わかりあえるはず 2
* * *
四ヶ月前。
入学式は快晴だった。合格発表や入試当日が大雨に祟られたことを埋め合わすのに充分すぎるほどの陽射しで、真新しい制服姿には心地好い暖かさであった。
「え~、皆さんもご存じのように、我が朱雀台学園高校は今年で創立八〇周年を迎え、以前は男子校でありました我が校も、え~、共学に移行してからちょうど二〇年目を迎えることになりました。新しく入学された皆さんも、え~、我が朱雀台学園の生徒であることを誇りに思って、え~……」
退屈、あるいは苦痛を強制される式典での生徒達の反応はおおよそ決まっていて、それがたとえ入学式であろうと崩されることはなかった。
「ZZZ……」
「おい、神崎、起きろ……」
「ん? ん~…… ZZZ……」
明の隣りに座っていた神崎は真っ先にその行動を起こし、校長のも、理事長のも、その言葉を子守歌にしていた。明も初めのうちはそうした神崎を起こそうとしたが、何度起こしても目覚めようとしないのでやめてしまった。明自身にも眠気が押し寄せたのと、入学式といっても明達には中学三年から中学四年に上がるというような意識しかなく、緊張など全くなかったから。
三〇〇人近い新入生が体育館に並べられた椅子に座っていたが、そのうちの二〇〇人近くがちゃんとした試験を受けた人で、明を含めた残りの面々は朱雀台中等部から朱雀台高等部に、簡単な試験を受けるだけで無条件に上がってきた生徒。駅からここまで同じ道程を歩いて、大型トラックが一台入れば幅が埋まってしまうほどの狭い道を隔てた隣りに“移った”だけ。
式典が終わって体育館を出ようとしたときまで江本の存在に気づくことはなく、神崎と一緒にのんびりとしていた。
「ネクタイ着けたら一度これやってみたかったんだ」神崎はネクタイの先をズボンの中に入れた。
「楽しいか?」
「ファッションだよ、ファッション」
「何を言って……」突然明は黙りこんだ。
「どうした?」
「江本……」神崎と一緒に新しい教室に行こうとした明は、集団の中に紛れていた江本を見つけた。制服に身を包み、春休みに会ったときとは違って肩に届くぐらいで髪を切っていた江本は、明のほうに目を投げかけたものの、言葉を掛けもせずすぐに体育館の出口へと向かっていった。
「嘘だろ……」明にはどうしても信じられなかった。
朱雀台というところは、偏差値は中途半端に、学費は必要以上に高い。
偏差値はともかく、江本家の暮らしぶりを明は良く知っている。江本がどこかの高校に行くらしいことはわかっていたが、それは、公立の、学費の安いところだと勝手に決め付けていた。
「何やってんだ。さっさと行くぞ」
「あ、ああ……。……、ちょっと待った」体育館を出かかったところで明は後ろへ向かった。体育館の壁には模造紙が貼られ、マジックで、クラス別に男女が入りまざった出席番号順で名前が書かれていた。講堂に入ったときは自分が杉本や神崎と同じくC組だということだけは確認したが、それ以外の人、明にとってはたった一人のことは見落としていた。
「誰か捜してんのか?」
「ま……あな……」明はA組から順番に眺めていった。
一年C組の出席番号四番に、福島の郡山の中学名が付された江本美香の名前があって、明は江本と一年間同じクラスになることを知らされた。便宜上の中学名も付されていても、所詮は卒業証書のためだけの中学。おそらく、校歌がどんなものか、校長が誰なのか、下手をすれば、担任が誰なのかも、中学校までの道筋ですら江本は知らないかもしれない。
明は、江本が同級生になるとは入学式まで知らなかった。明の父は知っていたようだがそれを匂わせもせずにいた。江本とは春休みにも会ったが、どの高校に行くかなど聞かなかったし、江本のほうからも言ってこなかった。別れ際のちょっとした笑顔に不可解な面持ちを覚えたが、後になって振り返ってみれば、それが江本なりの感情表現だったのだろう。
「なるほど……。遠くて岐阜ってことは、今のところ俺がいちばん遠いわけか」神崎も明につきあって模造紙を順番に見ていたが、自分のように遠くから来たのがいるかどうかしか確認していなかった。
「別にそれ見てるわけじゃないけどな」
江本と同じクラスになることに一抹の不安もよぎった。何かの形で江本の過去が知れ渡ってしまったとき、江本を守りぬけるという自身がなかった。一緒にイジメに加わってしまうかも知れないという不安と、それが彼女と決定的な別れを生むかも知れないという不安。
「(江本が退学するときは、俺も一緒に辞めなきゃならんだろうな……)」明は心でそう呟いていた。
教室へと向かう階段を上る間、神崎は校舎の中の風景に目を投げかけることも、中学から一緒に上がってきた面々と話をすることもなく、じっと上を見つめていた。黙りこんだ神崎を明は怪訝な面持ちで眺めたが、神崎の視線の先にミニスカートの女子生徒の集団があったことで全てを納得した。
中学時代からの付き合いで神崎のこうした行動も明にとっては慣れたことだが、それに完全に歩調を合わせるほど明は恥知らずでもない。本音を言えば神崎のこうした性格を明は羨ましく思ってはいるのだが、明のプライドがそれを許しはせずに寸前のところで留めてくれている。
「何だ。杉本もこのクラスか」神崎はやはり朱雀台中学から上がってきた杉本の姿を見つけた。
「CD返せ」神崎の顔を見るなり杉本は言ってきた。
「……。すまん、忘れた」
「忘れたじゃないだろうが! ありゃ妹のなんだぞ! 明日持ってこい!」
「ちゃんと取りに行くから、夏休みかゴールデンウィークまで待ってろ」
「待ってろって……、実家か?」
「ああ」
「送ってもらえ!」
二人のやり取りを耳にしながらも、明は教室を見渡した。黒板には出席番号順に配された席が示されていて、窓際の前から四番目の席には確かに江本が座っていた。
江本は明のほうに一瞬目線を投げかけたが、すぐに窓の外の風景に目を移した。窓際の席でじっと座って誰とも口を利かないでいる今の江本には、風景の何かが話し相手になっているのだろうか。
いや、江本だけでなく、他の中学から朱雀台に入った生徒の今はほとんどがそうであろう。彼らのほとんどは周囲に知り合いがおらず、半分以上の新入生は一人でいるか周囲に座っている人と話をしているかのどちらか。
何しろ、北海道から来た神崎でさえ珍しさを受けるものでもないほどに、朱雀台学園という学校には日本全国から小・中学生が集って受験する。それだけ全国に名を馳せた学校だということは学校としては喜ぶべきことでもあるのだが、最近では寮にも入り切れなくなってきつつあるだけに、一月半ばから今まで、授業中であっても春休み中であっても、昼間に寮の改築工事の音の耐えることがなかった。
窓際では、江本が前の席に座った女子と話をしていた。
「郡山から! 近くじゃない!」
「石澤さんはどこから?」
「会津若松」
「近いかなぁ」
「隣りじゃない」
余計なことかも知れないが、明には江本が友人を作れるかどうかの不安があった。たまたま出席番号が一つ前というだけの出会いであっても、江本と石澤の二人が何と無く気の合う関係のような思いがして、一つ肩の荷が降りたような安心が訪れた。
二歳のときから江本を知っているが、いつも江本は一人だった。江本の母と一緒にいるときぐらいでしか江本が一人でないときを知らないし、江本が自分以外の同世代の子と一緒にいるのは一度として見たことがなかった。
時の流れが江本を女の子から少女へと変えるまでは見届けたが、そこから先、大人の女性としてのステップを踏んでいるようには見えなかった。江本の父の犯した現実を受け止めるだけの強さを持っているかのように振舞う、そうした弱々しさしか江本からは掴み取れず、時折見せるささやかな笑顔だけが、江本を一人の少女にさせる瞬間だった。
その日の夕方、江本から明のアパートへ電話が架けられた。部活帰りでシャワーを浴びていた明は、バスタオルを下半身に巻いて受話器を取った。
『もしもし……』
「江本? どうかしたの?」
『あの、別に黙ってたんじゃなくって……』
「何が?」
『朱雀台に入学したこと。言わなきゃって、ずっと思ってたんだけど……。明に嫌われたら、もう、私には……。お願い、怒らないで……』
「怒ってないよ。驚いたけど」
江本は言うべきことを言うとすぐに切ってしまった。明と話す楽しさではなく、話さなければならないことを話すという社交的な意味合いでしかなかった。
明より少し遅れてバスルームから出てきた了子は、明にカーテンを閉めさせ、バスタオルを身体に巻いただけの格好で、髪を拭きながら電話の一部始終を聞いた。
「美香からか?」明が受話器を置いたとほぼ同時に、了子は明に聞いてきた。
「ええ」
「そうか……。まだ関係は続けるんだな」
「精算なんてできないですよ。永遠に……」明はうつむき加減に言った。
了子は明に近寄って、明のすぐ隣りに座った。首を包み込むように右手を明の肩に回し、耳元で囁いた。
「ごめんな。さっき、美香から電話があったんだ。言わなきゃって思ったけど、言えなくて……」
「了子さん……」
了子はバスタオルを解き、明に抱きついてベッドに横たわった。
蛍光灯が消されて窓からの光だけが了子の顔を照らすようになったとき、明は了子の顔に江本の涙ぐむ顔が重なって見えた。江本の父に結論が出されたときの、忘れたくても忘れられない江本の顔が思い浮かんで、了子の裸に見取れていることを忘れさせるほどに明を慌てふためかせた。
江本は了子とのことが続いていたと知ってもなお、明に電話を架けてきた。自分が了子との関係を深めたように、江本も誰か見知らぬ男と関係を作っているかも知れない。
関係を作っている同士の電話なのかも知れないという思いが、了子だけを考えることをやめさせた。
今、自分は了子の裸を見ている。そんな自分を棚に上げて、いるかどうかもわからない相手を想像して、江本にヤキモチを焼いている。
了子はいつもの明とは全く違うと敏感に感じ取った。それでも明をきつく抱きしめ、明の思うがままに自らの身体を差し出したが、それでも明をいつも明に戻せないとわかって、ベッドを降り、脱ぎ捨てていた制服を着だした。
「帰る……」
「そうですか……」
「……、引き止めないんだな」
「すいません、今日はどうしても……」
「気にするな。怒ってるわけじゃない。ただ、いつも明と違ってたから……」そう言いながら部屋を出た了子であったが、泣きながら走って去っていったことを明は見ていた。了子の言う通り引き止めも追いかけもせず、ベッドに座って呆けていた。
部屋に一人きりとなってやっと、明は冷静になることができた。
「最低だ……」
了子を帰してしまった自分が嫌になった。
* * *
現在。
開店前、アルバイトの学生達は一斉にモップを掛けていた。隅のほうで黙々と仕事をしていた江本に、バケツを持った杉本が話しかけてきた。
「電話したんだけど、つながんなくてね」
「それで?」
「俺、映画館の前でずっと待ってたんだよ。江本っちゃんが来るのをさ」
「ごめん。昨日はどうしても行かないといけないとこがあって……」
元々ここでは杉本の双子の妹がアルバイトをしていた。何人かアルバイトを辞めたので、妹は友人達を招いた。その中の一人に江本がいた。それとほぼ同時に男手が欲しいという店長の申し出があったので、彼女は兄も引き入れた。
それが杉本にとっての江本との出会いだった。教室という空間では単なるクラスメートであった江本が、ともに働くうちに興味を引かれる少女になり、江本美香が自分の理想と重なって自らの心に描かれていき、杉本の心にある江本が理想の女性と同一人物になっていき、恋心を抱かせる女性になった。
肝心の江本は戸惑いを感じていた。杉本が江本の心を捉えたからではない。寂しさを埋めていることに戸惑いを感じていた。
明が自分ではなく母親の面影を持つ人のところに流れていっている今、江本は明との間に距離を感じ出してもいた。これまではどんなに遠くにいても側に来てくれていたのに、今は同じクラスなのにどうしようもない距離感を感じている。その寂しさを埋めるタイミングで杉本が現れた。
それでも、杉本に対して明と同じ感情を持つことはできなかった。
明は自分のことを知っているのに抱きしめてくれる。杉本には欲情しか感じない。その違いがあって。
開店一五分前になると、大きなスポーツバッグを抱えた明が店の前の道を歩いて行く。休みの日に頻繁に見られる光景であるが、明の相手は江本ではなく杉本兄になることが多い。
この日も明が店の前を歩いていき、駐車場の掃除をしていた杉本と顔を合わせた。
「相変わらず、オナゴがいっぱいおりますのお」明は杉本の側を通りすぎ、店の中を覗き込んだ。
「毎度々々玉城がそうやって手形をつけるから、毎日々々窓を拭かなきゃならなくなったんだ」
「俺もここでバイトさせてくんねえか」
「誰か目当てでもいるのか? 長岡、石澤、近田……。まさか香じゃないだろうな」
杉本は女性達の名前を列挙し、妹を心配する兄の素振りまでは見せたが、江本の名を加えるまではしなかった。
「誰が目当てか当ててみるか?」
「何かくれるのか?」
「商品の発送は当選者の発表を以て替えさせていただきます」
「名前呼んで終わりか」
「気づいたか?」
この店は駐車場に面した壁の全面がガラスになっていて、店の中が丸見えになっている。
開店前の慌ただしさが、それを全く無視しているかのようなのんびりとした杉本との対比となって、覗き込んでいる明には否応なく目に入ってくる。
マジックミラーではないので、当然、店の中からも外の様子がわかる。店長が杉本のほうを睨んで間もなく、明は店長の視線に気づいた。
「なんだか睨まれとるぞ。いいのか?」
「いーのいーの」
杉本も店長の視線には気づいていたが、自動ドアを開けて出てきた香には気づいていなかった。
「お兄ちゃ~ん。な~にサボってるの~!」
「こ、こら! やめんか!」
香は兄の耳を引っ張って店へと連れていった。
「うるわしい兄妹愛だ」
「落ち着いてないでどうにかしろ!」
「じゃあな」
「おーい……、玉城……」
明は軽く手を振って、杉本を見捨てて学校へと歩いていった。
店に連れ戻された杉本は店長に引き渡された。彼女は杉本を叱ることなく、ローテーション通りにそのままレジに立たせた。
「玉城くんと仲がいいのね。いつも一緒じゃない?」江本は深い意味もなく聞いた。
「腐れ縁だよ。中等部からのね」杉本は仕方無いといった感じで、一部始終を江本に話した。彼女は一部始終を眺めていて、杉本の言葉と事実との間の違いにも気づいていたが、あえて指摘しなかった。
江本のほうから明を話題に取り上げなければ、杉本も明について話することはなかった。
明と江本との関係を全く知らない杉本には、クラスメートという以外、江本に明を認識させたくなかった。明だけでなく、男という男全てを江本から遠ざけたかった。そして一人占めしたかった。それがいわゆるストーカーの心だというのはわかっているから行動には移せないが。
この店でのアルバイトを始めて間もない頃、江本は一回だけ、学校の中で明に『明』と呼びかけたことがある。不意に出た言葉で、江本には言い慣れた、明には聞き慣れた声だったので、二人とも気が付かなかったが。
杉本は大勢の一人として不意に出たその一言を聞き、疑いを抱いた。そして、声のほうに目をやったとき、廊下で何気なく話をしている二人の姿が目に入って、その疑いは確信へと近づいていった。そのあと、杉本は自分が江本をどう想っているかを、明に話した。
明は何も言わなかった。いや、言えなかった。
何か話をする暇があったのは開店から四・五分後までで、それから昼休みまでは、江本が隣りのレジに立っているのに、杉本は視線を投げかけることすらできなかった。
昼休みは交替で取る。ローテーションがうまく噛み合ったとき、確率的には一〇日に一度ほどだが、そのときしか江本と二人きりで店の外に食べに行くことはできず、その日が巡ってくるのを杉本は指折り数えて待っていた。
駅前のパスタ専門店はわりと混んでいた。並ばずにテーブルに着けたが、注文してからしばらく経たなければパスタは運ばれてこなかった。運ばれてくるまでの間あれこれと江本に話しかけたが、江本は気のない返事しか返してこなかった。
「どうかしたの?」
「ううん……」フォークを回しながら、杉本のほうに視線を投げかけずに答えた。
運ばれてきても江本の態度は同じだった。
ずっと楽しみにしていた時間が、何の進展もないまま終わることを杉本は覚悟していた。一方的な感情になっているかもという思いは抱いていたが、同時に、数を重ねることで、江本の気持ちが自分に傾くだろうと考えてもいた。
無意味に見えても、いつか訪れるであろう想いの実るときへのステップとして考えていた杉本には、会話の全く弾まなかった時間であっても納得の行く時間であった。
「江本ーっ」
「?」
「アニキに何かしたのか?」香は兄が満面の笑みを浮かべていることを訝しがって、江本に尋ねた。
「別に、何もないけど」
「またか……」
アルバイトを辞めたがっていた兄が、いつの間にか率先して店に足を運ぶようになった理由をわかったとき、兄を応援すべきか、友人を助けるべきかという択一に迫られた。
香には予感があった。江本には男がいると。それも、金とか脅迫とかではなく、誰もが祝福するような関係で、江本がその男との関係に幸せを感じているとも。
それでも、せめて一回ぐらいは兄にその思いを叶えさせてやろうと、策略に近い形で、兄と江本とのデートを成功させた。それから二人がどうなるかは二人に任せて、香は手を引いていた。
客観的に見て、杉本の一方的な想いという構図に変化はない。