F.Chopin、ドルレアンから出て行く人々…クレサンジェに再び会うショパン
チェルリー宮殿前19世紀頃とショパン肖像画よりイメージ
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ショパンは毎日書簡を書くのが日課になっていた。書簡の合間に弟子のレッスンをするか、レッスンの合間に書簡を書くか、どちらでもショパンにとっては同じことだ。
それほど忙しくしていたのだ。
新しい年を迎え、外は雪が降っていた。ルドヴィカに心配かけぬよう、「それほどこの冬は寒くない」と言ったショパン…。ホメパシーは誰から勧められたのか流行りなのか、特に何に効くわけでもないがショパンはレッスンで聞かされる工事現場のような下手くそな音に耐えるため、時々ホメパシーで気を紛らわし、
自分の耳をごまかしながら、『そこは、
素晴らしいけれど(お世辞)、ここをもう一度弾いていただけますか?この音はあなたは、dを弾いていましたね、ここはdesですよ、
さあ、もう一度どうぞ、ここから、は』
『ショパン先生、そこは、ご指摘のように私のミスでしょう…わかっているのですが、指がやりにくいのです、私にはこの曲は向いてないのです…もっと簡単な曲に変えてもらえませんか?』
『そうですか、あなたのお気持ちはわかりました。今度はツェルニー◯番をさらって来てください、指をこのように、、練習してみてください。』恐らくこんなやり取りにうんざりしながらもショパンの天敵ツェルニー様をこんな時には使ってみたりと…次は来なくなる生徒もしょっちゅうなのだ。もう昔のようにショパンも若者ではないからチヤホヤはされない。
『今日も酷いのがいたな、それに比べて、ロスチャイルド夫人とロゼールはずっとましだ…特に注意することもなく…』ショパンはこの二人は演奏の出来が良いと思っていた。
ショパンは入れ替わり立ち替わり来る中産階級のわがままなご婦人の相手は早く時間が過ぎないかと頭が痛くなるのだ。
ショパンは気が滅入ると、時々はパリの街の様子を観に出かけたりしていた。パリ音楽院の主任教授で親友のフランショームのために「チェロソナタ」を書き上げ出版しお披露目演奏会もしたものの、相変わらずショパンには定職というものがない…。全くお呼びが、かからないショパンなのだ。フランショームからもあれから何も音沙汰がない…教授というものはそんなものだ…と、考えるとショパンは息が詰まってくるのだ…ショパンはパリ音楽院にことごとく冷遇されてきた。何もかもショパンには厳しすぎた、これ以上どう自分を納得させろと言うのだ、憤りを感じる日もあれば虚無感に襲われる時もあるショパン…。支えてくれた亡き父ニコラスからはもう手紙が来なくなって4回目の新年だ。喪失感は和らぐどころか日が経つほどに寂しさが増す…。
ショパンには定職というものがない…作曲家、ピアニストという不確かな職業…
著作権もない時代一回一回が売ってお金に変えたらそれまでだ。続の収入の保証はない…。
街は相変わらず薄暗く、空気は重苦しかった。年が明けてもパリの環境が良くなる兆しはなかった。サンドがドルレアンのアパルトマンの鍵を管理人に返却したあと、息子モーリスのために同じ塔の中でサンドが借りていた部屋の鍵もとうとう管理人に返却された。
ひとりふたりと三人とドルレアンのアパルトマンから逃げるかのように住人が出てゆく。
なぜだ、サンドは本当にショパンと別れたことだけが理由だろうか…。
パリの情勢はざわついていた。それでもショパンは直ぐにはドルレアンのアパルトマンから出て行けない。
年が明ける前には、クレサンジェに再びショパンは会いに行っていた。
ソランジュからの書簡を届けに行ったのだ。
ショパンは新年をパリではなく、ソランジュの居るギルリで迎えるようクレサンジェを説得したのだ。
ソランジュからの新年の挨拶の返事を買いたショパン、
「嬉しいお言葉をいただき、ありがとうございます。」ショパンにはお金を返さない人たち。言葉だけでもありがとうと社交辞令を交わすショパン。「彼(クレサンジェ)は展覧会のための彫刻に没頭していたので、すぐにパリを離れることができなかったのです。」仲を取り持つショパン、
ショパンは聖人だかショパンも人間なのだ、
この役回りに本当は疲れてうんざりなのだ。
それでも、管理人ララック氏にモーリスの住んでいたドルレアンの5号室の鍵は返されたとソランジュに丁寧に報告したショパン。
ソランジュはサンドから短い9行しかない書簡を貰ったとショパンに不満を漏らした。
「9行の代わりに90行をノアンから受け取るようになりますよ。
おばあさんは若いお母さんの幸せを分かち合うでしょう。
あなた方の心を元に戻してくれるでしょう。」
希望的観測を書くショパン、どうにか丸く収まってほしいのであろが、サンドをお婆さんと書いたことをサンドに知られたら…。恐ろしいことになりかねない、ショパンは、そんなことはもうどうでもよかった…。
間違えではない43歳でサンドはおばあさんになるのだ…。
そして、
「フランソワ・ル・シャンピと呼ばれる新しい小説が、一両日中に「レ・デュバ」(討論)に掲載され始めます。ヘッツェル(出版社)は漠然とした発表をしています。
小さな新聞では、「思い出」について書かれていました。マルリアニ夫人はそのことについて、その本は芸術や文学の話題を扱うとのこと。」ショパンはルドヴィカに書いていたように同じようにソランジュにも書いて、マルリアニ夫人と連絡取り合っていることをあえて書いた。
「ラトゥーシュ(だったと思う)という金融業者が、ヘッツェルに資金を提供する。
ヘッツェルにお金を出してくれて、ヘッツェルは単に出版社になるだけだそうです。
」サンドの本の3冊にも及ぶ出版は、
ショパンを悪者にした暴露本に始まり、ショパンを貶める本を2冊も同時に出版したサンド、それに関わっていた人間をショパンは突き止めるために、ソランジュにあえて書いた。それで何か動きがあれば犯人がわかるかると睨んでいたショパンなのだ…。
「 ラトゥーシュ氏がお金を提供したと、
マルリアニ夫人から聞いた」から知っていると酔わせるショパン。
ロゼールは相変わらずである、
「私はあなたの挨拶をロゼールへ伝えました。彼女はまたあなたに書簡を書いていなければ書くでしょう。私はまだ咳が止まらず、レッスン以外の時間が取れません。…」
ショパンは仲介役にうんざりしてくると、
こう書いて書簡を終わりにしていた。
実際ショパンの体調は無理をしていた、
「外出するには寒すぎます。」やはり寒いのだ…こんな寒さの中、クレサンジェに書簡を届けに行ったショパンなのだ。
「どうか皆さんも体調に気をつけて、元気に早くパリに帰ってきてください。
新年はかなり騒がしく始まっていますが、国家警備隊が広場で例年のようにセレナーデを演奏しています。」
パリでは凱旋門の広場で国民軍がセレナーデを演奏していたと書くショパン、雪だが馬車は走っていたのであろか…馬車から観たのであろか…。
ショパンはホテル・ランバートで名付け娘のためのプレゼントを買ったことをソランジュにまでわざわざ書いたショパン。チャリティーの日は31日 だったのだろうか…。不明だが、ショパンは31 日に書いていた。
ホテル・ランバートのポーランド亡命者のためのチャリティーは売り上げ約2万フランだったと、ソランジュに伝え、この後、サンド一家が2万フランを集って来るかを試すショパン…。この時のバザーに、
クレサンジェは小さな水彩画を出品し、
ドラクロワはキリストの小さな肖像画、グーディンやレーマンなども絵を出品したことになっていたが、ショパンはソランジュに言った。
「暗くて見えませんでした。」
ショパンがホテル・ランバートへ行った時にはもう既に日が沈み外は暗かったと言うことだけではないのだ、サンドが裏でてをまわし、ポーランド難民の支援に関わらないように指示したのだ。ショパンはそれを知りながら、裏切り者は誰かを探していた、だから、
単に暗くてよく見えなかったということにしたショパン…。
パリの冬は日没が早い…「雪が降っていて、空はとても暗くなっています。マダム・アデレード(フィリップ国王の妹)が亡くなりました。2ヶ月間*完全な喪に服すことになります。私は息をするのも苦しいですが、皆様のお幸せをお祈りいたします。ショパン」
チェルリー宮殿に護衛に行っていたクレサンジェに最初に会いにショパンが行ったのが
12月の中旬だった。それからもう一度、
くチェルリー宮殿にショパンがクレサンジェに会いに行ったのが12月の下旬だった。
フィリップ王の妹アデレードは12月31日に亡くなったのだが、死因は不明である、
ショパンはルドヴィカにも12月31日を挟んで書簡を書いていたが、どういうわか、このニュースは書いていなかった…。
そして、ショパンはもう書きたくない息苦しさを訴えてソランジュへの書簡を書くことから逃れペンを置いた。
このバザーの2万フランのお金の流れは不明だった。
それから、一月が経ち、サンドはモーリスにパリのアパルトマンに残っている金目の物を取ってくるよう指図していた。サンドはかつてはショパンの仲間であったことの証拠隠滅とショパンから奪った金目の物を自分の物としようとしていた。