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『感じる』と『考える』

2017.01.26 11:41

自分が本当はどう思っているのか。


それを知るために、自分の内側を見ようとするのだけれど、何度気付いても頭が考えてしまう。


先のことを考えると、やっぱりこうなってたいと思うから、これはやっぱりやりたいことなんじゃないのかな、とか。

今はやりたくないと思っていても、よくよく考えたら、やりたいことなんじゃないのかな、とか。


その私の考えの世界から出てこれなくなっていたり、そもそも私の考えた世界の中にいることにすら気がつかなくなってしまう。


何にも見えていないのに。

何にも知らないのに。


私が考えている。

という時点で、私を知ろうとしているのではなく、今までに私が集めてきた情報だけの知識で作り上げた型に次々とあてはめて、また自分勝手なものを造り上げていっているのだなぁと思う。


本当は、何が嫌なのか、一粒一粒ずつ感じていく。

本当は、何に気が高まっているのか、一瞬一瞬をしっかりと感じてみる。


理屈を考えたり、理由づけをする前に、しっかりと感じること。


自分の内側にあるものを、頭で造り上げてしまうのではなく、その感情があるところに、感じて入っていくこと。


この入り口を間違えてしまう。


だから、周りにあることに惑わされて、自分が見えなくなってしまう。

人と比べて、人の基準で見て、どうか。だから、やりたいことなんじゃないのかな、と思ってしまう。

だからね、これでいいの、いいの。って。


私、という時点で、その時点で、もう今見えているものの世界だけになってしまう。



委ねきる、ということ。

明け渡す、ということ。


そういう感覚でいるということ。


その、委ねた世界にいることで、知らなかった意識を見ることができる。

知らなかった世界を知ることができる。


私の外にある無限の世界。


でも、そこにあるのは、誰か他人の価値観でも、他人の判断でもない。


そこに知らなかった真理を見ることができる。

自分の中にはなかった新しい世界。


委ねきるという感覚がなければ、頑なにハンドルを握ったまま、自分の地図にはない道には入っていくことができないのだなぁ。



だから私はその近道として、ダウジングを使います。

そして、そうやって進んでいこうとするときに、愛とエゴを必ず間違えないように見せてくれるのが、サトルエネルギーです。


せっかく、せっかく、私の手からふわりと浮かばせた世界に、私が決めた色を塗ってしまってはいけない。


やるべきことは、それを見ていた時に感じた自分の感情や体にこびりついた癖を見て、手放していくこと。

そうだよぉ、自分の知ってるものを考えて、積み上げて、良くできたと眺めるためじゃない。


感じて、感じて、感じきって、手放す。

そのため。


知ってる意味付けを、クイズのようにはめこんでいることに、何の意味もなかったなぁ。


『ルーシー』という薬によって、脳が覚醒をしていく映画ご存知ですか?

最後は体が粒になって、形を持たなくなっていきます。

私と世界の境が曖昧になる。

あの意味が、観た時には全然わからなかったなぁ。


私が正しいと思うこと。


その判断の狭さ、本当に正しいのかさえもわからない基準。

世間一般から見ても正しいと思う、その世間の狭さ。


善悪の判断もないということ。

本当に本当に、よいことか悪いことかなんて、私にはわからない。



自分の価値観、自分の概念。


それが全てなくなった感覚で、今を見ることが想像できますか?


そして、色んなものを剥がして、剥がして、剥がして、やっと見えてくる、自分。




自分が今、本当にやりたいこと。

答えられますか。





感じろ、私!