温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第73回】 マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房,2021年)
ハーバード大学教授マイケル・サンデル氏(以下敬称略)の新刊本「実力も運のうち 能力主義は正義か?」を読みおえた。前に読書の途上で本書について触れたが、読了して改めて感ずるものを少しだけ述べたい。その前に本を読むといった行為についてだが、自分でものを書くようになってからなのか、読書の仕方が変化しているのに気づいた。それが良いのかどうかわからないが、目の前に他人が書いた一冊があるとして、それを読んでいくときに、書かれている文字に目を通しつつも、同時に何が書かれていないのか、語られていないことは何なのか、それは何故なのか、そういった視点を頭の片隅に自然と留めおきながら読んでいるのだ。決してあら探しをするような気持ちは無いが、きちんとした書き手になればなるほどに、そこで語ることよりも、語らずにいることが多いように感じており、その境界線を意識しつつ本と向き合うようになった。素直な読み方ではないかもしれないが、身についてしまった一つのスタイルだと思って受け入れている。ゆえに、今回のサンデルの本はそうした読み方をしている。
私などがいうまでもないが、サンデルの特筆するべき凄さは論理性の強さである。今回、同書は能力主義(メリトクラシー)といった一つのテーマに絞って展開されている。人が持つ能力や努力に基づく功績は、社会や市場において最大限の評価と対価(報酬)を得るのが当然だとの考え方を巡って、現在のアメリカで起きている問題に切り込む。名門大学の学位が社会での成功を左右する現実から、そこへの入学を巡る熾烈な争いと不正の存在、卒業後の学位を持つものの就職と報酬に比して、それらを持たない者たちの現状、今日あまりにも大きくなった貧富の格差など社会の実情を炙り出していく。
そして、こうしたものがトランプを大統領に当選させる後押しとなったこと、他方で、能力主義と道徳をレトリックの上で巧みに使いこなしたオバマ、ヒラリークリントンなどへも手厳しい評価がなされている。(今回、サンデルの本を読みながら、同時にバラク・オバマの自伝を並行して読んでいたので大統領経験者と政治哲学者の想いの違いを同時期に感じられたのは良い学びとなった)
果たして自分が持つ能力の限りに出世することが、本当にその当人に値することなのか。そうした能力とは本当に自分のものといえるのだろうか。能力と努力でつかみとった功績は自分が独占することを許されるべきものか。これについて精緻な展開をしていくサンデルの論理にスキを見出すことはまず至難である。論理を使っていく具体的なツールとしては10年ほど前に出版された「これからの正義の話をしよう」の中で登場したロールズ、アリストテレスといったおなじみの哲学者が登場し、そこに経済学者のハイエクやキリスト教神学などが加わってその重厚さも増している。この本の帯には「右派も左派もみんな本書を片手に着席し、真剣に議論しなければならない」(ニューヨーク・タイムズ紙)とのコメントがあるが、たしかに議論をさせるにはもう十分すぎるくらいのものだ。
ただ、社会に問いかけ、問題提起と議論させるべく指向して配慮したサンデルが、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とばかりに、本書において語らなかったことは何だろうか。少なくともこの本で定めた境界線はどこだろう。それをギリギリ匂わせる文章をひとつ私が選ぶとすれば次の部分だ。
「能力主義信仰の魅力の大半は、次のような考え方にある。すなわち、少なくとも適切な条件下では、われわれの成功は自分自身の手柄なのだという考え方だ。経済が、特権や偏見で汚染されていない公正な競争の場であるかぎり、われわれは自分の運命に責任を負っている。われわれは自身の能力に基づいて成功したり失敗したりする。われわれは自分が値するものを手に入れるのだ。・・・・だが、自分の才能は自分の手柄ではないと認めてしまえば、この独立独行というイメージを維持するのは難しくなる。偏見や特権を克服しさえすれば正義にかなう社会が到来するという能力主義的信念は、疑問にさらされる。自分の才能が、遺伝的な運あるいは神によって授けられた贈り物だとすれば、われわれは自分の才能がもたらす恩恵に値するという想定は誤りであり、うぬぼれなのである」(第5章「成功の倫理学」)
最後の数行で「遺伝的な運あるいは神」といった直截的な言葉をサンデルは使っているが、他の章などではこうした言い方をまずしていないのだ。
サンデルは能力主義をめぐって追及の手を緩めないが、他方でやはり配慮をしている。象徴的なのはたとえば哲学についてはアリストテレスを起点とするが、まずもってプラトンなどは使わないのだ(名前くらいは登場するが)。なお、プラトンは有名な「国家」という作品において理想のポリス(社会)を語る上で、人間を3つに分けて議論している。一番上を支配者、次がそれを補佐する人たち、最後に働く者たちといった分類であり、上から、知恵、勇気、節制といった素質を持つことを生まれながらに期待されて階級をわけている。
ただ、支配者が個人的にいい思いを出来るかといえば、そうではなくこの人たちは私有財産を持つことなどほとんど許されず、ただひたすらに公のために尽くすことを期待される。また、3つの階層は固定化されておらず、素質で分類されていても、後天的な成長と功績次第では上にも下にも行けるひとつの能力主義(メリトクラシー)のようなことを論じているのだ。ただ、サンデルは、優れた才能を持つ者が私的快楽をほとんど許さないプラトンのモデルから倫理性を問いかけるようなことはしないし、能力のある者がそれなりの金銭的報酬を求める欲求までは否定しない。
プラトンは善のイデアといった理想世界を想定して物事を議論するが、アリストテレスは経験的世界、いうなれば現実の中で議論をする。プラトンは選ばれし者については遠くにある真実をわかるとするが、アリストテレスはもっと現実の観察の中にそれを見出すべく努める。こうした意味ではサンデルはアリストテレス的な視座を枠としながら、「遺伝的な運あるいは神」といったわかりえないものがある可能性を言及しつつ、それ以上はこの境界線を越えずに重厚な論理を構築しているのだ。なお、私見だがサンデルはアリストテレスを手段として割り切っており、その文脈からはそれほど信頼してないようにも感じる。(他方で人間の理性には所詮わかりえないことがあるとしたカントについては信頼しているように思える)
サンデルが語らなかったことは、アメリカの現実政治のなかで政治哲学が存在理由を失わないように安全装置をかけたように思う。もっともサンデルは共通善という倫理性の担保を政治に期待しておらず、コミュニティのなかで市民が互助しつつ生きていくなかで保たれることに期待をかけている。
10年以上まえに前著にあたる「これからの正義の話をしよう」を読んだとき、私はいつかサンデルの講義を直接受けてみたいと思った。その思いは実現しなかったが、10年経ってみると不遜極まりないことを承知の上で対談できたら幸甚だなと思ってしまう。そして語られなかったことや語られるべきではないことの価値について聞いてみたい。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。