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粋なカエサル

「フィレンツェ・ルネサンスとコジモ・ディ・メディチ」4 危機の14世紀(3)

2021.07.08 00:56

 まわりの人々が次々に罹患し死んでいく光景を目の当たりにして、人々はどうしたか?『デカメロン』の登場人物たちのように郊外へ逃げることと神に救いを求めること、それしかできなかった。しかし流行は収まる気配を見せない。このような災厄に直面して、人々は二つの極端な行動様式をとったとされる。一つは、不可避の死を前に、やり残したあらゆるこの世の快楽と放銃とに身を委ねようとする態度。

「マッテオ・ヴィラーニ Matteo Villani によれば,多くの人々が『疫病発生以前には決してしなかったような,恥知らずな振る舞いをしたり,奔放な生活を送っていた。ひとびとは何もしないということに没頭し,無制限に飲食にふけり,宴会と酒場を好み,楽しいこと,ぜいたくな食事や賭博を重んじた。ためらいなく贅沢に打ち込み,目立つ衣装を身につけ,異常な流行に熱中した。ふしだらに振る舞い,次から次へと新たな刺激にも順応した……』とある」(クラウス・ベルクドルト「ヨーロッパの黒死病―大ペストと中世ヨーロッパの終焉」国文社)

 それは、刹那の快楽によって死の恐怖を忘れようとするものだったが、それだけではなかった。地上の生に関する教会の聖なる教えや,天上の神に対する畏敬によっては最早償うことのできないほどの累々とした孤独な死体の数々は,神への不信と神(教会)の与えた倫理への挑戦を生み出したのだ。

 もう一つは、ペスト流行を神の怒りの顕現と見なし、人間が重ねてきた罪に対する懲罰として理解し、厳しい贖罪行為に身をまかせようとする態度。その一つが「鞭打ち苦行団(Flagellant)」。本来「鞭打ち」は規則違反に対する懲罰だったが、のちにこのことから逆に,苦行と改悔の手段として採用されるようにもなった。13世紀イタリアにおいて,世界終末の接近を警告し,道徳的退廃を非難して鞭打ち苦行を行ったものが,最初の集団的な事例である。先導するのは十字架と松明を掲げた一人の修道士。上半身は裸体になり、顔はヴェールで隠し、足首まで届く長いスカートのごときものを身にまとい、血を流すまで露出された肌を自分で鞭で打った。告白の祈りを声高に唱え、教会を見つけるや必ず祭壇の前にひれ伏した。この運動は、次第に半封建体制、反教会運動という政治的な方向へ組織化される傾向を帯びるようになり、教会は警戒を強め、教皇は1261年、行進の禁止を呼びかけ、この熱狂的な運動は終息。それが、黒死病の勃発とともにふたたび激しい活力を取り戻した。

 いずれにせよ、人びとは何よりも死のことを考えた。急激に、突如として襲ってくる死。身分や住まいの隔たりなく、だれをもとらえる死。黒死病による死は、自然死とはあまりに違うものである。死についての、新たな感性が生まれざるを得なかった。「死の勝利」とか「死の舞踏」とかよばれる画像が多くつくられた。黒死病の死を図像を用いて表現したのであるが、その造形力はそれまでのヨーロッパ芸術史のなかにはみえなかった新しいリアリティを表現することになったと言える。

 人々は偏在するようになった死の現象を説明したり、これに対応するための術を考え始めた。いつもつねに死のことを気にかけていれば、よく往生し得ると信じられた。「死に方の術(往生術)」なる書も書かれ、「メメント・モリ(死のことを思え)」という標語が流行した。これらすべては、黒死病の襲撃に強い衝撃を受けた人々として、しごく当然の反応だったであろう。

 15世紀の前半になると、黒死病の威力はようやくおさまる。人間活動にはようやく回復の調子が現れる。人口、生産力、取引額ばかりか、芸術家や学者たちの活動にもよみがえりがみられた。ひとたび、死の奈落をみた人々は、死ののちに蘇生した生について、敏感な感性をもつようになった。死と生の険しいせめぎあいの中で生のかけがえのない価値に思いあたった。死というきびしい否定の上にたった生である。「ルネサンス」=「再生」という語は、一面では、黒死病からの再生をも意味していたに違いない。死の廃墟から、ようやく人間の生が復活しようとしていたのである。

ハンス・メムリンク「地上の虚しさと神の救済の三連祭壇画」1485年 ストランブール・ボザール美術館

 中央の絵には裸婦、左の絵には死の化身、右の絵には悪魔が描かれている。中央の絵で裸婦は恥らうこともなくその裸体を晒している。そのうえ、頭にはダイアデム(帯状の髪飾り)を着け、足にはサンダルを履いており、色欲とともに虚栄までも象徴している。裸婦の左側のグリフォンは、慣習的に結婚や性愛をテーマとする絵画に登場する犬であり、右側の2頭のグレーハウンドの意義はそれらのなまめかしい姿に表れているといわれる。右の絵で、地獄の入り口の上で踊っている悪魔の腹部に顔がついているが、腹部に顔がついた怪物は当時よく描かれていたようだ。

1348年 鞭打ち苦行者の行進

ピーター・ブリューゲル「死の勝利」プラド美術館

バーント・ノケ「死の舞踏」

ハンス・ホルバイン「死の舞踏 王」

ヴェンツェスラウス・ホラー「死の舞踏」

「メメント・モリ」18世紀 ローゼンハイム市立博物館