『おもてなし』と『おもてあり』
日本の『おもてなし』とは名ばかりで、実体
『おもてあり』である。
「おもてなし」の礼儀作法「礼儀」は対人関係での気配りや敬意、慎しみの気持ちにもとづく行動の規範である。「作法」は対人関係に限らず、礼儀にかなった一定の行動のしかたを言う。
しかし、日本の「おもてなし」の実体は、品性の良さを失いたくない、という思いからくる、それは貧弱な徳である。
『おもてなし』精神の本質は、自己規律の精神であり、「表裏がない」ー相手に対して表裏の無い心で、察し・思いやる気持ちを持った対応を心がけると言う意味である。つまり、『おもてなし』、『うらなし』ということなのである。
『おもてなし』とは、『インテグリティ』のこと。
ダイバーシティの人権を具象化していくと合同な正方形で囲まれた立方体ー正六面体の具象化ではおさまらない。インテグリティとは、誠実、完全性、全体性、整合性、統合性、などの意味を持ち、人間は誰しも自分の直面する世界について、あるイメージを作って生きている。これを世界イメージ、世界観、あるいは単に生活観のようなイメージをできるだけ広く筋の通ったものにする努力、それが思想であり、そうした全体としての一貫性を示すのがインテグリティintegrityと言う表現である。
バイラテラルな「おもてなし」思想
「主客一体」や「一座建立」の思想
「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」
「朝夕の食事はうまからずともほめて食うべし。」
「元来、客の身なれば好き嫌いは申されまじ。」
「礼」は知識を重んじるものではない。
重んずるものは行動である。
日本の伝統文化でもある、利休の茶は「侘び茶」と呼ばれ、謙虚で人を差別しない心で茶を点てることにより、謙譲かつ公平な心の大切さを具現している。一方で、伊達政宗は「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」と言い、仰々しいだけで心のこもっていない「礼」を戒めた。
「礼」とは親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまないということである。そして、「礼」には、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現することが求められた。それは、社会的な地位を当然のこととして尊重することを含んでいる。言い換えれば、「礼」は社交上必要不可欠なものとして考えられていた。