アウステルリッツ
レアード・ハントの『優しい鬼』を読んで、最後の方の展開とか、「あー、なんか、これゼーバルトっぽいなあ」と思っていたら、なんと本当にゼーバルトの影響を受けていたと訳者の柴田元幸さんのあとがきに書いてあって、「自分すごい!」と思ったけれど、誰に言ったところで、ふーん、なのでこうやってブログに書いて発散するのです。皆さま、明けましておめでとうございます。
20世紀に書かれた偉大な文学作品100を挙げろと言われたら絶対に入れたいのが、この W.G. ゼーバルトの『アウステルリッツ』。と書こうと思ってからふと調べたら、この本が出版されたのは2001年とのこと。ということは21世紀の文学として分類されるのでしょうか? が、この本が20世紀の終わりに書かれて、21世紀の初めに出版されたのはなんだか大きな意味があるような気がしてならない。なぜならこれは『19世紀から20世紀にかけての近代の歴史のさまざまな断片。前へ前へ進んでいく時間の流れの中でくり返されてきた暴力と権力の歴史』を描いた物語だから。そしてその歴史が、性懲りもなく、繰り返されるのではないかと懸念せざるを得ない現在、この本はまさに読まれるべき作品なはずです。
物語は、主人公がアントワープ中央駅の待合室、Salle des pas perdus でアウステルリッツという青年と出会うところから始まります。それからヨーロッパの各地で偶然の再会が重なったことで、アウステルリッツは自らの出自を語り出すのです。
子供の時分からずっと、私は自分という人間がほんとうは何者か、知らなかったのです、と(アウステルリッツは語った)。今にして思えば、もちろん、このアウステルリッツという名前だけで、そしてこの名前が15歳まで私に伏せられていたという事実だけで、本来ならおのれの出自を探らずにはいられなかったところでした。けれども、私の思考能力にまさる、あるいは思考能力を統べている何物か、脳のどこかで周到に気を配っている何物かが、始終私の秘密をみずからに対して閉ざし続けてきた、そして私がしかるべき推論をみちびきだして相応の調査をはじめるのを、総力をあげて阻んできた、それがなぜだったかもまた、この数年ではっきりしたのです。
それが「なぜ」だったかは、是非とも読んで確かめて欲しいのですが、「語ること」の意義に迫ったストーリーが秀逸なのはさておきゼーバルトは文章がとにかく美しい。訳者の鈴木仁子さん曰く「沈鬱で静謐でありながら、おそろしいように美しく端正な文体」だそうで、それがきちんと日本語に移行されているのはただただ見事。鈴木仁子さんに感謝すると共に勝手に幸せを祈りたくなるほどです。もうなんというのだろう、息がつまるほどにメランコリックで、客観的で冷静でありながらも悲しい夢のように心を乱す文章で、他では読んだことがないレベル。
そんな類稀な文体でもって淡々と物語は語られていくのですが、その抑えられた迫力たるや! 近現代文学はゼーバルトで一つの極みに達していると私は言いたい。歴史の大きな流れに対しての、個というものの圧倒的な無力さ。でも、個がなければ歴史は存在しえないというパラドックス。作中に挿入された写真は(そう、これは写真入りの本なのです)、虚構と現実の境界をあいまいにするという小道具としてだけではなく、大きなコンテクストから切り離されてしまった瞬間はもはやフィクションにしかなりえないということを示唆しているような気がします。繋ぎ止めるもの、それは記憶しかないのです。