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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 119 (26/07/21) 旧玉城村 (10) Ou Hamlet 奥武集落

2021.07.28 12:09

旧玉城村 奥武集落 (おう、オー)

7月19日に當山集落を訪問した後、翌日から台風による雨風が始まり、今回の台風は速度が遅く、21日から25日までの4日間は強風、豪雨が終日続き外出はできなかった。昨日も雨が日中古時間が何度もあり、集落訪問の再開が一週間ぶりの今日になった。今日は雨が降らに事を願う。


旧玉城村 奥武集落 (おう、オー)


奥武集落はかつては離島だった奥武島にある。沖縄には数々の奥武島がある。(名護市、久米島、慶良間座間味村など) かつての沖縄では、人が死ぬと海岸のすぐ沖の小さな島に船で遺体を運んで、洞窟へと安置する葬送の習慣があった。いずれも、かつて死者を弔った場所であったと云われており崇められている。洞窟の中が黄色い光に満たされていたことから、この島を「青 (オウ) の島」(黄色のことを「青」とよぶ場合があったそうだ)とよんでいたとされ、そこから「奥武 (オウ) の島」と書かれるようになったとされる。

奥武は、約700年前の玉城グスク落城の際に玉城按司の子女がこの島に逃れて国立てしたとの伝承があり、玉城按司の子孫に知念家 (玉城腹)、嶺井家 (大屋腹) が現在も居住している。

周囲1.7km、面積0.25k、最高海抜16mの小さな島で、この島の中に奥武集落があり、880程の人が住んでいる。風光明媚な島で、1964年 (昭和39年) には新沖縄観光名所に選ばれている。四方を海に囲まれているため、島の人々は海の恵みを受けて暮らしてきた。現在は養殖や近海漁業の盛んな地域だ。また、天ぷらと猫の島で有名で観光地にもなっている。今は新型コロナで観光客は少ないのだが、その前までは、島にあるてんぷら屋はいつでも人でいっぱいだった程という。沖縄の「江の島」という感じだ。

奥武は1960年代までは200余世帯 人口千余人を有し、旧玉城村では一番人口の多い部落だった。沖縄本土復帰直後は人口1200人を超えるほどになったが、その後、次第に人口は減り始め。現在では880人程になっている。島内には耕地は少なく、本島に多くの耕地を買い求め耕作をしていた。奥武地区はこの奥武島以外に本島に飛び地のように管轄地区があり、そこが農耕地となっている。奥武第二区とも呼ばれている。

奥武では昔から半農・半漁の生活を余儀なくされていた。しかし、毎年の台風により漁民の犠牲が続出したので、 近年は漁業従事者の数は減少、また第一次産業の衰微により第二次、 第三次産業へと転出して現金収入によって生活の基盤をつくる傾向となっている。地理的に島なので、住宅地が拡大する余地はあまり無い事、サラリーマンが増え、通勤には不便な事 (以前は那覇への直通バスが運行されていたが、今は乗り換えになっている。) 等で人口は減少傾向にある。

奥武集落は島の北西部の西 (イリ) 地区から始まり、戦後アガリ (東) や島の南のイーバルの西側に拡大、そしてイーバルの東側にも広がっている。


玉城村誌に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

現在は島にある二つの御嶽は直接御願されてはいないが、殿から遙拝されている。


奥武橋を渡った所にに集落文化財のガイドマップがある。


奥武集落訪問ログ


奥武橋

奥武集落では昔より、橋が架設されるまで農耕や所用にも、また生徒の通学にも渡し舟で相当の不便を感じていた。1937年 (昭和12年) 木材橋が初代橋として竣工したものの、翌年の台風で流失、1940年 (昭和15年) に至って日本政府の補助によってコンクリート造りの立派な橋が架設されたが、今時大戦により米軍の上陸と共に爆破された。住民は第二次大戦中は本島の各所に避難していた。終戦直後北東の屋敷は全部敷き均らされ、米軍の野球場となり、住民は島に帰ることもできず、百名や知念村志喜屋、山里、具志堅知念方面に収容されていた。 玉城区創設 と共に富里、当山に移動、1946年 (昭和21年)、ようやく島への移動が許可になり、米軍の協力により崩れた橋を雑石で埋め陸続きとしたが、暴風のため橋の土石は潮と共に流失、またもや孤島となった。その後一時電柱をつなぎ合わせて浮橋を造り、後、ピーヤ (橋脚 Pier) 利用による仮橋で急場をしのいでいたが、1948年 (昭和23年)、政府補助によって着工、1951年 (昭和26年) に松島橋が竣工したが、 これもまた台風によって流失された。1952 (昭和27年)、政府補助と自己財源で奥武橋を着工、 翌28年堅固な現在の橋 (全長約93m、幅10.5m) ができあがり、陸続き同様部落内にも車輌が出入するようになった。現在の奥武橋は六代目だそうだ。橋の欄干には、海の村らしく、サバニの飾り物が置かれている。橋を渡った所には、石碑が三つある。特別な石碑ではないのだが、真中の石碑は米海軍第四警備隊から贈られたもので「姉妹部落」とある。この地に駐屯していたのだろうか?石碑には "Okutake Village Tamasiro" とある。沖縄本土復帰前には「おう」「たまぐすく」ではなく、「おくたけ」「たましろ」と呼ばれていたのだろうか? 現在でも奥武島と米軍の交流は続いており、ハーリーの際には米軍も参加している。集落を巡り終わった時にバス停で地元の女性から声をかけられ、色々な世間話をした。その中でこの橋の話が出た。昔は干潮時には歩いて本島に渡り、それ以外の時は泳いで渡った時期もあった。今では泳いで渡るのは禁止になっているそうだ。それから、疑問に思っていた「オクタケ」についても、話をしてくれた。住所表示はオクタケだそうだ。オウとオクタケの両方の地名が使われているという。沖縄では日本語読みをしていたが、近年は沖縄の言葉で呼ぶ様にしている地名が多い。


浜ガーラ

奥武端の西にある港の隅にある拝所。ニンカジリー (2月2日) と呼ばれる儀式を行なってヤナムン (嫌な物→魔物) を流し出す拝所の一つ。海で泳いだ後の水浴び、本島から野良仕事帰りに手足や農具を洗ったり、赤子の出産の際に使った汚物などを洗った。仲門門中の屋号 具志川の人が掘ったという。かっては小川だった。


西井泉 (イリガ-)

奥武橋を渡り、島へ入ると正面に西井泉 (イリガ-) がある。屋号 玉城 (玉城門中) と 屋号 仲門 (仲門門中) の祖先が掘った井泉と伝えられている。かつてはこちらの水が飲料水として使用されていた。1月の初ウビ―等の拝所となっている。この地域は西 (イリ) と呼ばれ、奥武集落が始まった所。


大御世 (ウフウユー)

西井泉 (イリガ-) の前にあるコーヒーショップ (屋号 新安谷屋前 [ミーアダンヤメー] ) の一角にある拝所。香炉が2基置かれ、向かって右側がウミキ (男神) 、左側がウミナイ (女神) という。


クバの下の神

大御世 (ウフウユー) から集落内に入る。人が通れるぐらいの細い路地を東側に進んだ所の空き地にクバの下の神 (別称、東クバ嶽) がある。かつては畑で、屋号 川門久保田 (カージョークブタ) の屋敷の跡地という。クバの木の下に祠がある。五月ウマチーに使う扇を作るクバはここから取った。


産井泉 (ウブガー)

クバの下の神から北側海岸側に進むと産井泉 (ウブガー) がある。東ヌ井泉 (アガリヌガ-) とも呼ばれ、この辺りから東側が東 (アガリ)  と呼ばれる地区になり、戦後、民家が増えていった場所。奥武集落で最も早くつくられたと考えられている。正月の若水の他、産水や死水として使用された。水道が敷設されるまでは洗濯や水浴び等の生活用水としても利用された。今でも、正月に青年会が産井泉から若水を汲み各家の門に置いて配り、各家庭でカーミジナディー (井泉水撫で) が行われている。また集落の行事や公共工事の着工・竣工等の際にも拝まれている。


ナカヌジョー

島北部の漁港にはナカヌジョーと呼ばれる拝所がある。ハーリーの際に拝まれる。供え物を海に「なおす (自然に戻す)」所。

旧暦5月4日「ユッカヌヒー」には奥武島海神祭が開催され、神人や区長が大漁や航海安全、区民の融和と健康を祈願をした後、集落の選手が東と西に分かれてハーリー7番勝負を行う。

浜ガーラのすぐ側にこのはハーリーに使われるサバニ (爬竜船) が保管されていた。


ハマヒチの主

港には別の拝所がある。ハマヒチの主と呼ばれ、ちょうど漁港の入口にある。海の恵みに感謝し、豊漁、航海安全を祈願する拝所で、かつてはムラウミ (共同漁業) で捕れた魚をここで分けて各家底に配ったという。現在、3月と5月の竜宮神祈願とハーリーの時に拝まれている。元々は別の場所にあったが、新漁港拡張工事の際にここに移設された。


奥武島いまいゆ市場

ハマヒチの主の前の広場に奥武島いまいゆ市場がある。2014年に奥武島体験交流施設としてオープンしている。小さな市場で建物の中にはスタンド形式の店が4-5軒ある。ここでとれた魚やもずくなど海藻類を売っている。刺身などはかなり安く売られていた。

奥武島には数軒の天ぷら屋がある。奥武島の名物グルメだ。どこも賑わっている。今は新型コロナ感染防止の緊急事態宣言下なので、いつもの様に長蛇の列では無いのだが、それでも順番待ちの客が何人もいる。ここでは希望の天ぷらを紙に書いて渡して、揚げ上がるのを待つといったスタイルでの販売。アツアツの揚げたて天ぷらが食べられる。今回は待ち時間が惜しいので、次回誰かが訪琉の際に再訪してトライしてみたい。

奥武島のもう一つの名物が猫だ。島の至る所で猫を見かける。特に天ぷら屋がある近くは猫の溜まり場。観光客が天ぷらの切れ端を猫にふるまう。猫もそれを目当てに集まって待っている。食べ物には不自由しない。床には観光客が与えたキャットフードがばら撒かれているのだが、ほとんどの猫たちは見向きもしない。天ぷらの方が美味なのだろう。野良猫なのだが、村ではちゃんと避妊処置をしており、処置済みの猫は耳の先に切り込みがされていた。


浜の御嶽

ハマヒチの主から集落側には浜の御嶽があり別称、浜ヌヌウシジとも呼ばれている。東 (アガリ) 地区の集落内にある。民家の壁に接して拝所がある。祭神は、浜ヌ主、あるいは海の恵みをもたらすユイムンス神といわれている。内部と外側に香炉が1基ずつ置かれている。


オーナグ井泉

島東部の東 (アガリ) 地区の東端にオーナグ井泉がある。これより東側はかつては海だった。井泉が2つ並んでいるため夫婦井泉とも呼ばれている。半円の小さい井戸 (写真右下) が女、方形の大きい井戸 (写真左下) が男で、屋号 前高下家の祖先が掘ったという。


奥武布袋大主

オウナグガー (夫婦ガー) のある場所の前は広場になっており、その南側の集落へ登る道の側の藪の中に拝所がある。「天孫子御世 子のみふし 奥武布袋大主 阿嘉田人前」と書かれている。この拝所についての情報は全く見当たらなかったが、この拝所の造り方から見ると、沖縄 龍神伝説にちなんだ竜宮神の拝所ではないかと思う。


奥武漁港 (おうぎょこう、おくたけぎょこう)

奥武島は漁業が盛んな島で、戦前からウミンチュ (海人) は、沖合でサバ (サメ) を取るフカアッチャー (沖合漁) や沿岸のイノーで小魚を捕るイノーアッチャー (近海漁) で生計を立ててきた。港には多くの漁船が停泊していた。

ここから島を一周しようと思ったのだが、道路は島の外周では繋がっておらず、島の南側に出るには集落が広がる丘を越える道を通る必要がある。一度、集落の中心地に戻る事にする。



奥武公民館

集落の真ん中に公民館がある。公民館の前は広い広場になっており、向側には観音堂がある。公民館は現在工事中だ。老朽化が進み、数年前の台風では避難所に指定されていたこの公民館のひさしのコンクリートが落下し危険な状態であった。昨年、南条市議会でも取り上げられて、改修の運びとなった。近くにはプレハブの仮設公民館があった。この観音堂がある場所が村の中心で、ここを起点にイリ (西) 、アガリ (東) 、イーバルに分かれている。それぞれの地区は更に細かく班に分かれて、14班迄ある。昔からの集落としては最も大きい村の様に思える。旧玉城村の中には地区としては最も人口の多い所があるが、殆どは、昔からの集落外に多く、集落内は過疎化が進んでそれほど人口は多くない。島という特殊な環境が影響しているのだろう。


観世音泉(クヮンヌンガー)

島には数ヶ所の井戸があるが、海に近いこともあって塩辛く、あまり美味しくなかったそうだ。真水が出る井戸は、公民館の隅にある「観世音泉(カンヌンガー)」など、数ヶ所しかなかった。船で水を運ぶなど水に不自由していた奥武区民を救うため、 1927年 (昭和2年) に大城幸之一の設計で当時としては珍しいポンプ式井戸が完成。 生憎、井戸は公民館と共に改修中で井戸の上には物が置かれて見れなくなっている。写真右は工事前のもの。


観音堂 (ウクヮンヌル)

公民館の南西にある観音像を安置した堂。この観音堂の由来については、「海ノ民話のまちプロジェクト」が子供向けにアニメを制作し、昔話の継承活動を行っている。色々なバージョンがあるそうだが、この「海ノ民話のまちプロジェクト」版が以下の通り (抜粋)。

この時に船を小港 (クンナト、奥武島対岸をこう呼んでいる) の岩に繋いだと伝わり、現在はミシラギと呼ばれ拝所になっている。(7月8日に志堅原集落訪問)

観音堂ができた後は村によって管理されることになり、旧家 大屋の人が司祭するようになった。昔、観音堂は火災に遭い、記録が全部焼失し、堂は三たび造り変えられたという。沖縄戦時、観音像は裏山のガマで保管され、終戦直後に戦災から免れた堂に安置された。しかし字民が収容先から婦ると、盗難に遭い無くなっていたという。現在の観音堂は、戦争による破損が多かったため1965年の300年祭にコンクリート造りに改築された。現在、堂に祀られている陶製の観音像は、本土から購入したもの。境内の石灯籠は、古い物で、1812年 (嘉慶17年) と1820年 (嘉慶25年) に奉納されたもので、寄進者の銘が刻まれているそうだ。字奥武では、正月の井泉水撫でや初御願、ハーリー、十五夜等、年に10回の村落祭祀が行われているが、いずれの祭祀でも観音堂が最初に拝まれる。奥武島の人々にとって重要な拝所である。今日訪れた際にも、お参りの人がいて、御願を行っていた。


大城幸之一先生銅像、奥武橋架橋記念碑

観音堂への階段に側には、奥武島の発展に貢献した大城幸之一の銅像がある。奥武島出身で富里村で医院を開業し、その後、玉城村議員、沖縄県議員、衆議院議員を務めた。先程見た観世音泉(クヮンヌンガー)と上原井泉 (この後訪問) を設計、堀削し完成させた。昭和7年には玉城小学校跡にある給水タンク (現在は番所公園) を完成させ、この年に54才で亡くなっている。銅像の隣には奥武橋と松島橋架橋記念碑が建っている。松島橋とは1951年 (昭和26年) に橋かけられた時の名前で、それ以降 (1952年) にかけられた橋は奥武橋と呼ばれている。


殿 (トゥン)

観音堂の右側にある殿。赤瓦葺きの平屋内に祭壇がある。元は 屋号 東川門 (アガリカージョー) の屋敷地にあったが、1927年に 屋号 前高下 (メータキンチャ) の屋敷地へ、1960年に現在地へ移設された。東ヌ嶽、中ヌ嶽、西ヌ嶽、竜宮への遥拝所になっている。琉球国由来記の「神アシアゲ」に相当するとみられる。「神アシアゲ」では、玉城ノロにより「稲二祭」が司祭された。一番高い祭壇の霊石と3基の香炉の上部にはそれぞれの拝所の名称が記されており、向かって左側から龍宮神、東ヌ御嶽、中ヌ御嶽、西ヌ御嶽となっている。


アジシー墓

観音堂の後方にアジシー墓ある。奥武島に国立ちした玉城大屋子 (たまぐすくうふやく、玉城門中の始祖) と新垣大屋子 (あらかちうふやく、大屋門中の始祖) の祖父の玉城若按司兼松金 (カニマチガニ) の古墓と伝わっている。玉城按司兼松金は玉城王と思樽金 (うみたるがに) の息子にあたる。

14世紀中頃、玉城グスクの落城により奥武島に逃れたと書かれているが、玉城若按司兼松金がその人か、その孫の玉城大屋子と新垣大屋子なのかは、日本語の書き方でははっきりしない。玉城グスク落城時とあるので、玉城若按司兼松金では無いだろう。玉城若按司兼松金は英祖王統の玉城王の息子で、その後も玉城按司は3代から5代は続いている。玉城グスクが落城したという記録は残っていないのだが、真和志間切の上間集落では安謝名按司 (上間按司) が尚巴志軍として糸数グスクを攻め落とした際に、糸数按司と親戚にあたる玉城グスクも攻め落としたのではないかと考えられている。上間にある石獅子は、この戦いで滅んだ糸数と玉城の呪いの火返しと言われている。それであれば、玉城若按司兼松金の孫の玉城大屋子と新垣大屋子の年代に近い様に思える。 この二人が玉城グスクから落ち延びてくる際に、祖父の玉城若按司兼松金の遺骨を持ち出してこの場所に墓を造り納めたと推測。(あくまでも個人的意見) 玉城按司の系譜は色々のバージョンがあり、玉城大屋子と新垣大屋子がのっているものは見つからなかった。どれが史実に近いのかは、研究者によって様々で今となっては判らない。その中で近いものだと以下のようになる。

奥武島からは玉城大屋子と新垣大屋子の故郷に玉城グスクがはっきりと見える。(写真の丘陵の一番高い所が玉城グスク) 落ち延びるにはあまりにも近い場所で、尚巴志の追手のリスクもあったと思うが、当時、ここ奥武島は死者を埋葬する場所で人はあまり近づかない場所だったのでかえって安全だったかも知れない。落ち延びてきた際には家臣も何人かは一緒に移ってきただろう。故郷の玉城グスクを見ながら新たな村を造っていったのだろう。


中之嶽 (ナカヌタキ)

観音堂から奥の林への道がある。林に入った所にある岩山の根元に奥武島三嶽の一つの中之嶽 (ナカヌタキ、別称 フニシン) がある。現在は、殿から遙拝されている。そういえば、殿には奥武島の三つの御嶽の香炉が置かれていた。

中之御嶽の奥の岩壁の前に香炉が置かれた拝所がある。この拝所に関しての情報は見当たらなかった。


崎城 (さちぐすく)、今帰仁の御神 (なちじんぬうかみ)

観音堂前の広場から林に入る道があり、そこに拝所がある。井戸跡の様な物が拝所の両脇にある。拝所は三つあり、向かって左側が今帰仁の御神 (なちじんぬうかみ) と宇多元の御神、右側には後に移設された崎城 (さちぐすく) が祀られている。(石柱には村御願と書かれている)


奥武 (オー) グスク

更に道を進んで左側に民家に挟まれた小さな広場が奥武 (オー) グスクと呼ばれる拝所があり、石積みの祠と香炉が置かれている。玉城グスクから逃れてきた玉城大屋子を祖とする玉城門中が管理しているので、ここが玉城大屋子の屋敷があった場所では無いだろうか?それでグスクと呼ばれているのではと個人的に推測。六月ウマチーに使う扇を作るクバはここから取ったそうだ。


フクジン加那志 (ガナシ)

観音堂の東、奥武 (オー) グスクの隣にある屋号 神舎慶 (カミサギ) の敷地にフクジン加那志 (ガナシ) と呼ばれる拝所がある (写真左)。十五夜に「音頭 (ウンドゥー)」と呼ばれる6名の踊り手により、臼太鼓の奉納舞踊が行われる。この他にも敷地内には複数の拝所がある。(写真右)

更にもう一つ拝所があった。


巣人加那志 (シージンガナシ)

屋号 神舎慶 (百次門中) の後方、観音堂の横の林の中には数々の拝所がある。その一つが巣人加那志 (シージンガナシ) と呼ばれる拝所。巣人加那志 (シージンガナシ) という者が、亀に乗って旅をしていた時、飛んでいた蝶に導かれ、奥武島に辿り着いた場所といわれている。祠の中には亀の甲羅が置かれているという。


首里天加那志 (シュイティンジャナシ)

首里天加那志 (シュイティンジャナシ) と呼ばれている拝所もあるあ。資料の写真では各拝所に案内板が設置されていたようだが、今は取り払われてしまっている。祠の屋根にサンゴ (キクメイシ) の化石が利用されている。


天孫子 (ティンシンス)

次は天孫子 (ティンシンス) と呼ばれる拝所。石造の祠の中に、骨壺が2ロ安置されているというので、誰かの墓なのだろうが、どの様な謂れで、天孫子 (ティンシンス) と呼ばれているのだろうか? 天孫子 (ティンシンス) に繋がる人物の墓なのだろうか?


巣人御井泉 (シージウッカー)

林の中には井泉跡もある。巣人御井泉 (シージウッカー) と呼ばれているので、巣人加那志 (シージンガナシ) がこの地に住みつき、使用した井戸なのかも知れない。


東前山 (アガリメーヤマ)

観音堂の東側に広がる林にはまだまだ拝所がある。林を登る道があり、上には臼太皷山 (ウスデークヤマ) と呼ばれている岩に囲まれた男子禁制の広場がある。その広場の一画に拝所があり、東前山 (アガリメーヤマ) の拝所と呼ばれている。昔は、ここで人目を忍んで臼太皷の練習をし、麓のフクジン加那志 (ガナシ)で踊りを奉納したという。現在は、八月十五夜にはここでも臼太皷を演ずるそうだ。

林の中にはまだ拝所がある。詳細は不明。

ここは井戸跡なのだろうか?

フクジン加那志 (ガナシ) の近くの集落内にも幾つかの拝所があった。


タカラグスクのカー

林から観音堂に戻り、次は反対側にあるタカラグスクに向かう。殿の横の坂道の半ばにタカラグスクへの案内板がある。このタカラグスクへの入り口に向かう途中にタカラグスクのカーと呼ばれている井泉跡があり、奥に拝所が2ヵ所ある。


タカラグスク

入り口を入り道を進むと琉球石灰岩の岩盤地帯に古墓がある。玉城按司の子孫にあたる大屋門中 (嶺井家) の先祖や漂着した中国人が祀られていると伝わる。城壁の石積みとかは無く、グスクの"拝所"があるのみ。琉球石灰岩陰に骨があり、奥武集落発祥と関わりのあるグスクと考えられているが、詳細は不明。

林の中には古墓らしき物もあった。ここでも猫に出会った。人懐っこく、こちらを見つけると、しきりと鳴き声をあげている。生憎食べ物は持って無く。それがわかったのか、林の中に去っていった。


酸素ボンベの鐘

観音堂の横の階段を登ったところに、いつも出会う酸素ボンベの金が吊るされていた。他の集落の酸素ボンベより一回り大きい。この高台がイーバルと呼ばれている場所で、戦後集落が拡張していった所だ。


国軸 (ムラジク)

イーバルの住宅街のほぼ真ん中に国軸 (ムラジク) という拝所。かつては1月の初拝みと12月のシリガフーが行われていた。現在はニービ拝所から遙拝されている。


火立て (ヒータチー)

かつては島東部の頂部には灯台があった。夜間の航海安全のために石油ランプを灯していた場所。明治時代の未頃には既にあったという。石積みの灯台の前には香炉が置かれて拝所となっている。この周辺は火立て毛という原野で毛遊びの場であった。かつては村落祭祀が行われていたが、現在は行われなくなっている。


天川神 天仁子乙女王 中龍宮母神

火立て (ヒータチー) 跡の前にも竜宮神の拝所がある。「天川神 天仁子乙女王 中龍宮母神」と書かれている。この拝所についても情報は見つからなかったが、「中龍宮母神」から判断すると、琉球竜宮神 神代一世の天久臣乙女王神 (あめくしんおとめおおおんかみ) の事ではないかと思える。

霊感のあるような人のブログで、竜宮神にまつわる記事を掲載していたのを見つけたが、その記事の中でこの天仁子乙女王 中龍宮母神は先ほどの奥武布袋大主と夫婦の様な書き方をしていた。とすれば先ほどの奥武布袋大主は天龍大御神のことになる。この竜宮神の拝所は数々あるのだが、その地域の村誌や史跡案内には掲載されていない。村の御願の対象にもなっていない。ただ、拝所の造りが共通している。どこかにこの竜宮神を崇拝している団体があるのではないかと思う。新興宗教団体なのかもしれない。旧玉城村親慶原のお宮にも天久臣乙女王神の拝所があったことを思い出した。


東之嶽 (アガリヌタキ)

火立て (ヒータチー) から更に東に向かい島の端崖の上に東之嶽 (アガリヌタキ) がある。東御願 (アガリウガン) とも呼ばれている。道路から林の奥に道があり、その行き止まりにコンクリート製の台座に香炉が置かれている。奥武島三嶽のひとつ。現在は、殿から遥拝されている。由来記の「東之嶽 (神名: 御セジ御イベ)」に相当する。


道路に戻り島の南側の海岸方面に進むと、もう一つ林への道があった。資料には何も書かれていなかったが、何かありそうなので、入っていく。道は崖に突き当たり、垂直の崖になっている。そこにロープが張られ、下に降りる様になっている。これを見ると降りたくなる。思い切ってロープで体を支えながら岩場に降りる。


マヤーガマ

海岸の岩場を注意しながら砂浜方面に進むと、途中に洞窟がある。ここは竜宮と呼ばれている拝所の一部になる。このガマがあることは資料に掲載されて知っていた。かつての竜宮の拝所が、この洞窟の中にあったのだが、満潮時には参拝者がマヤーガマに渡れずに別の場所から御願している。確かに砂浜の方からは満潮時にはここまで来れない。それで、もう一つの崖を下る道で満潮時でも来れる様にしているのだ。今日は海岸にもくることにしていたので、海の満潮と干潮の時間を事前に調べた。満潮は午前9時、干潮は午後3時半で潮位28cmとなっていた。今は2時過ぎで干潮に近づいている。今なら砂浜からも来れる様だ。


マルンダルー

マヤーガマから砂浜に上がった所がマルンダルーと呼ばれる海岸でここから竜宮を御願する場所になっている。これはマヤーガマまで行くのが不便ということで、1971年に村の会議で拝所の移転が決議された事による。


竜宮の拝所

奥武島の竜宮の拝所は現在ではマルンダルーなのだが、香炉はマルンダルーの岩場の上に置かれ、そこから御願されている。竜宮神は、3月3日と5月3日の竜宮祈願、5月4日のハーリーの村落祭祀で拝まれている。

海岸はイノーが広がっている。

干潮が近いので、潮が引き、イノーには多くの潮溜まりができ、魚が取り残されている。色々な魚が泳いでいる。鮮やかな青色の小魚を見つけた。ルリスズメダイという南国ならではの熱帯魚だ。これ程鮮やかな青色の魚を見たのは初めてだ。


上原井泉 (イーバルガ-)

龍宮から自転車を停めている公民館まで戻り今度は、島の西側を巡る。上原 (イーバル) 地区の西側、海岸近くの集落内に上原井泉 (イーバルガ-) がある。上原 (イーバル) にあるので、上原井泉 (イーバルガ-) と呼ばれており、この井戸も1927年 (昭和2年) に大城幸之一の設計のポンプ式井戸だ。


奥武沙難 (オーガマー)

上原井泉 (イーバルガ-) から海岸で出ると、海の中に奥武沙難(オーガマー) と呼ばれる小島がある。

干潮だからなのか陸続きになっている。昔は、ここにレジャー施設があったそうで、幾つかの施設跡が残っている。

建物は廃墟になっており、ここでも猫に出会った。


海上遭難者慰霊之塔

レジャー施設跡の奥に海上遭難者慰霊之塔がある。奥武島周辺海域に釣りやダイビングなどレジャーで海難事故があり、その海上遭難者を弔うために建立されたもの。ここでも猫に出会う。至る所にいる。


ニービ井泉 (ガ-)

奥武沙難 (オーガマー) から集落の上原に戻り、時計回りに北に進むと道路の脇にニービ井泉 (ガ-) がある。川神 (カーシン) とも呼ばれている。屋号 玉城の祖先が墓を造るために掘ったが、水が湧き出たので、井戸にしたと伝わっている。



坊主山 (ボ―ジヤマ)

更に北に進み、上原 (イーバル) から西 (イリ) に戻ってきた。もうすぐ島一周になる。西 (イリ) 高台に岩山の拝所がある。この辺りはかつて耳切り坊主が出ると言われていた場所で、この拝所は坊主山 (ボ―ジヤマ) と呼ばれている。2月と8月のニンカジリーの際に拝まれている。


西之嶽 (イリヌタキ)

坊主山 (ボ―ジヤマ) の奥の北側崖の上に奥武島三嶽のひとつの西之嶽 (イリヌタキ) がある。西御願 (イリウガン) とも呼ばれている。現在は、殿から遥拝されている。由来記の「西之嶽 (神名: 渡嘉敷之御イベ)」と考えられている。


龕屋 (ガンヤ―) 跡

西之嶽 (イリヌタキ) から海岸に降りる階段がありその途中に二つの踊り場らしきものがある。この様な場所は御願を行う場所の可能性が高い。ここには龕屋があった所で、ここには龕を保管する小屋があった。今は拝所となっており、ニンカジリーの際に拝まれている。


墓小山 (ハカグヮーヤマ)

もう一つの踊り場も御願をする場所だ。この奥の林の中には死産や流産した赤子を葬った墓地だったという。ニンカジリーの際に拝まれている。


ニービ拝所

墓小山 (ハカグヮーヤマ) から階段を降りたところの道端にニービ拝所がある。拝所周辺の土質が二ービ土だったことで、このように呼ばれている。ニンカジリーの際に拝まれている。


運天井泉 (ウンティンガー)

ニービ拝所の後側にある岩場の反対側麓に井泉跡が残っている。屋号 運天 (ウンティン) の人が、仕事帰りに足をあらうために使用した井戸という。


今日は朝は少し早めに出発したのだが、糸数入り口で休憩中に二人組の男性から話しかけられ、世間話が半時間続いた。40才ぐらいの二人だったが、色々な話をしてくれた。生活保護を受けての生活の様だが、悲壮感は全くなく、アルバイトで生活保護の支給金にプラスしているそうだ。沖縄特有の「なんくるないさ」精神が出ていた。奥武集落巡りを終えた後も、地元のおばさんに話しかけられて、これまた半時間も世間話となった。沖縄の人には良く声をかけられる。これは沖縄だけではなく、日本一周の旅で地方を巡っているとよくあった。多分、東京や大阪などの都会ではこのような機会は少ないのだが、相手を警戒しないで気楽に話しかけられる文化はぜひ残してもらいたいものだ。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 玉城村史 (1977 玉城村役場)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)