Okinawa 沖縄 #2 Day 117 (15/07/21) 旧玉城村 (8) Fusato Hamlet 富里集落
旧玉城村 富里集落 (ふさと、フサトゥ)
- 番所公園
- 番所ヌカー
- 玉城村道路元標
- 富里公民館
- 仲栄真グスク
- 主留前殿内 (スルメードゥンチ)
- 豊見城按司墓
- 大仲栄真の殿 (ウフナケーマヌトゥン)
- 根屋 (ニーヤ)
- 世礼 (シリー) の神屋
- 世礼井泉 (シリーガー)
- 仲栄真殿 (ナケーマトゥン)
- 仲栄真井泉 (ナケーマガー)
- 門井泉 (ジョーガー)
- 上栄田之嶽 (ヱーダヌタキ)
- 百十踏揚 (ももとふみあがり) と三津葉多武喜 (みつばたぶき) の墓
- 松尾之嶽 (マーチューヌタキ)
- 尚泰久王・安次富加那巴志 (あしとかなはし) の墓
- オダウ瀬之嶽 (宇堂志御願 ウドーシウガン)
- 簡易水道 水タンク
- 神里の殿 (カンザヌトゥン)
- 高庭殿 (タカナーヌトゥン)
- 正泉井 (セセイセンガ-)
- 佐慶田井泉 (サキダガー)
- 掟の殿 (ウッチヌトゥン)
- 平泉井 (ヘイセンガー)
- 石畳道
- 屋武多井泉 (ヤンダガー)
- 加留井泉 (ガルガー) [未訪問]
- ウザファビラ遊歩道
- グスクロード公園、慰霊之碑
旧玉城村 富里集落 (ふさと、フサトゥ)
富里部落は、以前は嶺と呼ばれていたが、間切時代になって嶺を廃して富里と改められ、その後、仲間 (今の富里部落の西側一帯) が合併し、現在に至っている。富里は旧玉城村では役場、学校、 郵便局、農業協同組合が置かれ中心地だった。富里集落は隣接する富山集落とともに、尚泰久王の子どもたちが住んだと伝わる集落で、数多くの所縁の文化財が残っている。長男の安次富加那巴志は安次富グスク (當山集落内)、 次男の三津葉多武喜と長女の百十踏場は大川グスク (當山集落内)、 四男の八幡加那志は仲栄真グスク (富里集落内) に住み、それぞれ門中の祖となっている。
戦争中は、集落北側の山原山が住民の避難場所となっていたが、終戦とともに住民は各収容所に収容され、1945年 (昭和20年)、先遣隊によって村民を始め、隣接町村の人々を受け入れるための仮小屋建築が行なわれた。1946年 (昭和21年) 頃は住民は二、三千人もいたが、その後、次第に元の村落に帰るようになり、1947年 (昭和22年) 以降は350人ぐらいで落ち着いていたが、2008年からは毎年少しづつ人口は増加傾向にある。
富里区の北半分は丘陵になりその上には戦後米軍政府の施設が建てられ、その従業員住宅があった。本土返還後は琉球ゴルフ倶楽部となり、住民はほとんどいない。南側は畑のままで、民家は以前から集落があった中心地が少し拡張したぐらいで、大きくは変化していない。
玉城村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 上栄田之嶽 (神名: コバ城之御イべ、上栄田森之御イべ、中ノカワ御イべ)、松尾之嶽 (神名: コバウ之御イべ、消滅)、中間イシタウグラカネタウグラ (神名: トン御イベ)、中間城嶽 (神名: ナカチナカグスク御イベ)、小嶽御イベ、オダウ瀬之嶽 (神名: 国ナカノ御イベ)
- 殿: 富山里主所火神 (主留前殿内)、大中真之殿 (大仲栄真の殿)、宮里里主所火神、ミチヨノ殿、サケタノ殿 (掟の殿)、ナゴノ殿 (高庭殿)
公民館前に集落文化財のガイドマップがある。
富里集落訪問ログ
番所公園
2018年迄は南城市役所玉城庁舎 (本庁舎) が公園の隣にあったが、南城市新庁舎の開設で閉舎となり、現在はオキナワインターナショナルスクールが2019年に跡地に移転してきている。公園の片隅に明治15年玉城間切下知役所詰所に於て開校した玉城小学校の発祥之地記念碑が建っていた。現在の玉城小学校は、この公園のすぐ近くに、玉城中学校と共にある。
番所ヌカー
玉城村道路元標
富里公民館
番所公園から東に進んだところから富里集落が始まる。まずは富里公民館に行き、自転車を停める。かつての集落の範囲はそれ程大きくないので、ここに自転車を置いて、徒歩にて集落内を見学することにする。ここがかつてからあった村屋 (ムラヤー) であったのかは記載されていない。ただ、公民館の前は広場になっており、その広場から何本も集落内の道が始まっているので、ここが集落内生活活動の中心地であったことは想像できる。公民館の入り口付近に、碾臼と差し石が置かれていた。差し石は二つあり大きさが違う、村の人にこの石が差し石か確認したが、わからないとの答え。戦後生まれの50才代ぐらいの女性の方なので、もう昔のことは知っている年代ではない。この様に、村を訪問し、文化財について尋ねても知っている人は少ない。多分70才以上の人でないと確かな答えは期待できない。公民館の隣は丘になっており、そこにはよく見かける酸素ボンベの鐘が吊るされていた。この鐘も、10年、20年後には実際に生活で使われていた時代の人はいなくなっているのだろう。
仲栄真グスク
富里公民館から北の丘陵の麓にある陸上競技場に向かう。そこには仲栄真グスク跡がある。城跡には大いに関心があるので、まずはグスクを見学。富里集落の歴史でこの仲栄真グスクは重要な文化財になる。昔からこの集落に住んでいる人達の祖先に係わる場所だ。この後、訪れる文化財の多くが直接的、間接的に関わりがある。
グスクの周りの地形を見ると、このグスクは戦争に備えての城塞として造られたのではなく、住居としてある程度の防備能力を備えた館と考えたほうが良いように思えた。本格的な戦争になれば、このグスクは簡単に落とせる。北は丘陵があり、その上には玉城グスクがある。東の丘陵の上には糸数グスクがある。想像では、豊見城按司がその館として、仲栄真グスクを築き始め、築城半ばで亡くなり、その後を八幡加那志が引き継ぎ、ここに住んだように思われる。
仲栄真グスク東西に細長く、その西端にある八幡加那志の住居跡と伝わる屋号「大仲栄真」の裏に虎口があり、その外側には大きな岩山があり、ここも館の防御壁の一部だったのだろう。虎口を入ってすぐにある平場が主郭と考えられており、「主ヌ前殿内」と呼ばれている。
主郭の主ヌ前殿内から坂道を進むと駐車場に出て、その中に岩山がある。東端にある南城市陸上競技場の管理棟裏の岩山まで全長約80mに伸びている。ここもグスクの一部で主郭からつながっていたのだろうが、競技場建設でグスクの一部が破壊されてしまった。この岩山には石垣が残っている。
主留前殿内 (スルメードゥンチ)
虎口を進むと林中に空間が開ける。この場所は仲栄間グスクの主郭と考えられており、拝所となっている。「南城市の御嶽」には、第一尚氏第六代王尚泰久の長男である安次富加那巴志 (あしとかなはし) や次男の三津葉多武喜 (みつばたぶき)、四男の八幡加那志 (はちまんがなし) が、 三男尚徳が王位についたことで、首里から田舎下りして、隠れ住んだ所という。 同兄弟の服装や言葉遣い、態度には気品があったので、 かれらはスルメー (主の前の訛り) と呼ばれ、その仮住まいは主留前殿内と称えられたという。琉球国由来記の「富里里主所火神」に相当すると思われる。「富里里主所火神」では「稲穂祭」が司祭された。広場の中心あたりには住居の礎石跡があり、拝所としての石香炉が置かれている。
主留前殿内は大岩で囲まれており、その大岩のふもとには幾つかの香炉が置かれている。墓なのか、拝所なのかは不明。
第一尚氏第六代王尚泰久の息子達がこの地に移ってきた経緯については諸説あるようだ。色々な資料を見ると微妙に異なっている。
- 第一尚氏第六代王尚泰久の正妻は尚泰久が阿麻和利に謀反の疑いで討たせた護佐丸の娘で、その子供が長男 安次富加那巴志 (あしとかなはし) 、次男 三津葉多武喜 (みつばたぶき)、四男の八幡加那志 (はちまんがなし) 、長女 百度踏揚になる。長男 安次富加那巴志は謀反人護佐丸の孫ということで、世継ぎにはなれず、尚泰久の側室の三男 尚徳が王位についたことで、次男と四男を連れて首里から田舎下りして、隠れ住んだのが富里というのがどうも通説の様だ。
- 別の説は、護佐丸を討ったことで、尚泰久と正室の子供との間は不仲となり、兄弟でここに移ってきたという。
個人的には通説ではない護佐丸を討った後に移ってきたのではないかと思う。親子の仲はそれ以前からうまくいっていなかったとも思う。理由としては、安次富加那巴志、三津葉多武喜、八幡加那志とも按司にもなっていない。通常は有力按司の抑えとして息子や親族を地方の按司に任命し、要職を与えるのだが、この三人ともそのケースではなさそうだ。第一尚氏の第三代以降の王は在位期間が非常に短い、尚巴志が琉球を統一して何年もたっておらず、地方豪族の力は強く、一族での権力闘争に明け暮れていたように思える。その中でこの三人の息子はそのような王家に疑問を持っていたのではないだろうか?安次富加那巴志は王の後継者に対しての野心もなかったのではないか?平穏な生活を望んでいたように思える。兄弟仲も良く、長男の決断に次男、四男も従い、後に長女もこの地に移って来ている。父の尚泰久と話し合いを持ち、叔父の豊見城按司の領地に移り住んだように思える。三人の息子はこの富里と隣村の當山で門中を興し、その子孫が今でも住んでいる。第二尚氏第三代尚真王之時に仲栄真グスクは取り壊されたのだが、これも両者合意の上ではなかっただろうか?三人の息子たちは逃走するわけでもなく、安次富加那巴志は安次富グスク、三津葉多武喜と百十踏揚は大川グスク、八幡加那志は仲栄真グスクに居を構え、この地に永住していることからも首里王府からは重要危険人物とはみられていなかったような気がする。
豊見城按司墓
主留前殿内を囲んでいる岩場の外側には尚巴志の妾の子と伝わる豊見城按司の墓がある。ここに墓があるので、この仲栄真グスクを築城中に完成を見ず他界して葬られたのだろう。尚泰久の四男八幡加那志にグスクの完成を託したのだろう。その叔父の思いを汲んで、城内に墓を造ったのかもしれない。
豊見城按司墓の周りにも幾つかの古墓が残っている。第二尚氏王統に滅ぼされた第一尚氏王統の残兵を祀ったムンザナ墓があるとの記事もあったが、このうちのどれかなのか? 詳細は不明だが、八幡加那志に連なる人の墓なのだろう。
大仲栄真の殿 (ウフナケーマヌトゥン)
仲栄真グスクの主留前殿内から虎口の道の西側は尚泰久王の四男八幡加那志の住居跡だった場所。この八幡加那志は、富差路集落の大仲栄真腹門中の祖に当たる。今でも、その子孫が住んでいる。この八幡加那志屋敷跡には、後に殿が設けられ拝所となった。大仲栄真の殿 (ウフナケーマヌトゥン、大中眞之殿とも書かれる)と呼ばれている。琉球国由来記の「大中真之殿」と思われる。「大中真之殿」 では「稲穂祭」が司祭された。
根屋 (ニーヤ)
大仲栄真の殿 (ウフナケーマヌトゥン) に隣接して根屋 (ニーヤ) がある。大仲栄真に根屋が設けられているという事は八幡加那志は富里集落の創始者として崇敬されている証。 民家内にあるので、中には入らず、虎口の石畳路から写真を撮った。戦前は、大仲栄真の一番座の傍にあったが、1964年にコンクリート造りの祠が設けられた。 琉球国由来記の 「当山里主所火神」、 「中間イシタウグラカネタウグラ (神名: トン御イベ)」 等が合祀されているという。 「当山里主所火神」では当山ノロにより、稲穂祭が司祭された。富里にはノロはおらず、隣村の当山 (當山) ノロがこの富里、当山、志堅原の3つの村を管轄していた。
世礼 (シリー) の神屋
大仲栄真ヌ殿の北方、虎口の石畳路沿いに世礼 (シリー) の神屋があった。八幡仁屋、富里のろくみと書かれた香炉が置かれ祀られている。八幡仁屋とは尚泰久王の四男八幡加那志の事かその子孫の事だろうか?
世礼井泉 (シリーガー)
世礼 (シリー) の神屋の側にに世礼井泉 (シリーガー) がある。 世礼家の近くにあるのでこう呼ばれている。富里集落の産井泉 (ウブガー) で、 若水や飲料水として使用されていた。
仲栄真殿 (ナケーマトゥン)
大仲栄真の殿のすぐ隣には仲栄真殿 (ナケーマトゥン) がある。神屋の内部には尚家の三つ巴の紋が掲げられている祭壇があり、「三葉多式喜 神位」、「百十踏揚加那志 神位」と銘書きされた二基の位牌が安置されている。 祀られている三津波多式喜 (美津波多武喜) は、尚泰久王の二男で仲栄真腹の祖とされている。 長女の百十踏揚も兄弟を頼ってこの地移って来たという。 そして二男の美津波多武喜は仲栄真家の屋敷を永住の地とし、 仲栄真家において百十踏揚もともに祀られている。現在、仲栄真門中では、1月7日の七日ヌスクー、 新4月の清明入り日の神御 清明、 4月18日の神祝い、五月ウマチー前日のタウプン (夕飯のお供え) 、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチーで祈願している。 神屋の後方には石の祠の拝所がある。「屋敷神」だそうだ。
仲栄真井泉 (ナケーマガー)
世礼井泉の近くにコンクリートブロックで囲まれた井戸跡がある。これは尚泰久王の四男八幡加那志が 大仲栄真家を創設した時に掘りあてた井泉で、仲栄真井泉 (ナケーマガー) と呼ばれ、当時は飲料水や産井泉にしていた。
門井泉 (ジョーガー)
仲栄真井泉 (ナケーマガー) の近くに門井泉 (ジョーガー) がある。 民家の脇の小道を奥に進むと井戸がある。この井泉は、大干ばつでも、豊富な水量を保っていたので、遠くの集落の住民が水を汲みに来たそうだ。戦後のある時期までは洗面用や風呂水用として利用されていた。 現在は水漏れのため水量は減っている。
上栄田之嶽 (ヱーダヌタキ)
仲栄真グスク北方の南城市陸上競技場の北東に位置する 「ヤンバル山」 の中に上栄田之嶽 (ヱーダヌタキ) がある。 第一尚氏第六代王尚泰久の長男である安次富加那巴志 (あしとかなはし) や次男の三津葉多武喜 (みつばたぶき)、四男の八幡加那志 (はちまんがなし) が 田舎下りした際、一時期、このヤンバル山に身を隠していたと伝わる。 資料には上栄田之嶽 (ヱーダヌタキ) への道順や御嶽の写真は掲載されていないのと、現在、村落祭祀は行われていないので、この御嶽が見つかるかは疑問だ。競技場の置くの道にヤンバル山への道があったので、そこを森の中に入っていく。山道を登って行くと神秘的な空間があった。香炉が置かれているのを見つけた。多分この辺りに上栄田之嶽 (ヱーダヌタキ) があったのだろう。この御嶽は、ノロや神人に名付けをする儀式 (就任式の様なもの) を行った場所だそうだ。琉球国由来記の上栄田之嶽御前 (神名: コバ城之御イベ、上栄田森ノ御イベ、中ノカワ御イベ) に相当するとみられる。この御嶽のそばに上栄田井泉や、ヤンバル山の麓には、サダ井泉、汀間井泉があると書かれてはいたが、それらしきものは見当たらなかった。
百十踏揚 (ももとふみあがり) と三津葉多武喜 (みつばたぶき) の墓
百十踏揚は、第一尚氏第六代王尚泰久の長女で、勝連按司 阿摩和利 (あまわり) と政略結婚となった。阿摩和利が尚泰久の命で百十踏揚の祖父にあたる護佐丸を討ち取った後に、百十踏揚は阿摩和利に謀反があると父尚泰久に訴えたため、阿摩和利は滅ぼされる。その際、百十踏揚の従者であった鬼大城 (うにうふぐしく) に救い出されて鬼大城の側室となった。その後、第二尚氏の尚円金丸のクーデターで鬼大城は殺され、百十踏揚は、尚泰久の次男、三津葉多武喜を頼ってこの地に移り、と當山の大川グスクで暮らし、その後、先程訪れた仲栄真の屋敷で共に暮らしたといわれている。百十踏揚の墓は、元々は西ヒチ森の大岩に安置されていたが、1962年 (昭和37年)、中学校校舎建設のため現在の場所に移葬された。三津葉多武喜の墓も、その住居跡と伝わる大川グスクにあったが、百十踏揚と同じく現在の仲栄真腹門中墓の側に移葬されている。
沖縄では護佐丸と阿麻和利の乱は誰でも知っており、護佐丸は英雄、阿麻和利は極悪人となっている。ただ、残っている文献からは阿麻和利は優れた按司で領民からは慕われていたとある。また、百十踏揚と鬼大城の恋愛物語も有名だが、一説では、尚泰久に阿麻和利謀反の讒言は鬼大城によるもので、阿麻和利を謀殺し、百十踏揚を略奪した。百十踏揚は、死ぬまで最初の夫である阿麻和利を慕っていたというものがある。真実は今となってはわからないのだが、通説は当時の為政者が都合良くつくられたものが殆どなので、通説でないものの方がそれなりに信憑性が高い様な気がする。
松尾之嶽 (マーチューヌタキ)
南城市陸上競技場の西側辺りにはもう一つ松尾之嶽 (マーチューヌタキ、別称 松御願 マーチウガン) と呼ばれた御嶽があったのだが、1980年代前半に南城市陸上競技場を造った際に取り壊されて現存しない。蔡温時代に村に植林をすすめるため、この台地に松の苗木を育て、山を所有している各家庭に配布し、 増林をさせたとある。この地は霊地であるため、木を切ると熱病に侵されたり、ハブに咬まれたりするという伝え話があるそうだ。松尾之嶽 (マーチューヌタキ)は琉球国由来記の「松尾之嶽」に相当する。
尚泰久王・安次富加那巴志 (あしとかなはし) の墓
安次富加那巴志は尚泰久王の長男だが、世嗣にはなれず、尚泰久と不仲となり、富里に移って来て、當山の安次富グスクに住んでいた。安次富加那巴志は屋良腹門中の祖とされ、安次富加那巴志の墓はこの屋良腹門中墓の中にある。中央が泰久の墓 (写真中)、右が安次富加那巴志の墓 (写真下)、左は、多分屋良腹門中の墓 (写真左上) だろう。尚泰久の遺骨は第一尚氏の陵墓である天山陵に葬られていたが、第二尚氏のクーデターで墓が破壊されるのを恐れ、部下たちが葬られていた王の骨を取り出し別の場所に葬り直している。尚泰久の遺骨は読谷山伊良皆の山中に移され、その後、母と乳母によって美里間切伊波村に移葬され、泰久の墓であることを隠すため、クンチャー墓 (乞食墓) と呼ばれていた。明治41年に、子孫たちによって石棺を尚泰久王の長男の安次富加那巴志の墓の隣に移葬されたのがこの場所。存命中はこの二人は仲が悪かったので何故、同じ墓に葬られているのかと疑問があったが、子孫により移葬されたとの事で納得。
安次富加那巴志と尚泰久の墓から丘の上への通路があり、そこを進むと、安次富加那巴志を始祖とする屋良腹門中の当世墓 (トーシーハカ、現在使用している墓の事) がある。
オダウ瀬之嶽 (宇堂志御願 ウドーシウガン)
公民館に戻り、用意してきた麦茶で休憩。今日も真夏日で暑い。集落巡りの際には2リットルの麦茶を用意してくるのだが、それでも足らない時がある。熱中症には気を付けて、こっめに日影で休憩は取るようにしているのだが... 暫く休んだ後、今度は集落内にある文化財を巡る。公民館の隣にある丘には宇堂志御願 (ウドーシウガン) と呼ばれている拝所がある。尚巴志の側室の子である豊見城按司が富里に移って来て、この地に各拝所を設けたそうだ。この高台にも御嶽を設け、摩文仁間切の小渡 米須から移住してきた宇堂志家にに現公民館の敷地を与え、富里の各拝所の管理を任されたと伝わっている。この時期に仲栄真グスクも築城し始めたのだろう。 宇堂志御願の森はすべてが聖域とされ、 葬列がこの前を通ることは禁じられていたそうだ。琉球国由来記の「オダウ瀬之嶽神名ナカノ御イベ)」に相当すると考えられている。
簡易水道 水タンク
宇堂志御願の場所は高台であることから、 大正期に加留井より水をひいて、 ここに貯水タンクを設置し、各所へ配水していた。未だに当時の水タンクが残っている。
神里の殿 (カンザヌトゥン)
宇堂志御願 (ウドーシウガン) の南側奥に、神里の殿 (カンザヌトゥン) がある。神里家の屋敷跡の片隅につくられた殿なのでこの様に呼ばれている。
高庭殿 (タカナーヌトゥン)
神里の殿 (カンザヌトゥン) から、更に道を進むと、ゲートボール場があり、その一角が岩山になっている。その岩山の麓に高庭殿 (タカナーヌトゥン) とか 高天ヌ殿 (タカマーヌトゥン) と呼ばれる拝所がある。この殿は富里を創始した者の殿だそうだ。当時は祭政一致の祭り事がここで行われたと伝わっている。神道における高天原思想の天孫降臨の祭事が催されたとも 伝えられる。先ほど訪れた宇堂志御願 (ウドーシウガン) の項目の所で、豊見城按司が各拝所を造り、管理者を任命したとあったが、これはまさに領主が村の統治とその祭祀を掌握していたことではないだろうか?第二尚氏の尚真王の時代にノロなどの神官は首里王府直轄の組織に編成されたが、豊見城按司の時代はまだ集落住民が祭祀を村単位で行っていた時代だ。第一尚氏も尚真王が行った祭政一致政策のアイデアはあったのだと思う。 また、 首里からきた仲栄真腹の先祖が造った殿という説もあり、東の御嶽ともいわれる。仲栄真腹の先祖と言えば、根屋が置かれている家でその先祖は尚泰久王の四男八幡加那志ということになる。土地の人の話では、ここはナコーヒチと呼んでいたということから、 琉球国由来記の「ナゴノ殿」ではないかと思われる。 「ナゴノ殿」 では 「稲穂祭」 が司祭されていた。
正泉井 (セセイセンガ-)
もう一度、公民館に戻り、宇堂志御願 (ウドーシウガン) のある小高い丘の麓の井戸跡を見学。正泉井 (セセイセンガ-) と呼ばれ、大正天皇即位記念事業として、平泉井と共に計画され、1921年 (大正10)年) に完成した井戸だ。今でも二つの樋から勢いよく水が流れ落ちている。
佐慶田井泉 (サキダガー)
正泉井 (セセイセンガ-) のすぐ近くの民家の敷地内にも井泉がある。16世紀初頭に 船越から来た屋号 佐慶田 (サキーダ) の人が掘りあてた井戸なので、佐慶田井泉 (サキダガー) と呼ばれている。
掟の殿 (ウッチヌトゥン)
佐慶田井泉 (サキダガー) と仲栄真グスクの北東部との間に掟の殿 (ウッチヌトゥン) がある。別称 佐慶田ヌ殿 (サキダヌトゥン) とも呼ばれる。石がコンクリートブロックで囲まれている。どうもこれを拝んでいるようだ。資料ではこの石は、ノロが馬に乗る時に使っていた踏石だそうだ。幾つかの拝所でこのような踏み石が残っていたが、ここのように御願の対象になっているのを見るのは初めてだ。琉球国由来記の「サケタノ殿」に相当する。「サケタノ殿」では当山 (當山) ノロにより「稲穂祭」が司祭された。
ここで掟 (ウッチ) という言葉が出て来たが、掟 (ウッチ) が役人ということは知っていたが、良い機会なので、琉球の間切の仕組みを調べてみた。簡単に表すと下の図のようになる。尚真王の時代に士族はすべて首里に住まわせ、反乱がおこらないように地方にいた有力按司の力を削いだ訳だが、按司には地頭として領地は与えた。実際の領地の運営は領地 (間切) の百姓の指導者を地頭代として指名し、その運営の実務を行う役人を地元で採用している。この役人が掟 (ウッチ) と呼ぶ。この場所の掟の殿 (ウッチヌトゥン) は想像では、この場所に村掟が住んでいたのかもしれない。別称 佐慶田ヌ殿 (サキダヌトゥン) ともいうというので、佐慶田腹門中が村掟の役を申し付けられていたのではないだろうか。
平泉井 (ヘイセンガー)
大正天皇即位記念事業として造られたもう一つの井戸にも行ってみた。こちらは平泉井 (ヘイセンガー) と呼ばれ、先ほどの正泉井 (セセイセンガ-) の様な趣のある井戸ではなくコンクリート製の四角い井戸だった。正泉井 (セセイセンガ-) から2-3年後に完成したそうだ。
石畳道
平泉井 (ヘイセンガー) から細い路地が走っており、その道にはまだ石畳が残っていた。道沿いには琉球石灰岩の立派な塀も残っている。昔ながらの沖縄の村の雰囲気がある。
屋武多井泉 (ヤンダガー)
石畳道を抜けると、もうひとつ井戸跡がある。屋武多井泉 (ヤンダガー) と呼ばれている。富里の先住者である松堂氏が掘りあてた井泉という。この近くに富里集落の砂糖倉があったので屋蔵井泉とも呼ばれ、初御願で拝まれている。
2022年2月1日 (旧正月) に旧知念村山里集落訪問を終え帰り道にここを通った時に、桜が満開になっていた。
加留井泉 (ガルガー) [未訪問]
ウザファビラ遊歩道
加留井泉 (ガルガー) を探すために山に入る道を幾つか進んだが、どれも行き止まりとなっていた。探すために通った道の一つに ウザファビラ遊歩道があった。集落の北方丘陵斜面を登る道。琉球王統時代はこのウザファビラは、玉城グスクと富里村玉城番所をつなぐ石畳道で、先に訪れた仲栄真グスクが破壊された際にその城壁の石が使われているそうだ。
遊歩道の脇道には古墓が残っていた。かなり大きな墓だったように思えるが、完全な形では残っていない。ただここに行く道がきれいにされているのを見ると、いずれかの門中の関連で今でも祀られているのだろう。
グスクロード公園、慰霊之碑
ウザファビラ遊歩道は丘陵の上まで続いており、その終点がグスクロード公園になっている。なんじぃ公園ともいう。 (なんじぃは南城市のゆるキャラ) いつからこの公園があるのかは調べられなかったが平成29年にリニューアルされ、子供用の遊具が設置され、家族ずれが多く楽しんでいた。「グスクロード公園」の敷地内に、玉城中学校発祥の地の石碑があった。玉城中学校は1948年 (昭和23年) にこの地に設立されたが、翌年には現在地に移転後に丘陵の麓に移転しているので、ここには一年間だけだった。この辺りは沖縄戦後は米軍に接収され、米軍の占領政府機関がつくられた。住民も元ん村に戻ることはできなかった。丘陵麓に住み始めた家族の子供達がこの丘陵之上にあった中学校に通うのは大変だ。奥武島からも通っていたそうだが、標高差180mもあり、かなりの急坂になる。想像では、中学校之周りには住民が帰還することができず、危険が危惧される米軍施設があることなどから、丘陵下に移転したのだろう。
敷地内には戦争慰霊碑があった。2006年 (平成18年) に佐敷町、知念村、玉城村、大里村が合併し南城市が発足した際に、南城市の戦没者の慰霊のために造られた。南城市では、8月10日を「南城市民平和の日」として定めて、この公園にて南城市戦没者慰霊祭が行われている。
これで、富里集落巡りは終了。計画では隣の當山集落もと思っていたが、暑さで少々グロッキー気味。自転車を停めている公民館まで戻り、帰路に着く。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 玉城村史 (1977 玉城村役場)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く (2016 伊敷賢)
- 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)