ZIPANG-5 TOKIO 2020 神々の島「隠岐」& 後鳥羽院「海士町(あまちょう)」総集編[3]
神々の島「隠岐」
玉若酢命神社
「延喜式」に載るこの神社は、水若酢神社とともに島後では由緒ある神社であります。
当社は、隠岐国の総社で、惣社大明神ともよばれた。
本殿は、隠岐にある神社の最古のもので、造営は寛政5年(1793年)で、隠岐造りといわれる建築様式。 屋根は、茅葺き、千木、堅魚木、のうえに雀踊(すずめおどり)とよぶ横木がおかれ、素朴ななかににも威厳のある建造物であります。
毎年6月5日に隠岐島後三大祭りの一つ「御霊会風流(ごれえふりゅう)」が行われます。
玉若酢命神社「御霊会風流」
隠岐郡西郷町下西の玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)で毎年6月5日の祭礼日に行われる神事です。行事の最大の呼びものは午後に行われる「馬入(うまいれ)れ神事」です。
玉若酢命神社は隠岐国の総社で、隠岐の国守が隠岐中の神社にお参りするかわりに神々を玉若酢命神社に集めましたが、そのとき神々が馬に乗って参集されるということから「御霊会」といい、「馬入れ」の行事が行われました。
その後、祭礼は「田植式」に続いて「流鏑馬(やぶさめ)」の儀、神輿(みこし)の渡御(とぎょ)も行われます。 かつては島前島後から48頭の神馬(しんめ)が参集しましたが、元禄13年(1700)に島前から島後へ来る途中難破し、島前の人馬とも海中に没したことから、島後に限られ、現在では8頭の神馬が8地区から参加します。
それぞれ6人の引き手によって、8頭の神馬が随神門(ずいじんもん)前から社頭へ一気にかけぬけるさまは、もうもうたる砂煙、馬のいななき、引き手のかけ声、見物人の歓声があがり、この祭りの圧巻です。
これは武良(むら)祭風流、水若酢神社の祭礼風流とともに隠岐三大祭の一つに数えられ昭和40年(1965)5月に県の無形文化財に指定されました。
玉若酢命神社「古墳群」
玉若酢命神社境内の西側丘陵の尾根に連らなる15基ばかりからなる古墳群である。丘陵の頂上に作られた古墳は、隠岐では古い様相をもつ前方後円墳で、全長33mある。他の古墳は直径十数mの円墳である。このうちの一基は横穴式石室を内部構造とするもので、6世紀後半ごろに営まれたものである。おそらく古墳群のなかでは前方後円墳がいち早く作られ、盟主的存在であったと考えられる。
この古墳群のある一帯は国府原古墳群(こうのはらこふんぐん)、斉京谷古墳群(さいきょうだにこふんぐん)など5世紀代に築かれた古墳の最も密集する地域である。昭和47年(1972)7月に県指定史跡となった。
日本最古の延喜式神名帳(927年)掲載神社4選
延喜式にも登場する神社4選 現存する日本最古の歴史書とも言われる「古事記(712年)」 その冒頭にある”国生み神話”によると、イザナギとイザナミが、淡路島、四国に次いで3番目に生んだ島といわれているのが「隠伎之三子島(オキノミツゴノシマ)」――現在の隠岐諸島です。
隠岐諸島の中で最大の島である島後を「親島」、知夫里島・西ノ島・中ノ島を「子島」として、”親島に率いられた三つの子島という意味”だといわれています。
また、日本最古の全国神社リストである「延喜式神名帳(927年)」に載っている神社が、小さな島の中に16社もあります。
強い力を持つ神を祀る神社には「名神大」の格が与えられ、現在の島根県のエリア(令制国で出雲国、石見国、隠岐国の3国)では名神大社が6社あり、そのうち隠岐には4社(伊勢命神社、水若酢神社、宇受賀命神社、由良比女神社)もあります。 後鳥羽院 総集編に先立つて隠岐の4大社をご紹介します!
隠岐国一宮「水若酢神社(みずわかすじんじゃ)」
延喜式に名神大社と記された、隠岐國の一宮である「水若酢神社」。
祀られている水若酢命(ミズワカスノミコト)は、隠岐の国土開発と日本海鎮護をされた神様だと伝えられています。
創建の由緒は未詳ですが、社伝によると人徳天皇の時代に創建されたと言われています。
本殿は隠岐造りと呼ばれる建築様式で、国の重要文化財に指定されています。
隔年の5月3日に開催される例大祭は島後の三大祭りとしても知られており、日本古来の山車が曳かれ、流鏑馬などの神事が行われます。
参道脇には映画「渾身」の舞台ともなった土俵が設けられており、20年に1度の本殿屋根の葺き替え時には夜を徹した「隠岐古典相撲」が行われます。相撲は2番勝負で行われ、1本目に勝った方は2本目に勝ちを譲り1勝1敗にすることが特徴です。両力士が勝敗のしこりを残さず互いに讃え合う、島の人々の人情から「人情相撲」と呼ばれています。
貴重な神楽が受け継がれる
「伊勢命神社(いせみことじんじゃ)」
西日本最大級の黒曜石の産地である久見集落にたたずむ「伊勢命神社」。
続日本後記(869年)に「仁明天皇嘉祥元年、明神の列に預かりし趣名記せられ延喜の制に於いては名神大に列せられた」とあり、六国史に名神大社列格の理由を明示する数少ない例となっています。
*嘉祥元年:848年
毎年7月に開催される例祭は、弓矢を持ち鎧兜を身に着けた武者が先導する隠岐でも珍しい形で行われ、例祭に合わせて境内の神楽殿で催される「久見神楽※」は夜を徹して行われ、畳二枚ほどの広さで舞う古い形を残しています。
※久見神楽(詳しくは「隠岐神楽」の項をご覧ください。)
県指定無形民俗文化財。隠地神楽の1つ。久見神楽は、伊勢命神社の例祭日に、神事の後、「儀式三番八乙女神楽」を夜を徹して行います。
伊勢命神社の本殿
建築様式は「隠岐造」と呼ばれ、
①屋根が出雲大社の「大社造」
②庇の部分が春日大社の「春日造」
③全体的な柱の立て方が伊勢神宮の「神明造」
3つの建築様式をあわせた、隠岐ならではの様式になっています。
*水若酢神社も「隠岐造」
宇受賀命神社(うづかみことじんじゃ)
海士町にある名神大社の「宇受賀命神社」。
創建は842年より古く、祀られている宇受賀命(ウヅカノミコト)は、この地の守護神として伝えられています。
古来より朝廷の崇敬が篤く、時の有力者より社領や神田など、たくさんの寄進がありました。
伝説には、西ノ島町の「比奈麻治比賣命(ヒナマチヒメノミコト)」の美しさにひかれた宇受賀命。同じく姫に求婚する大山神社※の神さまとの力比べに勝利したことにより、姫と結ばれたと伝えられています。姫との間に柳井姫(ヤナイヒメ)が生まれ、「奈伎良比賣神社(なぎらひめじんじゃ)」の御祭神になったとされています。
この御子神をお産みになったのは明屋海岸(あきやかいがん)という絶景スポットで、明屋海岸から宇受賀命神社にいたる海岸線の道は、日本海唯一の神々の婚姻に由来され「縁結び、子宝、夫婦円満」のご利益のある道です。
※大山神社:隠岐の島町布施地区の中心から1kmほどの所にあり、神社といっても社殿はなく、鳥居をくぐると御神体である樹齢400年の老杉があるだけで、一山全体が神社として祀られています。
この神社の例祭である「布施の山祭り(島根県無形民俗文化財)」は、4月初丑(うし)の日、山の神の御霊を鎮めるために行われるいわゆる山開きであります。 祭礼の前日、若者たちが御神木に巻く大かずらを山から切り出してくると、4m近い大榊を担ぎ村内を練り歩く、これが帯裁(おびた)ちの神事であります。
明けて丑の日、この日は帯締(おびじ)めの神事が行われる。昨日の若者たちに村の人々も加わり、一行はまず南谷の大山神社へ向かう。型通りの祭式ののち、若者たちが大かずらを手に御神木の横へ一列に並ぶ。大太鼓にあわせて木遣りを歌いながら大かずらをゆすり、気合いのそろったところでかけ声もろとも一気に神木に7巻き半巻きつける。
そして最後に巻き上げたかずらに男の子を持つ村人が小さな幟を奉納する。このあと中谷の大山神社、村の荒神様でも帯締めをして大山神社の祭礼が終わる。
これらの神事は、山仕事の安全を祈る山開き行事にあたり、近年まで林業が盛んであった布施地区の生業に根ざしています。
宇受賀命神社の御朱印は隠岐神社へ
御朱印は、後鳥羽上皇を祀っている「隠岐神社」で手に入れることができます。
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、亡くなるまで19年間を隠岐で過ごしました。
もう1つの一宮「由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)」
名神大社であり、平安末期には隠岐国一宮にも定められ、由緒も古く社格も高い「由良比女神社」。 由良比女神社の創建は古く、仁明天皇の時代(842年)官社に預かったと記されています。
伝説によれば、この社の元は知夫里島の鳥賊浜にありましたが、西ノ島の由良へ移されてからイカの群れが来なくなり、イカたちが由良へ集まったと言われています。
また、由良比女命が芋桶に乗って出雲大社から隠岐へ帰るときに、海に浸した手をイカが嚙みついてしまい、お詫びのしるしに由良の浜にはイカの群れが押し寄せるようになったと伝えられています。
境内の灯篭や拝殿にはイカの彫刻が刻まれ、西ノ島町の建物の壁やマンホール、ゆるキャラにもイカが登場します。
神社の目の前にある「イカ寄せの浜」
由良比女神社例大祭
祭りの朝、式典と相撲が奉納されます。そして、夕方からは御輿が繰り出され、神船のつながれている港まで練り歩きます。御輿が船に乗ると出航し、湾内を1時間程度かけて巡航します。この間、船上の御輿の前では島前神楽※が奉納されます。着岸後、一夜御仮殿に留め、翌日、御輿を再び神社に担いで帰ります。
※隠岐島前神楽は、
①巫女による神懸かりの形が保存されている。
②出雲神楽の元の形が残されている(古い形態のまま保存されている)。
③演戯のみでなく、神事の要素も保存されている。ことから、県指定無形民俗文化財(海士町と西ノ島町の隠岐島前神楽)に指定されています。
隠岐神楽
石見神楽 神々に祈りを捧げる「六調子神楽」
石見神楽 平安時代の妖怪を源頼政が退治する「頼政」リアリティな表現「八調子神楽」
出雲神楽 雲南市槻屋神楽保持者会
出雲神楽 出雲國大原神主神楽保存会
隠岐神楽 島前神楽
隠岐神楽 島後 久見神楽
隠岐神楽は、石見神楽に代表されるような「見せる神楽」とは異なり、素朴で古風な神楽です。また、出雲や石見の神楽では神職が舞っていたが、隠岐神楽では神楽専業の家系「社家(しゃけ)」が舞っていました。
かつては、隠岐の島町(島後)では13社家、島前では5社家が神楽を行っていましたが、現在では、地域住民によって行われています。
隠岐神楽は、神社への奉納に限らず、豊作・大漁祈願、雨乞い、疫病退散、航海安全、などを祈祷するために行われていました。そのため、巫女が重要な役割を果たしています。
隠岐神楽は、隠岐島前神楽と島後神楽に大別され、両方の神楽に共通する演目でも内容が異なるなど、その芸風に違いがあります。
隠岐島前神楽の特徴は、速めで賑やかな囃子(はやし)に、舞い手が舞台中央の約4畳上や船上で舞います。また、隠岐島前神楽だけの演目(大蛇退治の「八重垣」)もあります。
一方、島後神楽は、周吉(すき)神楽と隠地(おち)神楽に分けられ、悠長な囃子に、舞い手が、舞台中央にある約2畳の大変狭い板張りの上で舞います。
隠岐島前神楽奉納公演
日 時:令和3年10月17(日)17:00~
会 場:隠岐神社境内
内 容:県の無形民俗文化財に指定されている島前地区に伝わる「隠岐島前神楽」を奉納。
なお、隠岐郡在住以外の方は後鳥羽院顕彰ツアーに申し込むと指定席で行事に参列できます。
「海士町(あまちょう)後鳥羽院」総集編
「即位」
後鳥羽天皇は治承4年(1180)に第80代天皇の高倉天皇の第4皇子としてご誕生。即位前は尊成(たかひら)親王となります。第79代天皇の後白河天皇の孫にあたる系譜で、第81代天皇の安徳天皇の弟君となります。母君は藤原(坊門)信隆の娘・藤原殖子で、院号の七条院で紹介されている方で書籍も多く残っております。
後鳥羽院像 伝藤原信実筆、水無瀬神宮 所蔵(ウキペディアより)
後鳥羽天皇の即位は、平安時代から鎌倉時代への移行に大きく影響を受けました。
寿永2年(1183)、当時の政権の主導権争いである源平の戦いは激しさを増します。その時は安徳天皇の御代でした。安徳天皇の母君は平家の当主・平清盛の娘ということもあり、源氏が優勢になると平家一門は天皇を奉じて西国に拠点を移しながら反攻の機会を伺います。
しかし都では天皇が不在となり、朝廷の運営は混乱をきたします。そのため朝廷で院政を行っていた後白河院の聖断により、第80代天皇であった高倉院の皇子より第4皇子を第82代天皇とすることが決定されます。後鳥羽天皇は、この時、わずか4歳でした。
その2年後、安徳天皇が壇ノ浦の戦いでお隠れになります。この時、三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣)も海に沈んだとされます。(後に海より引き上げられますが、剣だけは見つからなかったと伝わります)
屋島合戦図屏風 香川県立ミュージアム 所蔵
屋島合戦における代表的な武勇伝を描く。画面中央から右にかけて那須与一が扇の的を射落とす場面、また画面上部中央に平家方の悪七兵衛(あくしちびょうえ)景清が、源氏方の三穂屋(みおのや)十郎の兜(かぶと)の錣(しころ)を引きちぎる場面などを描き出している。画面左下には源義経と弁慶の姿もみえる。江戸時代に数多く制作された屋島合戦図屏風の一つで、特に本図は人物描写を大きくするところに特徴があり、落款によって守峰なる絵師の制作とわかる。
「院政時代」
建久9年(1198)、第1皇子(土御門天皇)に天皇の位を譲られます。御年19歳。この後、院を構えてご活動を始められますが、以後も朝廷の政治に関わり、院政を行いました。
後鳥羽院については、実は天皇の在位期間中の事はあまり語られません。なにぶん幼少であられたことと、この時代の朝廷の運営には祖父にあたる後白河院の影響が大きかったからと考えられます。
正倉院 琵琶 (東京国立博物館にて)
また後鳥羽院は、院政のみを行っていたのではありません。即ち院のご見識と才能が発揮され、宮廷文化の復興に力を入れ、和歌、刀剣、弓、相撲、蹴鞠、琵琶などにも造詣が深かったことが知られます。
特に、建仁元年(1201)、院の御所に「和歌所」を復興させて、勅撰集『新古今和歌集』の編纂を進めました。なお、この編纂事業の実務を務めたのが、藤原定家、藤原家隆らでした。
こうした事業を推進されたのは、ご自身がお好きであったとされる一方、時代の移行期に長く続いた争乱からの復興の先頭に立つべく、古の時代に学びながらも時代に応じた朝廷像を考えておられたとの研究もあります。
「承久の乱」
承久の乱は、承久3年(1221)に起こった日本を二分する戦いです。
かつては貴族と武士の権力争いとして語られることが多かったのですが、研究が進むにつれ、当時の様々な国内事情が絡み合って起きた戦いであることがわかってきました。
一般的には、戦いのはじめは後鳥羽院の発した北条義時追討の院宣とされますが、そこに至るまでには当時の社会不安、西日本と東日本の土地(税)の扱いの違い、朝廷の重点政策に関する地方の有力者の対応の違いなど、とても多くの要因が含まれていたようです。
これについては専門家が最新の説を書籍などにまとめておりますのでそちらをご覧いただきたいのですが、けっして後鳥羽院お一人の考えで戦いに至ったのではないという事をご理解いただきたいところです。
さて、乱の経過としては、後鳥羽院は院宣を出されるのですが、多くの武士団の賛同を得る形で戦いを進めた鎌倉幕府軍が勝利をおさめました。この時に有名なのが、源頼朝の妻であり尼将軍ともいわれていた北条政子が鎌倉方を鼓舞する演説です。
北条政子が日頃から信仰する琵琶湖の竹生島宝厳寺 国重要文化財「弁才天坐像」
琵琶湖の竹生島 宝厳寺
~月も日も波間に浮かぶ竹生島 船に宝をつむ心地して~
そして、この演説の中では、天皇や上皇を直接の敵といっているのではなく、この方々を扇動して誤った政策に進ませている者たちを討つように述べています。
「隠岐に遷幸」
戦いに敗れ、隠岐にお遷りになることが決まりました。隠岐に旅立たれる前、ご出家に先立ち、藤原信実にお姿を写させ御母君七條院に形見として残されました。この御影は現在、大阪の水無瀬神宮に所蔵されています。
後鳥羽院が進まれたルートについては諸説があり、確定はなされておりません。有力な説としては、京から大阪、兵庫、岡山と瀬戸内側の街道を進まれ、今のJR伯備線に近い道で山陰側に移り、そして美保の浜から船で進み、その日の夕刻に隠岐諸島の中ノ島(海士町)の崎の浜にご到着とされます。
なお、美保からの出航までに数日風待ちをしたとされ、その際の美保での行在所と伝わるのが「佛谷寺」(島根県松江市美保関町)です。 また、鳥取県境港市の上道地区には「皇(おう)の松」と呼ばれる松の伝承地があり、それによると院が風待ちをされたある日、ここにあった松の下でご休息を取られ、そこで地元の接遇を受け喜ばれたことに始まるお祭りがあります。
後鳥羽院が夜を明かした「三穂神社」
なお、無事に崎にご上陸の後、一夜の宿を探す間、お座りになられていたという御腰掛の石もあり、その周辺には「やどごい」の地名が残っています。なお、院のお宿とするにふさわしい民家がなかったことから、地区の氏神である「三穂神社」で夜を明かしたと言われています。
そして翌日、再び崎の浜から船で堤という場所まで進まれて、そこからは島の稜線をたどって行在所にご到着になったと伝わります。
「隠岐での生活」
後鳥羽院の隠岐での行在所については、『吾妻鏡』には隠岐国阿摩郡苅田郷と記されており、これが現在の後鳥羽院隠岐山陵のある場所とされます。明治初期までは、この場所に源福寺という真言宗のお寺があり、ここで隠岐での19年間を過ごされたと伝わります。
都とは一変する隠岐の日々で、こころを支えたのは和歌の道とされます。『遠島御百首』『隠岐五百首和歌』をはじめとする成果は、今日さまざまに広がる詩歌文化の道を拓いたとされ、時代時代の歌を志す人の道標ともなりました。また、今から800年前の島の風景や暮らしを検証する資料としての価値もあり、まさに院の和歌により隠岐のルーツを知る事にもつながります。
さらに、隠岐と京都で文をやり取りして成立した「遠島歌合」は、今でいう遠隔を結んでの共創事業ともいえます。後鳥羽院に関する研究は、客観的な事実に基づくものもあれば、研究者が生きる時代の背景を知らず知らずに受けてしまうものもあります。
長く後鳥羽院については、最後の日まで悲しみの日々を送られたと語られてきました。しかし、近年の研究では、後鳥羽院が隠岐においても京都でお過ごしになっていらっしゃった時と同じく、常に過去の日本文化の研究と挑戦にエネルギーを注がれていたようにも描かれています。
また、確たる証拠まではないものの、後鳥羽院を慕った京都の刀剣職人が隠岐に移り住み、院のために作刀を続けたとする「隠岐御番鍛冶」伝説が生まれたのも、院がどのようなお立場にあろうとも、院の目にかなう者こそが一流とする当時の価値観が確立されていたからでしょう。
平成御番鍛治「刀剣奉納」
後鳥羽院は常に最高を求められました。その一つが刀剣で、作刀を担当した刀匠を御番鍛治とも称します。世界でも注目される現代の名匠と隠岐をつなぐ記念事業を検討しています。
平成御番鍛冶任命式、神前打ちの儀
日 時:令和3年10月17日(日)14:00~
会 場:隠岐神社境内
内 容:刀剣文化とゆかりの深い後鳥羽院の御番鍛冶伝承を再現し、現在の第一人者による新作刀を継続的に奉納することを通して、日本の刀剣文化の保全と向上を目指す「平成御番鍛冶プロジェクト」。その1人目の刀匠の任命式と神前での鍛錬技法の奉納を行います。
このプロジェクトでは、別途クラウドファンディングの立ち上げが検討されており、その情報はお問い合わせください。
隠岐郡在住以外の方は後鳥羽院顕彰ツアーに申し込むと指定席で行事に参列できます。
なお、晩年には、仏教の教えを説いたとされる『無常講式』※を残されています。離れた島での時間であっても、何事も極めていこうとするその姿勢の先に、世の無常へとお考えを進ませたのかもしれません。
※国立国会図書館によると
『日本仏教典籍大事典』には写本が京大、東大史料、仁和寺に所蔵と有り『国書総目録』も同じとあります。(国重要文化財)
一方、当時の隠岐の守護は島後に本拠を構える佐々木氏※であり、その監視下での日々でありました。海士町にもその命を受けて、後鳥羽院にお仕えしつつ動静を把握する守護の家来がいたと思われますが、その資料は現存しておりません。日々のお食事、お住いの形状など興味が尽きないところではありますが、今となっては推測しかできないのが残念です。
※佐々木氏は、宇多天皇の皇子・敦実親王が佐々木荘を本拠として佐々木氏を名乗ったことから始まります。源頼朝が挙兵した際に鎌倉幕府の創設に貢献し、近江国を領しました。その後、大原、高島、六角、京極、などに分家しましたが、近江国を二分する形で領有した六角氏と京極氏は、互いに戦いを繰り広げることになります。
なお、昭和29年に公募により判定された近江八幡市の市章は、佐々木六角に由来する六角と八幡の「八」を平和のシンボル鳩の形に置かれたものです。
「崩御」
都からここに遷られたのは42歳をむかえられた時。19年間この海士で過ごされましたが、京都にお還りになることはついにかなわず、都から遠く離れた隠岐の地にて60歳で崩御されました。
その際には、隠岐の責任者であった守護職の佐々木義清※が涙したとされ、いわゆる監視役の立場にあった者でも後鳥羽院のお人柄に惹かれていたことがわかります。
出雲源氏の祖 佐々木義清家紋「花輪違い」
※鎌倉幕府の御家人「佐々木義清」は、佐々木一族武将で佐々木秀義の五男。
出雲源氏の祖。(近江源氏の分流にあたります)。
国宝「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」水無瀬神宮所蔵
隠岐で19年過ごされた後鳥羽天皇60歳の春、ご自身の余命も長くないと覚悟され御自身の両手に朱印を付けしたためられた。これを書かれて2週間後にお隠れになった天皇の御意志である 「我後生を返々とぶらふべし」 との一文により、御霊を水無瀬の地にお遷ししてお祀り申し上げた当宮の起源となる国宝であり、その複製が隠岐神社宝物として海士町後鳥羽院資料館に展示されています。
「崩御後から隠岐神社創建前まで」
隠岐島海士町にある後鳥羽上皇行在所跡と腰掛の松 御火葬塚入り口
亡骸はこの島で火葬されて、御遺骨は京都にお還りになり、京都・大原の里に納められました。今の三千院がある場所です。なお、一部については院の行在所とされた海士の源福寺の境内に、廟をお造りして納めました。
その廟がどのように維持されてきたのかについては記録にない部分が多いのですが、江戸時代に入り、猪熊事件の事後処理で公家の飛鳥井雅賢が隠岐に流されてきたことが転機となります。雅賢は後鳥羽院の廟がほとんど顧みられず傷んでいることを目にし、飛鳥井家として修復作業を行いました。
その後、松江藩の藩主に松平直政が就き、その指示で松江藩の管轄地の調査が実施されて以降、管轄地する藩の事業として廟の維持がなされることとなります。
もっとも、その実務は源福寺と地区の庄屋が委託されていたと考えられます。町営の「村上家資料館」には、地区の庄屋を務めていた村上家が後鳥羽院の周忌にあたり、院とゆかりの深い水無瀬家より代参を任せられた時の装束、後鳥羽院神社の祭礼に関する古文書などが展示されています。
その後、江戸の後期になると、廟は「後鳥羽院神社」と姿を変え、島民の手によりお祭りが催されるようになりました。
なお、後鳥羽院が隠岐に到着された後に子牛のたわむれるお姿を目にされ、当時人気のあった『鳥獣戯画』の一場面を思い出して喜ばれたことを起源とする「牛突き」は、この「後鳥羽院神社」の祭礼の奉納行事とされていたようです。
この頃に、もともとは慰霊の対象であった後鳥羽院は、島の神さまと考えられるような変化があったのかもしれません。後鳥羽院神社のことを「ごとばんさん」と親しみを込めて呼んでいたのが、今では後鳥羽院のことをも含めて「ごとばんさん」という方が増えています。
しかし、明治になると島の後鳥羽院に大きな変化が訪れます。それまで、それぞれの崩御の地でもおまつりされていた後鳥羽院、土御門院、順徳院の三帝の御霊については、大阪にある水無瀬神宮においておまつりすることが決定されます。
これに基づき、後鳥羽院の御霊については、明治6年に隠岐から水無瀬へおかえりいただく御神霊奉還祭が行われました。翌7年、島でのおまつりの場であった「後鳥羽院神社」は役目を終えたとのことから、島民の反対があったものの、その社殿をはじめとする建物を取り払うこととなってしまいます。
しかし、その際に本殿下の地中に瓶が3段に重ねて納められているのが発見され、これ以上の作業を進めることは恐れ多いとして村長に報告されます。これ以降、旧源福寺の境内地は宮内庁によって後鳥羽天皇の御陵の一部と定められ、「後鳥羽天皇隠岐山陵」として今も管理がなされています。
その後、町民の方々は隠岐山陵を中心とした場所や後鳥羽上皇のことを「ごとばんさん」と親しみを込めて呼び、清掃奉仕や歌の奉唱、相撲大会など色々な行事がその周辺で行われてきました。
「隠岐神社創建」
時が経ち、昭和14年、後鳥羽院をご祭神とする「隠岐神社」が島根県民あげて創建されました。なお、この年は後鳥羽院がお隠れになって700年の年にあたります。
それまでの後鳥羽院のお祭りは、先ほどのお墓を中心とした、どちらかというとお慰めする行事であったと考えられます。しかし、後鳥羽院は、伝統的な儀式や芸術・芸能・武芸をとても大切にされ、自らがその先頭に立って道を示すことで日本文化の発展に尽くされたお方でもあります。そのお姿と徳を称え、日本の歩みの記憶とするべくこの神社での祭祀は始まりました。
後鳥羽院は和歌の道については言うに及ばず、今の弓道、相撲、水泳、蹴鞠、楽器の琵琶など先進的で多才な帝王であられました。また、京都にいらっしゃる時のことですが、当時の有名な刀匠を御所に召して院に相応しい作刀を命じました。後に「御番鍛冶」と称される刀匠の作品の内、特に後鳥羽院の目にかなったものについては、茎のところに菊の花がうっすらと刻まれたそうです。この菊の花から続くのが現在の皇室の菊の御紋です。
そうした経緯もあり、神社の紋章は菊花紋の一つである「菊浮線(きくふせん)」となりました。菊の花を割って四方に配置されたこのデザインは、国宝「紙本著色後鳥羽天皇像」<伝藤原信実筆>で院がお召しになっている装束にも配されています。
なお、隠岐神社は島根県の多くの造りとは異なり、当時の神社局の設計によるもので、その構造や配置は明治神宮や橿原神宮に近いイメージです。日本海の孤島でありながらも、後鳥羽院の名にふさわしい神社が目指されたのでしょう。戦争も近づいていた時代でしたが、その材も厳選されていたようです。
天皇家に特別の縁のある神社ですから、創建の後には皇太子をはじめ皇族方にもご参拝いただいております。
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■天皇・上皇・院の用語について
説明では「後鳥羽天皇」のことを「後鳥羽院」と称しています。
それは次の点によるものです。
1.ご生涯について正しく表記すると「後鳥羽天皇」となります。しかしながら、平安~鎌倉の時代は今とは異なりご生前の内に天皇の位を譲られることが多かったため、「〇〇天皇」と表記すると同じ時代に複数の天皇がいらっしゃったかのような印象を与えてしまいます。
2.「上皇」とは元天皇のことで、「太上天皇」を短くしたものとされます。「後鳥羽」という語は、崩御された後に、天皇につかれていた時代を振り返っての諡(おくりな)です。崩御される前には「太上天皇」「先の帝」などとなります。
3.後鳥羽天皇については、上皇となられてからのご活躍が広く知られるため、「後鳥羽天皇」よりも「後鳥羽上皇」の方がなじんでいると思われます。
4.しかし、この顕彰事業では後鳥羽上皇のご生涯についてのみ注目するのではなく、後鳥羽上皇のご活動を中心に育まれた文化にも注目しています。よって、後鳥羽上皇がご活動の拠点として「院」を構えておられ、そこでの成果の主人公として語る際に「後鳥羽院」としている事例が多いことから、「後鳥羽上皇」ではなく「後鳥羽院」としています。なお、「院」とは大学院や病院などと同じく、建物としての意味も含まれています。
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島根県立古代出雲歴史博物館
建築家: 槇文彦氏による自然と調和した建築設計
常設展示室にて8月16日までミニ企画
「後鳥羽上皇遷幸八百年記念 後鳥羽上皇と隠岐」開催
新古今和歌集の編さんで知られる優れた文化人であった後鳥羽上皇は、鎌倉幕府への対抗意識を燃やす政治家でもあり、承久3年(1221)に鎌倉幕府執権の北条義時の打倒を目指して挙兵します。
しかし、この承久の乱に朝廷軍は敗れ、上皇は隠岐国海士郡苅田郷(現在の島根県隠岐郡海士町)に流されました。
上皇は最後まで帰京を許されることなく、在島十九年目の延応元年(1239)に上皇は六十歳で波乱の生涯を閉じました。
令和3年(2021)は後鳥羽上皇が隠岐国に御遷幸されて八百年目に当たります。都から遠く離れた隠岐で上皇が何を思い、そして島民がどのように上皇の御霊を慰めてきたのか、隠岐神社の所蔵品を中心に、その歴史をたどります。
【展示期間】
2021年6月16日(水)から8月16日(月)※期間中の休館:7月27日(火)
【開館時間】 午前9時から午後6時 ※最終入館時刻は閉館時間の30分前
【場所】 古代出雲歴史博物館 常設展(テーマ別展示室)
〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東99-4 電話: 0853-53-8600
【料金】 常設展の入館料でご覧いただけます。
一般620円、大学生410円、小中高生200円
※6月20日(日)、7月18日(日)、8月15日(日)は
しまね家庭の日のため、小中高生の観覧無料。
ごとばんさん伝統文化未来教室
実施期間:令和3年7月~12月
対 象:海士町の小・中学生
内 容:後鳥羽院ゆかりの色々な文化体験を通して子供たちの感性を育むとともに、地域の歴史を背景とした交流の促進、地域人材の発掘を目指します。
現在企画中の未来教室は、囲碁体験、竹灯籠を作り、和筝体験、刀のワークショップ、蹴鞠体験会、茶道体験、料理教室。後鳥羽院ゆかりの文化を研究・継承する島外の講師や、島内での愛好家の方をお呼びして、小中学生向けに工夫した教室を開きます。
次回は「隠岐ユネスコ世界ジオパーク」についてご紹介いたします。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
後鳥羽院顕彰事業実行委員会
一般社団法人 海士町観光協会
〒684-0404 島根県隠岐郡海士町福井1365-5 電話:08514-2-0101
海士町役場 〒684-0403 島根県隠岐郡海士町海士1490 電話:08514-2-0111
隠岐観光協会 〒685-0015 島根県隠岐郡隠岐の島町港町塩口24 隠岐合同庁舎別館1階
電話:08512-2-1577
隠岐の島町役場
〒685-8585 島根県隠岐郡隠岐の島町下西78番地2 電話:08512-2-2111
一般社団法人 隠岐ユネスコ世界ジオパーク推進協議会
〒685-0013 島根県隠岐郡隠岐の島町中町目貫の四61番地 電話: 08512-3-1321
公益社団法人島根県観光連盟
〒690-8501 島根県松江市殿町1番地 電話:0852-21-3969
一般社団法人雲南市観光協会
〒699-1311 島根県雲南市木次町里方26-1 電話:0854-42-9770
一般社団法人 大田市観光協会(大田市役所仁摩支所内)
〒699-2301 島根県大田市仁摩町仁万562-3 電話:0854-88-9950
島根県立古代出雲歴史博物館
〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東99-4 電話: 0853-53-8600
一般社団法人境港観光協会
〒684-0046 鳥取県境港市竹内団地255-3 電話:0859-47-3880
一般社団法人近江八幡観光物産協会
〒523-0864 滋賀県近江八幡市為心町元9番地1(白雲館内)電話:0748-32-7003
一般社団法人淡路島観光協会
〒656-0027 兵庫県洲本市港2-43洲本バスセンター内 電話:0799-25-5820
香川県立ミュージアム 〒760-0030 香川県高松市玉藻町5−5電話:087-822-0002
公益社団法人 神奈川県観光協会
〒231-0023 神奈川県横浜市中区山下町1電話番号 045-681-0007
竹生島 宝厳寺(西国札所第三十番)〒526-0124 滋賀県長浜市早崎町1664-11
電話:0749-63-4410
水無瀬神宮
〒618-0011 大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10-24 電話:075-961-0078
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話:03(5253)4111
環境省 〒700-0907 岡山市北区下石井1-4-1 岡山第2号合同庁舎11階 電話:086-223-1577
環境省〒100-8975 東京都千代田区霞が関1-2-2 中央合同庁舎5号館 電話:03-3581-3351
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アーカイブ リンク記事をご覧ください。
ZIPANG-5 TOKIO 2020後鳥羽院に由緒がある伝承と文化「隠岐諸島の一つ海士町(あまちょう)[1]」
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ZIPANG-5 TOKIO 2020後鳥羽院に由緒がある伝承と文化「自立・挑戦・交流×継承・団結 〜心ひとつに!」みんなでしゃばる(引っ張る)島づくり〜[2]
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18534864
ZIPANG-5 TOKIO 2020 後鳥羽天皇の源故郷~水無瀬神宮~(その1)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18848897
ZIPANG-5 TOKIO 2020水無瀬神宮 ~招福の風と音と水~「見渡せば山もと霞む水瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(その2)
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ZIPANG TOKIO 2020「ユネスコ無形文化遺産『新庄の夏は新庄まつりでフィナーレを迎える』日本が世界に誇る山・鉾・屋台行事(特別編)」~恵比寿神話~
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