わかりあえるはず 6(完)
* * *
三年前。
明の家には、明と、江本と、その当時はまだ小さかったミカの、二人と一匹が住んでいた。明はそれが夏休みだけの特別な暮らしだと割り切っていたが、江本はその生活が永遠に続くと信じていた。
二人はどこに行くにもずっと一緒だった。たった一日を除いて。
江本との奇妙な同居が始まってから三日後、明は警察に呼ばれ、身元引受人として明の父が呼ばれた。
「理由はどうあれ、人を一人傷つけた」
「……」
警察署から帰る車の中で、父はこう言って明を突き放した。
全てが明らかになったとき、明には車の窓を壊し、男を殴りつけてケガを負わせたという事実が残った。
男は江本を犯そうとしたことだけが問われていたわけではない。江本は男の被害者の七番目に過ぎず、八件に及ぶ強姦と強制ワイセツの中でたった一件の『未遂』だったのはむしろ幸運とも呼べた。
一都三県を渡り歩き、八件目となった宇都宮での犯行で逮捕されたとき、男の手元には七人の少女の写真があった。
犯したあと無抵抗でいる少女達の全裸の写真は男の罪を逃れえぬものとさせたが、それでも、男は自らを正当化させる理由を延々と述べ続けていた。
誰が聞いてもそれが正しい理由だとは思えない。だが、男にはそれが正当な理由となっていた。
父は男が語ったその理由を明に言った。明に理解できるような内容でなく、理解したのは男の言っていることが理由にはならないことだというぐらい。
「だが、明が口にする理由だって理由になってないぞ」
「?」
「江本の娘を助け出すだけなら殴りかかる必要はなかったんじゃないか?」
「なんで」
「状況だけでいうなら車のドアをどうにかして開けるだけでよかったんだし、男のほうも明に見られたところですぐに、江本の娘を解放しようとしたと言っている」
「そんなのウソだよ」
「ウソだという証拠はどこにもない」
「……」
「それに、男の理由はどうあれ、明がその男に殴りかかってもいいという理由はどこにも見当たらないな」
「犯そうとした、だから、許せなかった」
「それだけか? 明が怒っているのはあの男に対してなんかじゃない。無論、全くないとは言い切れないが、明の怒りの際たるものは明自身に対してのものじゃないのか?」
そのときよりは冷静になったと考えている今でも、そのときのことを思い出すだけで怒りがこみ上げてきた。
自分がカッとしやすいタチだというだけでは説明がつかないほど、そのときの自分は冷静さを失っていて、今でも表面だけの冷静さでしかないことに気づいていた。
「怒りには理由がある。だが、それは本人にしか通用しない理由だ。自分を正当づける理由を立てることは誰もがするが、自分が正しいと考えることも、他人からすれば許されないことだというのは珍しくもない。明が殴りつけている間誰かがそれを見たなら、それは強姦犯と恋人を助けようという一中学生ではなく、不良中学生と善良のサラリーマンと映ったんじゃないのか? もしあの男が『タチの悪い美人局』に引っかかったと言ってしまえば、第三者が脱がされそうになっていた江本の娘を見たところで、『不良中学生の片割れ』ぐらいに見るだろう」
さすがにその男はそこまで考えもせず、動かせぬ証拠も突きつけられていたこともあって、明の暴力には何の咎めもなかった。
だがもし、明の暴力がその男の命を奪うことになったら……
「殺してやる。そう考えたんだ……」
明はそのときの自分に恐ろしささえ感じていた。
家に帰ると江本が明を出迎えてくれた。
彼女は明の父の顔を見た途端、明の手を引っ張って家の中に入れ、ドアを閉め、鍵を掛けてしまった。
明は靴を履いたまましばらく玄関に佇んでいた。
江本の自分の父に対する気持ちは知っているつもりであったが、ここまで露骨に示すとは思わなかった。
「だめ」
「何が?」
「あの人と一緒にいちゃだめ。明は私と一緒にいなきゃいけないの」
そう聞いて明は何も答えられなかった。
江本はやっと幸せをつかんだと感じていた。普通の人から見れば当たり前のことかもしれないが、自分を包み込んでくれる人と一緒に暮らせることが何よりも幸せだった。
このときの江本には自分と明しか見えていなかった。犬がこの家にいることはわかっていたが、全く認識していなかった。それ以外の人は全く見えていないか、あるいは、明の父に対したように拒絶反応を示すかのどちらか。
起きてから寝るまで、いや、ベッドに入ってからも江本はずっと明にぴったりと寄り添っていた。
夏休みだからできること。平日ではとてもではないができない。
本来なら夏休み中はほとんどアメフト部の練習に明け暮れるはずだったが、腕の骨折で部活は休めた。だから、里帰りして夏休みに家にずっといても、学校から何かくることはないはずであった。
事件を起こしたことで学校から問い合わせはあるのではないかと思っていたが、学校からは何もなかった。
そのことについてはすべて父が片付けてくれたのであるから。
明の事を聞いた学校は、最初、明を誇りに感じたらしい。何しろ事件を解決するきっかけを作ったのである。
だが、息子に代わって学校にやってきた明の父は違った。
「どんな理由であろうとも、明は一人の人間に対して暴力を振るったのです。退学させるなら遠慮なく退学させてください」
「そんなことできるわけないじゃないですか」
「息子は暴力を振るったんです。子どもだからとか、正当防衛だとかといって甘やかさないでいただきたい」
「あまり厳しすぎるのも考えものですが」
明の父はそうして一時間以上も息子への厳罰を求め続けていた。だが、学校側も折れなかった。明の父への反発なのか、何一つ罰を与えないと決定もした。
「そうですか。まぁ、学校が明に対してどのような処分を下すにせよ、息子をその処分に従わせます。それといま、私は明を、罰の意味でずっと家に閉じ込めてます。無論、比喩的な意味でですが」
明が家に閉じ込められているのは本当だが、父が加えた刑罰によってではなく、江本と一緒にいるからだとは当然のことながら一言も言っていない。
それに、家に閉じ込めたとしても、夏休み中なのだから出席日数に関係はしない。おまけに明は腕を骨折しているのであるから、静養させなければならない。
父が狙っていたのは、明に対して学校から何の処罰も下されないことである。そのために厳しい父を演じ、しかも、自分が明に罰を与えていることを示し、どんな処罰でも受けさせると明言して、学校側の動きを封じ込めたのである。
「すでに充分どころか必要以上の処罰を受けた明君に、我々がこれ以上苦痛を与えるつもりはありません」
「では、処罰は行わないと」
「はい」
「そうですか。それでは、失礼します」
真実の全てを語ったわけではないが、嘘をついたわけでもない。それでいて、明の父は求めているとおりの結果を得た。
職員室にいる誰もが明の父の手のひらで踊らされる形となった。ただ一人を除いて。
「玉城くん」
職員室を出ようとしたとき、それまでずっと黙っていた教頭先生が声を掛けた。
彼女は二五年前、明の父の担任であった。そして、江本の父の担任でもあった。
「今の、あなたの本心ではないでしょう」
「(先生……)」明の父は、二五年前の彼女を思い浮かべながら心の中でつぶやいた。
そして、彼女の問いに答えた。
だが、彼女のほうを振り返ることはなかった。
「心配することはありません。このことで、あなたの子を罰しようなんて考えていませんから。明君は正しいことをしたのですから」
「(私は、あなたの教え子を一人、殺したんです。同じ人殺しでも、江本は裁かれ、私はほめられる。同じ暴力でも、明は許され、明に殴られた男は裁かれようとしている。正義だなんて言葉、私は嫌いです。)」
心の中でそう言って、職員室を出た。
職員室を出た明の父は、職員室での話の一部始終を聞いていたと思われる女性に声を掛けられた。
了子を見たときの明の父の思いは、明が初めに抱いた思いと同じだった。
「(似ているな……)」
亡き妻の面影を抱かせる女性に興味は抱いた。興味は抱いたが、それ以上の感情はなかった。
「わたし、明くんの……」
「クラスメートですか?」
「いえ、学年も違いますし」
「で、明に何か用ですか?」
「あまり明くんを責めないでいただきたいと。もちろん、盗み聞きしていたことは謝ります」
二人は歩きながら職員室の前を去り、学校の外へと出て行った。傍から見れば援助交際の現場に見えなくもない。
「アイツのためを考えるのなら、退学のほうが幸せかもしれないんです。対外的には大きなマイナスでしょうけど、明のこれまでの人生を考えるなら、この学校にいることは決して幸せとは言えないのではないかと、思いますね」
「どうしてですか?」
「あなたは息子から、息子の過去をどれだけ聞いていますか?」
「どれだけと言われましても、明くんはあまり過去を語りませんから。明くんのお母さんに似ているって言われたことありますけど」
「それは認めますね。僕も妻に似ているって思いましたから」
「そんなに似ているんですか?」
「生きていたら会わせてみたかったですね」
「知ってます。亡くなられたのですよね。明くんが言ってました」
「亡くなったというか、死んでしまったと言うか……」
「何か事情でもあるのですか?」
「殺されました。もう一〇年前になります」
「……」
明の父はそこまで言って了子の元を離れ、駐車場へと向かっていった。
その日の午後、了子は明の実家に向かった。向かっている間中、明の話と、明の父の話が脳裏から離れなかった。
「(死んだとは言ったけど、殺されたなんて言ってなかった。私と会ってるの、私じゃなくって、亡くなったお母さんの面影求めて? だとしたら、私あのコに悪いことしてるんじゃ……)」
そのときの了子の頭の中には自分と明との関係しかなかった。
それだけに、明の実家に着いたときの衝撃は大きなものとなった。
了子を出迎えたのは明だけではなかったのだから。
その二人の関係に自分が入り込めるなど、少しも思えなかった。自分だけでなく、他のどんな人だろうと入り込めない関係がそこにはあった。
被害者の息子。
加害者の娘。
この二人の関係に、いったいどうやって入り込めるというのか。
* * *
現在。
雑誌を閉じて起き上がった了子は、二・三歩明の元に近づいて言った。
「忘れろなんてのは言わないけど、あまり仲良くするなよ」
「そういうわけにはいきませんよ」
「だめだ」
了子は、友情に対して極度にドライな態度を取っているというより、友人を作りにくいタイプというほうが近い。受験一辺倒の生徒には同級生全てをライバルに考えて孤高の態度を取っているのがいるが、それとはまた違った一人きり。
明の知る限りでは、了子に友人と呼べるべき人が見当たらない。話し相手ぐらいはいるが、ひょっとしたら明だけが了子の友人と呼べる相手なのではないかと明は考えた。自分は数少ない例外であって、本当は人が嫌いなのかもしれないと。
RRRRR…RRRRR…
そのとき電話が鳴った。
「はい、玉城です。え! ……、わかった……」
受話器の向こうは明の父。珍しいことがあるものだと最初は軽く考えたが、すぐに軽い話ではなくなってきていた。
明は受話器を置き、テレビをつけた。
選挙や為替相場といったニュースの後、それは簡単に伝えられた。
『江本貞夫死刑囚に死刑執行……』
「とにかく明はここにいて。美香は私が連れてくるから」了子はすぐにヘルメットとスクーターの鍵を持って立ち上がった。
了子は何とかして江本と連絡を取ろうとしていた。江本のアルバイト先は店自体が休みでつながらず、女子寮に電話を入れてもナンバーディスプレイで拒否されるのかベルは鳴っても誰も出なかったが、それでも諦めずに外に探しに行った了子を、このときほど頼りに感じたことはなかった。
その逆に、明は二時間ほど何もできなかった。
久しぶりの一人はやけに静かだった。テレビの音ぐらいが賑やかさを醸し出しているだけで、明自身は黙っていた。一人暮らしとは言え、了子とほとんど一緒に過ごしていたのだから。
RRRRR…RRRRR…
了子からか、あるいは、父からの電話と思って受話器を取った明の耳に届いてきたのは、教室でもさほど話したことのない石澤の声だった。
『あなたと江本ってどういう関係なの?』
最初、石澤は江本と自分との関係を知ったのだと思った。でも、その石澤の声はあまりにも軽く、一方的に話しかけ得てくる内容からしても、江本のことを知ってのことではないことは確信できた。明は何と答えるべきかという以前に、この女は何を聞いているんだという疑問が沸いた。
どうやら石澤はカラオケボックスから電話しているらしく、ブースの外で電話を架けているが、壁やドアをつき抜ける騒音が電話に割りこんで石澤の声を聞きとりづらくさせている。
受話器の向こうには、石澤の声だけでなく微かに江本の声も聞こえていた。自分の電話番号を知っている女性のうち、石澤と関連があるのは江本の他にはいない。
「何でそんなこと聞くんだ?」
『江本のため。江本のアドレスに書いてあんのは、私らの他には玉城明の住所と電話番号だけで、あれだけ言い寄ってる杉本のお兄ちゃんのはどこにもない。もし江本とあなたとの間に何か関係があるんなら、そのことを杉本のお兄ちゃんに悟らせて江本を諦めさせれば、江本は気楽になるんじゃないかって思ってね』
「たかが電話番号のやり取りだけだろ」
『重要な問題だよ。あなたのだけあって杉本のお兄ちゃんのはないんだから』
「携帯のメモリかなんかに書いてあんじゃないの」
『江本って携帯持ってないよ』
「ってことは、やりとりなんか全部電話使ってるってことだろ。杉本に電話したかったら妹の電話番号見りゃいいだけじゃないか」
『……。それはいいとして、江本が玉城くん家の電話番号を知っているのはどういうわけ?』
「教えたから」
『そうじゃなくて……、それじゃ、昼間の二人の仲はどう?』
「ん?」
『昼間の試合のときの……』
「ああ、あのときね。話しするだけで関係云々が言われるなら、俺がこうやって石澤と話しをしているのだって、何かあるんじゃないかって勘ぐられるんじゃないのか?」
『それとこれは別だよ。江本はあなたのことを『明』って呼んでんだし』
明は受話器の向こうにいる江本の声が気にかかった。『やめて』と言っているようであり、逆に楽しんでいるかのようである。どうやらまだ江本は知らないようだ。
何にせよ、石澤の言葉に合わせて、自分と江本との過去をベラベラ喋る必要はない。石澤がどういう人であるかは江本の口から断片的に語られたことと、神崎の水泳部という枠での石澤と、杉本のアルバイトという枠での情報だけ。それら全ての石澤に関する言葉よりも、今こうして電話で話ししていることのほうが、石澤舞という女性の姿をより多く伝えてくれる。
『江本にかわるね?』
受話器の向こうで石澤の江本を呼ぶ声が聞こえ、しばらくカラオケボックス特有の音が聞こえた後、江本が受話器を取った。
『もしもし』
「これ、盗聴されてる?」
『?』
「石澤あたりが耳をそばだててるとか、怪しげな機械を使って盗み聞きしてるとか」
『ないけど』
「でも、側にはいるんだろ。声が聞こえるし」
『うん。でもぜんぜんこっちのほう向いてないし、聞いてもないからだいじょうぶ』
「大事な話だから。あまり聞かれないほうがいいし」
明の「大事な話」に、江本は愛の言葉とか告白とかといった淡い期待を抱いた。
その淡い期待は、直後に崩れ去った。
『うそ……』
電話が切れてから五分ほど経っても、江本は呆然としたまま立ちすくんでいた。
三度行なわれた裁判の全てが、江本貞夫を有罪とする結論を下した。判決を下す裁判官の重い声はセレモニーの幕引きでしかなかった。それでも江本は最後の温情を信じていた。
信じていたのに結果は変わらず、結果は実行された。
テレビを消して、明は横になった。了子には既に電話で江本の居場所を伝えてある。後は了子が江本を連れてきてくれるのを待つだけ。
その間、明は三年前の江本を思いだしていた。
最期の判決が出たとき、江本はどうしたかを。
奇妙な同居が終わってから一ヶ月後のとある日曜日、とある駅で、江本は駅員に捕まっていた。キセルである。
迎えに来たのは明だった。親でも、教師でもない。ロクに学校にも通っていない江本では、どんなに熱意あふれる教師であっても頼る相手には当たらないであろうが。
明はとりあえず江本を連れて駅前の喫茶店に入った。
『もう帰れよ』
『いや』
『江本が学校に行かないってのは勝手だけど、俺はちゃんと学校通ってる身だし、明日も学校がある。住んでるとこも江本と住んでた家じゃないし、夏休みのときみたいな二人暮らしは今はできないんだよ』
『本当のこと言ったらどうなの。あの人がいるからでしょ』
『あのね、俺達の現実を考えろよ。芸能人にでもなってれば今の俺でも江本を養えるだろうけど、寮と学校の往復しか知らない俺がどうやって江本を養えるんだよ』
『アルバイトしてるって言ってたじゃない』
『アルバイトと言ったって、了子さん家の喫茶店たまに手伝ってるだけだし、親父からの仕送りだけじゃ足んないから。それで生活できるわけじゃ……』
『……、つまんない』
『つまんないって、じゃあ、どうならばいいわけ』
『前の明に戻って』
『あれは夏休みだったからできたんだ。今は二学期の真っ只中』
『私と一緒に逃げて』
『はぁ?』
『二人きりで逃げようよ! あの人も学校なんてのも無いところに連れていってよ! そうじゃないと、私、わたし……』
『ミカ……』明はその時、江本の下の名前を呼んだ。一ヶ月の同居の間は使っていた江本への呼び名である。
江本の求めているのは一ヶ月の同居と同じものだった。ろくに学校に通っていない江本は、それが夏休みの極々限られた状況であったからできた事だという考えは浮かんでいなかった。そのときの幸せがどうしてもほしかった。だからキセルまでして明に会いに来た。
喫茶店を出てから、江本を連れて江本の住まいへと向かった。
そのとき、江本がなぜ自分を訪ねてきたのか、正確にはなぜ自分の元へと逃げてきたのかを知った。
江本の母は家に鍵を掛け、黙り続けていた。ドアの前にまでマスコミが詰めかけ、彼らは江本の母を標的にしての心ないインタビューを試みていた。
この日、一審・二審と何も変わらない最後の判決が出た。
マスコミがいなくなった隙を見て、江本を母の元に渡した。江本の母は、涙を流して江本を抱きしめた。家出した娘が帰ってきたというのがそのときのもっとも簡素な説明である。だが、明の脳裏に強く焼きついたのは、抱きしめられている間中、助けを求めるかのように明に投げかけていた江本の視線だった。
「俺が、守らないと……」
学校で明と江本との関係を知っているのは、本人と、了子だけ。杉本兄妹も、石澤もそのことは知らない。
窓の外から聞き慣れたスクーターの音が聞こえてきた。
階段を上がる音は二人分聞こえる。
「ただいま」そう言って了子はドアを開けたが、明の目にまず飛び込んできたのは、呆然としている江本の姿だった。
了子は江本を残して部屋を出て、ドアを閉め、階段を下り、部屋の明かりを外から見つめた。
カーテンの向こうには二つの影。寄り添い、徐々に近づき、二つの影は横に倒れ、部屋の明かりは消された。
「ずるいよ……」
スクーターに乗って、了子はアパートを後にした。
乗っている間中涙がずっとこぼれ落ち続けていた。
どうやっても自分が入っていくことができない悔しさ。
悔しくて、悔しくて、でもどうにもできなくて。
家に着いた了子を迎え入れたのは了子自身すら予期していなかった了子の両親だった。離婚すると言っていたはずの両親が泣きはらした娘を優しく包み込んでくれた。
「う、うわぁぁぁぁぁ……」
* * *
向こうの駅に着くまではそれなりの足取りであったが、駅を出てからの江本の足は実家へと向かっていなかった。日は暮れたが、もうバスがなくなったわけではない。それなのに、江本は明の腕にしがみついたまま人の少ないほうへと向かっていた。
「どこに行くんだ?」
「ホテル」江本は即答した。
「!」
「それとも、野宿するつもり?」
「俺一人だったら野宿でもいいだろうけど。でもな……」
「私はいや」
江本はどこでもいいから建物の中に入りたがっていた。街を歩いているところをあまり見られたくないという程度ではなく、人目という人目を全て避けたいという感じで、明と歩いていても、明の影に隠れているような感じであった。
ここは確かに江本の実家のある街。だが、それは単に母がここに住んでいるというだけで、他に想い出があるわけではない。強いて想い出を上げるとすれば、高校に入るまでずっと家に引き籠もり続けていたことぐらい。
「いいの?」ラブホテルらしき建物が見えたとき、明は明言せずにささやいた。
「うん……」
バスローブを身にまとい、二人ともベッドに座ってじっとしていた。明の右腕と江本の左手だけが絡みあっている。
「何もかも忘れたい……」
明は江本の手をゆっくりと下ろして、江本を抱きしめた。唇を重ね、バスローブを解き、ベッドに横たわらせる。この一連の動きの中で、江本の口からは何度も『好き』の一言がこぼれた。
江本の閉じられた瞼から涙がこぼれ、明は指先でそっとその涙を拭った。
肉体関係は三年近くになるが、初めのうちはママゴトのお医者さんごっこの延長みたいなものだった。自分達のこれからすることが何であるかを頭で考え、乏しい知識でお互いの裸を確認しあう程度のものであったのが、年齢に比例して二人の身体が大人へと近づいていくにつれ、二人は身体を合わせることに対してより多くを求めるようになった。悪く言えば性欲に従ってのものであり、良く言えば大人になってきたということか。
「どうして! どうして……」
「……」
「帰るって言ったのに、お父さん、絶対に帰ってくるって……」
「美香……」
どんな人物と評されようと、江本貞夫は江本にとって掛け替えのない父親であり、自分を迎えいれてくれる優しさを持つ人であるが、そんな感情を持ちえるのはごく一部の人しかいない。世間にとっての江本貞夫は、社会からの逸脱者であり、許されざる誘拐犯であり、この世から抹殺すべき殺人犯である。
その社会が下した判断は、死をもっての罪の償い。
社会はそれを喝采した。そのことによって、罪なくして社会から抹殺される人がいることに気づかずに。
カーテンの隙間から差す朝日が江本の寝顔を照らす。明は眠ることもできずじっと江本を見つめていた。目には涙の跡が残っている。
「父さんはどうして、江本を朱雀台に入れたがったんだろう? 俺がいるから? それとも自分が出たところだから?
もしかしたら、江本にとって父さんの手紙はただの口実なだけで、初めから朱雀台にくるつもりだったのかも……。江本ぐらいの頭があればもっといいとこ入れたんだし……」
江本は特待生として朱雀台に入った。中等部時代一位の成績だった生徒と、入試で一位の成績になった生徒は、特待生として卒業まで授業料が免除になる。江本自身それがあるから朱雀台に入ったのだと言うし、決して裕福ではない江本家を考えれば、それは正しい選択であった。もっとも、特待でなかったら明の父が江本の分の学費を出すことになっており、特待であるかいなかに関わらず、合格すれば江本は明の同級生になったはず。
一位の成績となる保証などどこにもなかった。全国で一・二を争うというわけでもないが、朱雀台はそれなりに名門である。そんな中、内申書はほぼ絶望的とも言うべき江本が特待生になれたのは、江本自身の意地があったから。
どんなに自分を追いかけ、家出までして頼ってきても、江本は自分の父を嫌って、恐れて、遠ざけようとしている。だいいち、自分の父を死刑囚にさせた元々の原因となった男の援助など到底受け入れられない。それが江本の意地なのだろうと明は考えているし、江本もそうだと認めている。
「ん、んん? ? や、やだ……」目覚めたとき、江本は明が自分のことをずっと見つめているのに気づき、軽く頬を赤らめた。
「おはよ」
「お、おはよう」
明は江本が眠っている間自分が考えていたことを江本に話した。目覚めたばかりで江本はあまり頭が働いておらず、答えるのにしばらく時間がかかった。
「違う。特待生になったの、貧乏だからっておまけで……。あの人を見返したかったし……」
「なれなかったら、朱雀台に入らなかった?」
「明のお父さんからの手紙が来るまで、高校なんて考えてなかった。就職は少し考えたけど」
「どこに就職するはずだったの?」
「決まってなかった。これから就職先捜そうかってところに手紙が来て、それから受験勉強始めたから」
「それでよく受かったね。三年間ずっと塾通いで落ちたのもいっぱいいるのに」
「私みたいな人間が人を見返せるの、偏差値が一番楽で大きいから。犯罪者の子でも、平等に計ってくれる。見返したいって気持ちで、ずっと……」
高等部に移っての一回目の中間テストで、明達は江本の隠された一面を知らされた。中等部出身と他の中学出身とでは、中等部出身のほうがいい成績となる。これが朱雀台の伝統とも言うべき形であったのに、この年のテストでは中等部出身の生徒を押し退け、江本が学年トップの座に着いた。
その座は期末テストでも奪われず、大学受験だけを考えて入学した面々にとって、江本は羨望と怨恨の眼差しを向けられる対象になった。
怨恨はともかく、羨望は江本にとって初めての眼差しだった。忌み嫌うように遠ざけるか、迫害するか、もしくはいないかのように無視するかが、明を除く同い歳の人間のこれまでの眼差しであったのだから。
そこには何も刻まれていなかった。
墓石とはそこに誰が眠っているのかを記すものであるはずなのに。
「あなたは幸せになりなさい」母はそう言って、なかなか墓の前から立ち去ろうとしない娘を送り出した。
「幸せ……」
「明クンが待ってるよ」母にとっての精一杯の笑顔だった。
少し歩いて振り返ると、母は墓石にしがみついて声を挙げて泣いていた。それを見てから江本は早足で門まで向かった。
明は前のバス停までは一緒に来たが、門の中までは行かず、バス停の前の古ぼけたベンチに座って、江本が戻ってくるのを待っていた。
二時間ぐらい経って、江本が戻ってきた。
「次のバス、あと一〇分ぐらいだよ」
「……」明の元に返ってきた江本は何も言わず明の隣に座った。
それからしばらく江本は黙っていた。
バスがやってきて、二人は一番奥の席に座った。
「今頃みんな、私たちのこと知ったんだろうね」江本はかなり無理して話し出した。たぶん帰っても黙り続けているだろうと考えていただけに、江本のほうから話しかけてきたのは明には少し意外だった。
「だろうね」
「だったら、学校辞めないといけないかな……」
「どうして?」
「恐いから……、壊したくないから……」
「壊すって言ったって……」
「何もかも捨てる覚悟、私はあるよ。でも、明にそれはないでしょ」
「……」こう言われて明は少々戸惑った。江本が『壊したくない』と言う対象が自分なのだと聞かされて。
「私たちのこと言ったら壊れるよ。何もかも……」
「そうとは思わないけど」
「じゃあ言うよ」
「……、いいよ」
「壊れるんだよ」
「壊れたっていいよ。美香と一緒なら」
「……」
「美香と一緒なら、構わない」
「ありがとう……」
それからずっと、手を握り続けていた。
わかりあえるはず 完