋ねるが、知らない、多分百名の方だろうと言う。地図ではこの辺りとなっているのだが、若い人は知らないケースが多い。自力で探す事にした。付近の畑や丘を探し回って、やっと見つけた。先程の青年が店番をしていた駐車場の裏にあった。この拝所は色々な海の神や龍宮の神を祀っているそうだ。また、中国に渡り客死した先祖を遙拝しているともいわれている。かっては浜で拝んだが、現在ではこの拝所で拝むようになっている。
産井泉 (ウブガー)
竜宮の神のすぐ前の大きな岩場の麓に産井泉 (ウブガー) 跡が拝所としてある。この井泉の前にある池は、稲穂をくわえた鶴が降りたいう稲作発祥伝説に出てくる米作地といわれている。(この鶴と稲穂の伝承は今まで2-3の集落にもあった。沖縄ではポピュラーな物語) 井泉の前にはその稲作発祥の地の碑が二つも立っていた。終戦直後まで井泉の前方に水田があったそうだ。正月の若水や産水として利用されていた。「南城市の御嶽」ではこの井泉はカラウカハとも呼ばれていると書かれているが、カラウカハ (ハンタの井泉) はこの井泉の上にある丘陵の麓にあった。資料などのほとんどの情報は文献からではなく地元の人からの聞き取りで、このような混同がある。
西井 (イリガ-)
近くにもう一つ井泉跡がある。西井 (イリガ-) で、1960年に起こった大旱魃までは、住民の生活用水として、また海水浴客の水浴び用として利用されていた。祠のそばにあるコンクリート製貯水槽では、青年団がコイを飼っていたそうだ。
中の御神 (ナカヌウカミ)
集落内には自動車が通ることができる道は一つだけ。その海岸線の道を新原集落中心にある公民館に向かい走る。その途中、道路沿いの広場に中の御神 (ナカヌウカミ) の拝所がある。この広場は庭小 (ナ―グヮー) と呼ばれたので、この拝所は庭小ヌ御嶽 (ナ―グヮーヌウタキ) とも呼ばれている。ムラの守護神が鎮座する場所といわれる。戦後の一時期、貯水槽が置かれ、その水は集落住民の生活用水として使用された。
新原公民館
公民館に到着。公民館の前の駐車場も海水浴客用の有料駐車場になっている。集落内にはいくつも有料駐車場がある。一律500円と良心的な値段。(無料駐車場は無さそうだ) ここにも番人の爺さんがいた。爺さんに断り、自転車を停める。自転車は無料。これ程多くの駐車場があるということは、コロナ禍でなければ、多くの客が来るのだろう。停まっていた自動車は一台だけ。ここも経済的に大変だろう。番人の爺さんに気になっていたことを聞いてみた。この新原集落は漁師の村として始まったのだが、海岸には漁船が見当たらなかった。漁師は何人ぐらいいるのかと聞くと、ゼロで、今は商売として漁師をしている人はいないそうだ。当時の漁師は海岸からの投げ網漁だった。海岸は砂浜で漁船を停めるようなところは無い。時代とともにこの漁法では商売にはならなくなったのだろう。今は農業、サラリーマン、観光業で生計を立てている。
東の御神 (アガリヌウカミ)
公民館に自転車を停めて、集落内の文化財を見学する。公民館の前の駐車場になっている広場の中にウフガマと呼ばれる大岩の下に、東の御神 (アガリヌウカミ) があり、東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ) ともよばれている。祭神は丑ヌ方ヌ神という。かつてはウフガマの上で拝んでいた。
内森山 (ウチムリヤマ)
中の御神 (ナカヌウカミ) と東の御神 (アガリヌウカミ) の間ぐらいの所、海岸に近くに内森山 (ウチムリヤマ) と呼ばれている拝所がある。新原の根屋にあたるそうだ。祠は戦後に造られたもの。1780年頃に森山家が首里で網漁業を営んでいたが、新原海岸に来て漁量が多いと判断して、この地に移り住んだ。これが新原集落の始まり。この拝所がある敷地には民家は無く、家庭菜園の様な場所になっていた。かつてここに住んでいた森山家の嫡系は那覇近郊に移住したといわれている。
集落内の文化財へは人が一人通れるぐらいの路地を通る。集落を突っ切る道から南の海岸と北の丘陵に何本も細い路地が走っている。典型的な海辺の村だ。故郷の小豆島の村を思い出させる。
井泉小 (ガ―グヮー)
次は公民館の北側の文化財を見学する。公民館からの細い路地の奥に井泉小 (ガ―グヮー) と呼ばれた井泉跡があった。飲み水には適しておらず、洗濯等のための生活用水として使用されていたそうだ。
上真栄城 (イーメーグスク)
井泉小 (ガ―グヮー) の奥に阿氏前川門中 (名乗り頭は守) の元屋 (ムートゥヤ―) の神屋がある。阿氏前川門は、森山家の次に新原に住み始めた真栄城家で、集落の有力門中となり、村落祭祀で拝まれるようになった。(祭壇の写真は南城の御嶽から拝借)
中井泉 (ナカガ-)
公民館の北西方に中井泉 (ナカガ-) と呼ばれる樋川井泉がある。集落の中央部にあるので中井泉 (ナカガ-) と呼ばれるようになった。夏も冷たい水が湧いているので、飲料水として使用された。
アガリムティ
中井泉 (ナカガ-) の向かいにある小波津門中の元屋 (ムートゥヤ―) がある。小波津家も真栄城家と同様に森山家の次に移り住んだ家だ。(祭壇の写真は南城の御嶽から拝借)
北の御神 (二シヌウカミ)
公民館の北の傾料面に広がる畑地に北の御神 (二シヌウカミ) がある。クーリ御嶽とも呼ばれている。クーリとは「崩れ」という意味で、この辺りは古い時代の風葬場だったといわれている。
平間グスク (ヒラマグスク)
新原集落の北東に接した石灰岩段丘上に平間グスク (ヒラマグスク) がある。新原集落の人たちは、この場所の畑一帯をヒラマグスクと呼んでいるが、グスクに由来するロ碑伝承は伝わってない。新原集落の形成が18世紀後半で、グスク時代以降だということで、集落はグスクがあった時代にはまだ存在していなかったので伝承がないのだろう。平間グスクは、山の中にあり、新原貝塚が形成されていた石灰岩の岩塊周辺は沖縄貝塚時代後期の遺跡の一部で、このグスクの南側から南西部一帯を隔す障壁の一部になっていた。グスクの周辺には石灰岩の岩塊がいくつも屹立し、独特な石灰岩地形を形成している。ヒラマグスクはこれらの岩塊を活かして防御ラインにし、岩塊と岩境の間にできた平地空間を曲輸として巧く取り込んで築かれている。グスクの四周は岩塊によって囲まれ、さらにグスクの後方にあたる北側には石灰岩丘陵台地の崖が迫っている。主郭は近年まで畑地として利用されていたようだが、現在耕作されすに藪に覆われ、立ち入り禁止状態になっている。西側には切り立った岩塊があり、その上からは南の方向に太平洋の広大な海域を挑望することができる。このことから、このグスクの機能の一つは、海から近づく船舶を見張ることであったと考えられると考えられている。この平間グスクが独立した按司が治めていたようには思えず、近くにある玉城グスクか垣花グスクの出城として、物見としての機能だったのではないだろうか?
ミーフガー
集落からみて北西にある南城市福祉センター南の傾斜面の中腹にミーフガーと呼ばれる古墓があると資料にはある。集落の北側の丘陵中腹の自動車道路の脇に山道の入り口があった。この道を登っていくと、丘陵の上にある南城市福祉センターに出てしまった。ここにいた男性にこのミーフガーの場所を尋ねるが、この名前は聞いた事が無いと言う。ただ登って来た道は百名と新原を結んでいた唯一の古道で、そこには幾つかの墓跡があるので、案内してくれる事になった。
男性と一緒にもう一度、来た山道を降り、途中脇道に入るとさがしていたミーフガーがあった。大岩の下に石が積まれている。周辺に散っていた古い時代のものといわれる骨が祀られているそうだが、男性もどの時代の誰のものかはいい伝えがなく不明だと言っていた。
イリーハンタガマ、アマミツの墓
このミーフガーの他にもう一つの墓跡にも案内してくれた。ミーフガーよりも道を上の方にある。この墓は資料では百名集落の拝所に分類されていたが、ここで記載しておく。男性も資料に載っていた事とほぼ同じ内容の説明をしてくれた。ここはイリーハンタガマ、又は、イリーハンタ上の墓と呼ばれている。百名集落ではアマミキヨ族の墓、または、住居跡といわれ、仲村渠集落ではミントン門中の祖先の古墓といわれている。戦前までは洞穴 (ガマ) があったが戦時中、米軍の艦砲で岩が崩れて塞がれてしまった。ほぼ同じ場所に地元の偉人と伝わるアマミツの墓もあるのだが、資料の写真が不鮮明でどれかは確信がない。アマスのミツーの墓といわれる。この墓は仲村渠集落によってクルク山のミントンのトウーシー、カーミンヤーのアサギのアジシーの拝所と共に神御清明 (カミウシ―三―) に拝まれている。
ハンタの井泉
ミーフガーから山道を降りて来て自動車道路を少し下ったところに井泉がある。天孫ウッカー(カラウカハ)と書かれている。この井泉は資料により、又地域により様々な呼び方をしている。百名集落ではハンタの井泉や米地井泉 (メージガー) と呼んでいる。字新原では天孫子井泉 (テンソンシガ-) と呼んでいる。伝承では、アマミキヨの一族が使用した井泉とも、天孫氏 (アマミキヨの子孫) の井泉ともいわれる。仲村渠集落ではここが米地 (稲作発祥の地) だと伝わっている。新原集落ではこの井泉の下方にある産井泉が稲作発祥地としている。今となってはどこが稲作発祥の地などはわかるはずもない。知念のウファカル百名の受水・走水と新原の産井泉、天孫子井泉などが稲作発祥の地とされている所があるのだが、この地域に稲作が広く行われていたという事が重要だ。各地の共通の伝承は約700年程前、中国から稲穂を嗤えて飛んできた一羽の鶴が暴風にあってこの地に落ち、その稲穂がここで芽を出した。 早苗は先程墓があったアマミツが受水・走水の水田 (御穂田) に移植し稲作が始まったという。 新原集落でも初ウビー (若水取りの 儀式) などの行事に拝まれている。
古墓、龕屋跡
案内をしてくれた男性は、ミーフガーのある丘陵斜面の下に龕屋が置かれていたが今はもうなくなっていると言っていた。この辺りに龕屋があったのかも知れない。上り道があり、その入り口には井戸跡らしきものがあった。
これで新原集落にある文化財訪問は終了した。まだ雨も降りそうではなく、時間もまだあるので、海岸沿いにある百名の名勝の受水・走水 (うきんじゅはいんじゅ) 、ヤハラヅカサ、浜川御嶽を訪れた。訪問レポートは百名集落訪問時に含めることにする。この拝所を訪問後帰路に着く。風はどんどんと強くなり、自転車が持っていかれそうになる。危険なので、歩道に上がり、ゆっくりと帰ることにした。台風が近づいているのだろう。自宅付近まで来た時には、雨が降り出した。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査 I 南部編 (2001 沖縄埋蔵文化財センター)
- 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)
- 玉城村誌 (1977 玉城村役場)