だって「光」なんだよね。
どうもどうも
「ザ・ライフ・コーチャー えるびす」こと、みうらまさるです。
「僕らは光」
この言葉に何度絶望し
何度救われたことか。
でもきっとそうなのだ。
先日読んだノ・ジェス氏の本
「宇宙一美しい奇跡の数式 0=∞=1」
にもあったが
僕らは光を見ているのだ。
物の形や色があるように脳が感じているだけ。
そして光が当たったところしか
それを認識できない。
そう、暗闇では形や色の認識ができないのだ。
「ある」と認識するから
存在するように見えているのだ。
そしてその「ある」という認識は
人それぞれ。
その人にとっては「ある」ものでも
認識されなければ
違う人にとっては「ない」ものになる。
脳が認識さえすれば
「ない」ものも「ある」になる
例えば
通勤途中の赤いポスト。
「あ、ポストだ」と認識できた人には
あることは分かっている。
だけど、例えば
いつもそこは考え事をして歩いている人
車であっという間に通り過ぎる人
にとって、目に止まることはないので
ポストを認識できない。
もしくは
それが「ポスト」であることを
知らない(認識できない)人にとっては
存在していないのと同じなのだ。
おそらく近所の野良猫は
「ポスト」を認識していない。
それと「僕らは光」の関係は?
「ある」か「なし」かを
決めるのが
「実在するかどうか」
ではなく
僕らが
「認識するかしないか」
であれば
「ある」と脳に認識させれば
存在することになる。
そしてそれには
照らす「光」が必要だ。
僕らが「光」なのだから
僕らがその「光」を当てさえすれば
脳が認識し、存在させることができるのだ。
あーだからといって
「あるっ!」と言えば
お金が目の前にポンっと現れる
そういう類いの話ではなく(笑)
でも実は
使うお金がないといいつつ
銀行にしっかりお金を貯めている
というのも良くある話で
まったくない訳でもないのに
「ない」ことにしているだけだったり
「ないない」と言いつつ
実は自分にとって都合のいい見方しか
していなくて
単純に氣づいていなかっただけだったり
本当はあるのに
見ないで通り過ぎているだけ。
(先ほどポストのように)
光が当たっているところしか
認識できないというところで言うと
自分にとって都合のいいところ
慣れたところ、当てやすいところ
にしか自分の光を当てていないから
認識できずにいるだけ。
もっと楽に
もっと自由に
光を照らしまくればいい
もっと自分から
自分の世界を明るく
照らしまくればいいのだ!
怖いと感じるところも
暗くて見えないから怖いのだ。
光の波動を上げて
もっと明るく照らせばいい。
あなたの人生は
ほんとはもっと明るくて
カラフルかもしれない。
そしてそのカラフルな世界は
人それぞれ
千差万別なのだ。
「僕らは光」
この言葉に何度絶望し
何度救われたことか。
あなたが「ない」と思っていることは
なんだろう?
そこにしっかり「光」を当てているだろうか。
しっかり明るく照らしているだろうか。
もしかしたら
目がくらむほどまぶしく感じるかも
知れないけれど
目が慣れてきたら
本当は求めていたものが
そこにしっかり
「ある」
ことが分かるだろう。
「僕らは光」
この言葉に何度絶望し
何度救われたことか。
良く忘れるんだよね。
それでもいいから
しっかり思いだそう。
「僕らは光」
「あなたも光」
だから大丈夫(^^)
ではでは。
※通信キャリアのCMではありません( ̄▽ ̄;