深呼吸和歌集2〜身体の叡智〜
Facebook・Taiki Shimizuさん投稿記事
「瞑想を続けていると性行為だけがエクスタシーなのではなく、呼吸すること、ご飯を食べること…人間が自然や他者に触れること日常のすべてがエクスタシーだと気づく。
外見的なものだけが エロさではなく、内部の生命活動そのものがエロスであり、死の瞬間もまた、エクスタシーの極みである。」
・・・・・・
「まぐあい、音楽表現 問わず、 真に繊細で感度のいい人は まぐあい(表現)後の余韻や静寂に痺れている。幸福のあまり身動きできないほどに…。 」
・・・・・・
「現代人のこじらせは、情報過多だったり、「自分」という柵(しがらみ)に 閉じていることなどが要因で、閉じた自分の中でぐるぐると堂々巡りしたり、たくさんある知識や観念が腐敗して、エネルギーの流れが悪くなっている。
他者の不在、生命の響きの不在。
でも 瞑想反応が起こると、自分を縛っていた柵が取れてくる。
「狭」く閉じた自分(柵)が消えることを「狭取り」と云う。
瞑想によって、狭取ると「存在のエクスタシー」が浮上してくる。
・・・・・・
大祓の日に「深呼吸和歌集2」を書いてたのですが、舞踊家の 押井守監督のお姉さん(最上さん)の言葉も良かったので、少し引用させていただきました。
「深呼吸和歌集2」より
https://ameblo.jp/taiki-ism/entry-12683661978.html 【深呼吸和歌集2〜身体の叡智〜】より
なんと寛容なものであることか、地球よ。 私たちはあなたから元素をひきぬき、
大砲や爆弾をつくるのに、あなたは 私たちの元素から百合やバラの花を育てる。
わたしは自然が語ることば、 それを自然はとりもどし、 その胸のうちにかくし
もう一度語り直す。
わたしは青空から落ちた星、 みどりのじゅうたんの上に落ちた星。 わたしは大気の力の生んだ娘、 冬には連れ去られ 春には生まれ 夏には育てられる。
そして秋はわたしを休ませてくれる。
愛する人の手を握っている時間より スマホを握っている時間の方が 長いのは なぜ?
誰かを愛する時間より 誰かを責める時間の方が 長いのは なぜ?
2人の終わりを想像するより、2人の始まりを思してみる。
足りないものを数える前に、いつか消える 今あるものを数えてみる。
溢れる情報が邪魔をして大事なものが見えないように 期待が邪魔をして 本当の貴女が見えない さみしさが邪魔をして ありのままの貴方が見えない 嫉妬心が邪魔をして
嫉妬している自分が見えない よく思われたいが邪魔をして 自分がどうしたいかが見えない
告白せずに終わって何年も悔やみ続ける人は きっと告白してうまくいっていたとしても
いつか 後悔するのだろう
私たちは 過去の思い出を癒そうとしてるのではなく 過去の思い出に癒されようとしている。
外からかける鍵 と 内からかけた鍵
知りたいことは わからないのに 知りたくないことは すぐにわかってしまう貴女へ
まぐあい、音楽表現 問わず、真に繊細で感度のいい人はまぐあい(表現)後の余韻や静寂に痺れている。
幸福のあまり身動きできないほどに…。
瞑想を続けていると性行為だけがエクスタシーなのではなく、呼吸すること、ご飯を食べること…人間が自然や他者に触れること日常のすべてがエクスタシーだと気づく。
外見的なものだけが エロさではなく、内部の生命活動そのものがエロスであり、死の瞬間もまた、エクスタシーの極みである。
立ち位置というのはひとつしかないので、その位置を深くすることで花は咲く。興味はたくさんあっても立ち位置はひとつ。だからこそ世界はあつまる。
物事をわざとぼんやりさせておくことも時に必要。急いで焦点を合わせない。向こうから何かがやってくるときなどは特に。
現代人のこじらせは、情報過多だったり、「自分」という柵(しがらみ)に閉じていることなどが要因で、閉じた自分の中でぐるぐると堂々巡りしたり、たくさんある知識や観念が腐敗して、エネルギーの流れが悪くなっている。
他者の不在、生命の響きの不在。
でも 瞑想反応が起こると、自分を縛っていた柵が取れてくる。
「狭」く閉じた自分(柵)が取れることを「狭取り(さとり)」と云う。
瞑想によって、狭取ると「存在のエクスタシー」が浮上してくる。
「所作について」
特に所作の稽古という形ですることはなく、ただ普段の動きを舞踏的に丁寧にすると所作になる。そしてある閾値を超えると霊性にまで届く。その場合、伝統的に伝わっている所作の形にはとらわれない。過程を体験する事が、大事。
( 舞踊家 / 最上和子 )
過剰な人間は 外側から限定されないと生きて行けないのでは。だからそういう人には運命が落雷のように襲う。修行者や英雄はいかにもな姿をしていない。そこいらの誰かさんのような姿であなたの隣にいて俗っぽく笑っている。
( 舞踊家 / 最上和子 )
映画などでベッドシーンを見ると、そのあとしばらく後味が悪く気分が落ち込む。見てる時はなんとなく見てしまうんだけど。まあ人間だから。なぜ落ち込むのかずっと不思議に思っていた。
ベッドシーンの「シーン」というところがミソだなと。もともと性行為は、している時は自分を客観視はしないものだったのが、映画の登場により「見る」ものになり、それによってエキスが薄れて、もっとも肝心なものが失われたような気がする。それは私に言わせると「神聖さ」だと思う。
( 舞踊家 / 最上和子 (押井守監督の姉))
日本人の身体が貧弱に見えるのは体格が小さいからではなく、誇り(軸)を失っているからだと思う。からだの大きさの問題じゃない。
あたっているかどうかはわからないけど。日本人は近代化で西洋を受け入れたのと、戦争で負けたのとで、身体が激変して、しかもその全てが中途半端で、存在として戸惑ったままこんにちに至っている。昔からあった身体性を失い取り返しがつかなくなってる。身体はそんなに簡単には変われないもの。
( 舞踊家 / 最上和子 )
エネルギーが余っている人や混乱が大きい人は創作するといいと思う。創作は猛烈にエネルギーを吸収する。過剰なエネルギーは現実世界では消費しきれなくて人を痛めつけるが、創作は有り余るエネルギーを注いでも出来ることはわずかしかない。そこで人は生きながら死ななくてはならないから。
( 舞踊家 / 最上和子 )
武術では無駄のない動きをするのは重要だと思いますが、踊りの場合はときに無駄が必要。無駄というより回り道かな。例えば目の前にあるコップを手に取る場合でも、手がコップまでたどり着く道筋は無限にあり、どの道を選ぶのかという面白さがある。
( 舞踊家 / 最上和子 )
昔は年寄りは「いる」だけでよかった。別に何者でなくてもいい。いるだけで空気が変わる。今は年とっても若くいようとしたり走ったりして自分の存在をアピールし続けなくてはならない。これってそうとうキツいことだよ。これこそが人間が個になったことの痛みだよ。
動物を見ていて感じるのは「存在することの威力」「曇りのなさ」だ。
存在することにためらい弁明するのが人間。存在できている人間は滅多にいない。
( 舞踊家 / 最上和子 )
アナタに光がもたらされたとき、あなたの見えないところには影(悪)ができる。
だから、光を受けた人は、光を与えなければならない。受けたものを与えたほうに返すのではない。受けたものをさらに他の人に与えるのだ。悪とは光へのあこがれである。
光への願望である。だが、悪は存在しない。それは光へのあこがれが存在しなければ、光が存在しないからである。
あこがれはひとつの色彩である。色彩はすべてのよろこびである。喜びは光の感情である。
光へのあこがれが光そのものなのだ。それは悪ではない。つまり、悪は存在しないのだ。
私たち一人一人が光のあこがれである。私たち一人一人がよろこびの色彩である。
私たち一人一人が光を受けとるのだ。そして、私たちひとりひとりが光を与えるものでなければならない。
したがって、悪とは光がそそがれるのを待っている器である。それは聖杯と呼ばれる。
私たち一人一人が孤独な肉を着た聖杯である。私たちひとりひとりが悪なのだ。
だが、悪は存在しない。なぜなら、それが善の種子だからだ。
汝、よきおこないをなせ。悪とは 汝の手である。光を受けとる手、それが悪である。
汝、悪を慈しめ。清らかにたもつのだ。汝の手、人の手。
受けとることと与えることを為すために造られた、欣ばしき手よ。
( 詩人 / 河村悟 )
今 一瞬だけでも手放そうとか、安らぎを得ようとか、理解しようとするのをストップしてみる。すると 突然空間と時間の感覚が わずかになくなる 「私」が開こうとしても 開かなかった次元の扉が 自然と開かれる。
これまでは 問題があるから考えなければと思われてきたが、実際は 逆だった。
湧いてきた考えを自分と同化するから問題が生まれていた。私たちは自分の考え(物語)に溺れてきた。『それ』は考えたから理解できるものでは なく、考えが やんだとき、あなたはそれそのもの(答え)になっている。
皮肉なことに、わかろうとする必要性を手放したとたん、あなたはわかる。
そして わかった、と思った瞬間、あなたはわかっていないのである。
あなたは 探し求めているまさにそのものを避けている。
そして避けようとしているまさにそのものを探し求めている。
チベットには、テルマという将来役に立つことを見通して、マスターたちが聖典や教えの痕跡を、時空を超えて封印しておく伝統があります。
それが必要な時期になると意識の深いレベルで封印を解かれるものがあり、これを意識のテルマと云う。
「アルクトゥルス瞑想」や「コアスター瞑想」などは、意識のテルマの一つで、桜の花が適切な時期になれば、自然と開花するように、個人の霊的成長に応じて、解かれるように仕組まれています。