わかりあえるはず 1
* * *
現在。
「遅かったね……」
「時間を合わせたかったから。あの時と」
昨日から風雨が荒れ狂っていた。コンクリートであろうと、土のままであろうと、地面という地面は水溜まりよりも小川と呼ぶべき姿に変わっていた。
その細い身体には不釣合な大きくて黒い傘に守られながら、江本は手を合わせてじっと目を閉じていた。明らかに新品ではないジーンズは跳ね返りで土汚れが目立ってきている。スカートはやめた方がいいという明の言葉は正解だった。
明が母の墓前に足を運んだのは、江本よりも三〇分ほど後のこと。江本の点した線香の火は雨と時間とで消えていて、明は自分の持ってきた線香に火を点し、その上に乗せた。
江本がこの場で明の背中を見るのは、今年で一四年目になる。小学生のときまでは、明には父が、江本には母が、それぞれ隣りにいたから、二人きりでここにいるというのは、今年で四年目になる。
「一人で来たんだ」江本は立ち上がって言った。
「誰かと一緒にくれば良かったか?」
「そんなことないけど、あの人と一緒に来るのかと思ってたから」
「二人きりで会いたかったから。だから、逃げてくるようにね」
「あの人から逃げてきたの?」
「了子さんには里帰りだとしか言ってないから、逃げたというより騙したというほうが近いね」
「あの人、たぶんわかってると思うよ」
「だろうね」
群れを成す墓標の前で手を合わせる。ただそれだけで、写真と記憶だけとなった母の姿が明の脳裏に描かれていく。昔はそれだけで泣いた。今はうっすらと涙を浮かべるだけで瞳からこぼれることはないが、泣きたくなる気持ちは変わることはない。
「私、もう帰るから」
「途中まで送ってくよ」明は立ち上がって、江本の隣りに並んで歩いていった。
緩やかな階段を降りたところにあった古びたバス停が、去年から屋根のついたベンチつきの真新しいバス停に変わった。自動販売機もそばに置かれ、角にあったはずの八百屋はコンビニに姿を変えていた。
バスが来るまで、傘をたたんでベンチに座り、コーラを飲みながら、明は江本にあれこれと話しかけた。
「正直言って、今年は来るなんて思わなかった」
「どうして?」
「杉本と約束があったんじゃないの?」
「杉本くんが勝手に決めたんだし、私には関係ないよ」
「そういう言い方って無いんじゃないか?」
「じゃあ、私と杉本くんが付き合えばいいっての?」
「そうまでは言ってないけどさ」
「今日のことは絶対に忘れられることじゃないし、杉本君には悪いけど……」そこまで言って、江本は言葉を詰まらせた。
バスが左折してきたのを目にすると、江本は立ち上がって、傘を明に手渡した。
「これ返す。ずっと借りたままだったし、こっちに来るついでに返そうと思ってたんだから……」
「いいから持ってなよ。向こうも雨らしいしさ」
「……、うん……」
少しためらいながら傘を手にした江本は、バスに乗って駅へと向かって行った。
「それじゃ」
「じゃあ、また」
明はしばらく江本の乗ったバスを眺めていた。
バス停から五分ほど歩いたところに明の父が住んでいる。四年前までは祖母がこの家を切り盛りしていたが、祖母が亡くなった今、明の父だけがこの家の住人ということになる。
雨に濡れた服を洗濯機に入れスイッチを押し、シャワーを浴びて服を着た頃、昼間の雨が嘘のような夕焼けとなった。
自分達の夕食の前に、明は犬達の夕食を用意した。ドッグフードを持って行くと同時に、八匹の犬は明の手にしていた皿に飛びかかってきた。
玉城家には、明と入れ替わりに、一匹の本当に小さなメス犬が住むようになった。彼女は当初明を家族として認めず、明の顔を見る度に吠えていた。夏休み中、江本と二人で世話をしたおかげで吠えることはなくなったと思ったら、中二の夏休みには巨大化して登場し、中三の夏休みには子どもが二匹生まれ、今回の夏休みには合計八匹に増えていた。それも、全部違う種類。
「節操のないやっちゃな。お前の亭主はどいつだ?」帰省する度に体重も家族も増えていく犬を明はどうしても名前で呼べなかった。
「ちゃんと名前で呼んでやれ」
「呼べるわけないだろ。だいたい、もうちょっと気の利いた名前にしたほうがよかったんだ」
「ここに来る前からその名前だもんな、なぁ、ミカ」
「バゥ!」巨大なメス犬は即座に反応した。
「……」
皿に山積みにされたドッグフードを数分で食べ尽くした犬の親子は犬小屋へと帰っていった。
彼女は元々捨て犬だった。拾ったときにその名は既に付いていたし、他の名前にしようとしても何の反応も示さなかった。父は最初のうちは仕方無くといった感じであったが、今は当然のようにその犬を『ミカ』と呼び続けている。
明はどうしてもそう呼べない。
網戸と窓を閉め、二階の自分の部屋へ戻った。テレビやステレオは東京のアパートに持って行ったから、することと言えば寝るぐらいしかない。蛍光灯を灯しても何もせず、ベッドに寝転がって天井を眺めながら、明は二日前に発ったばかりの東京に思いを馳せていた。
明は東京に帰りたがっていた。了子に対して『家に行く』とは言っても『家に帰る』とは最後まで言わなかったし、変わりゆく故郷の街を目にするたびに、明はこの街から取り残されたとの確信を強めていったから。
確かに明はこの街で一二歳まで育った。だが、いい思い出などほとんど無かった。
明の父も、祖母も、東京に生まれ東京に育った人。そして、近所付き合いがとにかく不得手の人。
近所との接触をほとんど持たずに育った結果、自然と明の話す言葉は標準語のアクセントになった。それが保育園・小学校と明のコンプレックスになった。
東京のテレビやラジオは自分と同じで、近所のほうが間違っているのだと考えたとき、自分は東京の人間なんだと考えるようになった。
東京に行くチャンスが来たと同時に明は東京に移り、東京で生まれ育ったかのようにその水に染まった。意外なほど簡単だった。東京はそういう街だし、玉城家もそういう家だから。
明の父は仕事と言って丸一ヶ月家を空けるなど珍しくもなかった。仕事が忙しいというのは本当だとしても、それよりも、人間関係から逃げ出したくてのことであったのだと今の明は考えている。
自分という存在があるから祖母と父という関係を形の上だけでも保ち得たが、自分がいなくなれば、妻の母と、娘の夫という関係に戻る。この二人の関係は最悪だった。
明はまだ「孫」という立場があったからそれなりの居場所はあったが、明の父には居場所など無かった。まる三ヶ月間家を空けたこともあったし、そのときも祖母が危篤状態にならなければもっと家を空けていたかもしれなかった。
祖母が亡くなった今、父以外に会うべき人もなく、父の家以外に自分を迎え入れてくれる場所などなく、話を弾ませる友人などもないこの街にいるからこそ、家庭以外の全てを満たせる東京に、明はますます親しみを覚えていったのだろう。
「明日帰ろう……」
明は蛍光灯の紐を引っ張って、眠りに着いた。
そして、夢を見た。
このベッドで眠ると、ほぼ確実に母の夢を見る。いつも若くて、写真の姿と変わらぬ母が出てくる。と同時に、母の最期の瞬間も夢に見る。そのとき明は二歳。幼い明には、血だらけになりながらも自分を守って、そして、静かに死んでいった母の記憶が、他の何よりも強く焼きついていた。
午前三時、全身に汗をかきながら明は飛び起きた。心臓が激しく鳴り響き、息は荒くなった。
「いつもそうだ……、母さん……」
あと八年で、明は母と同じ歳になる。だが、明の母への思いは二歳のときで止まったまま動かない。
「江本の娘とはうまくやってるのか」
「……」父の問いに、明は無言で首を横に振って答えた。
「何も言えないか。せっかく同じ学校に入れてやったのに」
「美香は実力で入ったんだよ。たまたま同じ高校なだけ」
「だが、朱雀台を教えてやったのは俺だ」
「知ってるよ。でも、美香は父さんを頼ってないんだ。恩着せがましく言ってほしくないね」
『3番ホーム、間もなく上り電車が参ります。危ないですから、白線の内側に下がってお待ちください……』駅員のアナウンスが父との時間の終わりを告げる。
「逃げてばかりじゃ、明も、彼女も救われん」
「『救う』って、宗教じゃないんだからさ」
「そういう意味で言ったんじゃないがな」
傲慢。父の『救ってあげる』というニュアンスに明は反発感を抱いた。確かに今の江本のままでいいとは思えない。でも、他人の考えている“幸せ”を押しつけて、それで江本が幸せになれるなんてのは、もっと思えない。
「(父さんもわかってないよ。美香は今までマイナスだったんだ。プラスの人間にはゼロなんて耐えられないけど、マイナスにとってゼロは上なんだよ。そりゃぁ、プラスのほうがもっといいに決まってるけど……)」
電車の中で、ずっと江本のことを考えていた。了子の元に帰れるという安らぎが早めの帰宅を促したのに、了子のことはさほど考えられずにいた。
利根川を越えたあたりで、出会ったばかりのときの江本の顔がふと思い浮かんだ。江本家は元々ここいらに住んでいたらしい。もっとも、江本本人には本籍と出生地以外何の意味も持っていないが。
出会ったときから彼女はおとなしかった。一二歳のときまで、江本の泣く以外の“感情”を見たことがなかった。自分に対してだけなのか、誰に対してもそうなのかは明には今でもわからないが、江本には、明るさも、活発さのかけらも見受けられないことは確かだった。
出会ってから一四年になるが、江本らしからぬ感情を、明に言わせれば江本の真実の感情を見たのは二回しかない。その二回以外は、自分がいない人間であるかのように黙り、用意された時間を無為に過ごしているのが彼女……
あの母娘には逃げるしか方法がなかった。
どこに行っても汚名が付き纏う。だから、自分達の正体のわからぬよう、ひっそりと影を潜めて生きるしか方法がなかった。
見知らぬ土地に移り住んで、正体がわかるとすぐに引っ越す。いつか必ず帰ってくると信じている人の帰りを待ち続けるためには、汚名も、屈辱も、逃げることで耐え続けるしかなかった。
何回転校したのか江本本人にも覚えていないだろう。あるいは、義務教育なんて場所は江本には何の関係もない制度だったのかもしれない。
九年間、登校拒否をしなかった学校は一つもなかったし、一ヶ月に三日以上学校に出たこともなかった。ひどいときには、転校の手続きをしたその日に引っ越すこともあった。それでももらえた中学の卒業証書は郡山の中学のだそうだが、それとて何ヶ月か、あるいは何週間かだけの生徒のはず。
ひょっとしたら、明と一緒に暮らした一ヶ月が、生まれてから事件までの二年、高校入学から現在までの四ヶ月に次ぐ長さの、安住の生活だったかもしれない。だからこそ、奇妙な同居が終わったとき江本はあれだけ怒ったのだろう。
それが江本の真実の感情なのか、抑圧された感情の破裂だったのかは今となってはわからない。
わかっているのは、その感情を包み込んでくれるような存在がそのときの江本にはなかったということ。
ただ一人、その存在足り得た明は当時まだ一二歳。江本を包み込むことなど荷が大きすぎた。どんなに安心できる暮らしでも、所詮はママゴト。
その一ヶ月は、孤独感を癒すだけじゃない、今まで味わってきたありとあらゆる苦しみから逃れられる生活を手にしたと感じていたのだろう。普通の人なら何でもない、ごくごく当たり前であっても、江本にとっては夢でしかなかった暮らしをやっと手にしたと思っていたのに、たった一人の女性のせいで崩れ去った。
その女性のもとに、今、明は帰ろうとしている。
「東京に来たばかりのときは俺もそうだった。江本はずっと……」自らも中一のときに味わった孤独感を、江本は人生のほとんど全てで味わい続けなければならなかったことを考えていた。
電車の中は、明を含めて、これから東京へと帰る人達で溢れている。
遊園地にでも行ったのだろうか、見るからにレジャー帰りという家族。
なぜか制服の女子高生。
日曜だというのに働いているように見えるいかにも暑そうなスーツ姿のサラリーマン、ただし、持っているのは競馬新聞。
明は車両の端に座って車窓に映る風景に目をやっていた。見慣れた風景と、覚えてしまった駅名の連続に新たな刺激はない。
一時間ほど乗り続けて、電車が乗り換えの駅に止まった。MDを鞄にしまってから大勢の人と一緒に明はホームに降り、階段の昇降をくり返してJRの改札へと向かった。車両から出ると蒸し暑さが漂う。
明は了子に電話を架けた。受話器の向こうの彼女はいつもと変わらなかった。これから帰るという電話に嬉しさの声を少し聞かせてくれたが、感情を大袈裟に表すような喜びではなかった。
JRから再び私鉄に乗り換えたとき、明は各駅停車に乗った。どこかで了子の元へ向かうことに戸惑いを覚えているのだろう。父の顔と向かい合わせのときはしきりに了子と会いたがっていたのに、いざ会えるとなるとためらいが生じる。
ポツポツと雨が降り始めてきた。西から迫ってくる雨雲に電車のほうから近づいていったと言うほうが正しいのか。
改札を出てみると、傘を持っていない人が大勢たむろしていた。墓参りにも使ったビニール傘を広げようとしたとき、了子が明を呼びとめた。
改札の外で明を待っていた了子は、三〇分近く待ち続けていたせいで、靴やジーンズに跳ね返りの汚れをかなりつけていた。
「すいません。わざわざ……」
「いいの、いいの。世話になってんだし」
明は傘を畳んで了子の差し出した傘に入っていった。
アパートまで、水色地に白の模様のついた傘に寄り添って、ゆっくりと歩いて行った。街灯、コンビニの明かり、自動販売機の明かり、正体不明の明かり。たくさんの明かりが道を照らし出す時間になっていた。
柿崎了子、一八歳。朱雀台学園高等部三年D組、出席番号七番。
明が了子と知り合ったのは上京してすぐだから、三年四ヶ月前というところか。
寮生活のときから、明は了子とデートをくり返していた。
愛の言葉を交わすわけでも、プレゼントを送るわけでもなく、ただ惰性のうちに付き合うようになっていた。高等部に上がって寮を出て、アパートに移ってからも、一緒にいる時間が増えたという以外それは変わっていない。
明の部屋に入り浸るようになった了子に、心配の言葉をかける人もいなければ、連れ返そうという動きもない。
恋人同士と言うにはお粗末で、友達と言うには不格好なのに、ただの知り合いと言うにはお互いのことを知り尽くしている。
良かれと思ってやった、たった一度の了子の暴走が、二人の関係を不鮮明なものにしてしまった。明が喜ぶどころか、明を狭間に立たせ、了子本人も、江本の存在と、明と江本との関係を知ってしまったのだから。
その瞬間、空想していた少女マンガのような甘い思いが、自分の知らない明がいるという現実の前に叩きのめされたのだと了子は言う。それでも了子はこの関係を続けている。了子を取り巻くどの人間関係よりも、明と一緒にいることのほうがずっと居心地よいものだから。
了子は、もしかしたら、失いかけていた家庭の姿を、明と一緒にいるということで補おうとしているのかも知れない。
明にしても、夢でしか見ることのない母の姿を、彼女に投影することで満たそうとしているのかも知れない。了子を見て、江本の母も、明の父でさえも同じ感想を抱いた。明の父いわく「どことなく似ている……」と。
でも、今となっては最初の理由なんて関係ない。初めのうちは一人で東京に出てきた孤独感と埋めてくれた女性が、今は母のいない寂しさを不充分ながらも埋めてくれる女性がいる。明にはそれだけでよかった。
洗濯機が二人分の洗濯物を洗い、電子レンジが冷めてしまった料理を暖めている。
「今日も泊まるんですか?」ラップを外しながら明は言った。
「いけないのか?」
「いけなくはないですけど……」明は語尾を濁らせた。
米を研ぐのも、味噌汁を作るのも、そのほかのいろいろな料理を作るのも明なら、冷めた料理を暖めるのも明。祖母に鍛えられたおかげで、食べたいと思うものは、材料さえ揃えば全て作れるようになっていた。そのためか、明が帰省している間中、了子はコンビニ弁当に頼り切っていた。
「ならいいんだな」
「だめだって言っても、居続けるつもりでしょう」
「当たり前じゃないか」
結局、最後は了子の意志が通される。
一二時を過ぎるまで、部屋の明かりはついたままだった。
クーラーに助けられての、ドアも、窓も、カーテンも閉まったままの二人きりの時間が過ぎて行き、朝日が部屋に差しこんだ。