【コラム】Vol.1 フリードリヒ・デュレンマットってどんな人?
『物理学者たち』を上演する2021年は、フリードリヒ・デュレンマットの生誕100周年にあたる年です。
デュレンマットとはどんな人物なのか、どんな思いで作劇にむかっていたのか。
様々な参考文献を読んでいくなかで見えてきたデュレンマット像。
日本ではあまり馴染みのないデュレンマットや彼の作品をもっと知っていただきたいという思いから、制作スタッフが調べた情報をお届けするコラム連載をスタートします。
研究者でもなければ勉強も得意ではない私ですが、上演前にぜひ皆さんに身近に感じていただくためにも、多少主観の入り混じるコラムですが、どうぞお楽しみください!
■フリードリヒ・デュレンマットという人
フリードリヒ・デュレンマットは、1921年にスイス、ベルン州コノルフィゲン村に生まれました。
父はプロテスタントの牧師であり、仕事の影響で14歳の時、首都ベルンへ引っ越します。
デュレンマットは子供のころから絵を書くことが得意で、画家になる夢を持つ少年でしたが、1941年から1945年にかけて、ベルンとチューリッヒの大学で哲学を学びながら、どんな職業に就くかずいぶん悩んだそうです。
1945年、国境大隊(国境において警備を行う準軍事組織や文民警察など)の補助兵だったデュレンマットは、アルプスの向こうから爆音が聞こえる中、「自分は安全なスイスにただ立っているだけだ」という思いに至ったことから、「世界情勢にどう立ち向かえばいいのか」と自問するようになり、文字を書くことでこの世界を把握しようと決意。
そして1945年、短編小説のひとつが初めて活字になったことで大学を中退し、本格的に作家活動へ。それでも、晩年まで幼少からの夢であった絵画は描き続けました。
ペンは剣よりも強し――。絵を書き、小説を書き、その時代を生きる人々を描くことで、死者が溢れる現代において、自身のなすべきことを追い求めていたのかもしれない…そんな思いが巡ります。
■劇作家としてのデュレンマット
第二次世界大戦以降、中立国スイスは多くの亡命者を迎え、戦火のみならず文化的な荒廃からも免れたことで、ドイツ文学史において周縁に位置していたドイツ語圏のスイス文学は、特に劇作の分野において一躍国際的な評価を受けるようになりました。
マックスフリッシュ(『アテネに死す』原題:ホモ・ファーベル など)と並んでスイス演劇躍進の立役者となったのがフリードリヒ・デュレンマットです。
まだ30代の若さで、著名な批評家であるヴァルター・イエンスから「あの無比の存在だったブレヒトの死後ドイツ語圏でもっとも優れた劇作家」と評価され、特に1950年代から1960年初めにかけて発表した作品の数々により、その名声を確かなものとしました。
代表作には『物理学者たち』のほか、『ロムルス大帝』(1948年)、『裁判官と死刑執行人』(1951年)、『ミシシッピー氏の結婚』(1952年)、『天使バビロンにきたる』(1953年)、『老貴婦人の訪問』(1956年)など。
これらの作品については、今後のコラムで紹介させていただきます。
デュレンマットの代表作にして、日本では上演される機会の少なかった『物理学者たち』が2021年の日本にどのように立ち上がるのか、どうぞご期待ください。
※参考文献
・増本浩子「迷宮のドラマトゥルギー フリードリヒ・デュレンマットの喜劇」三修社 1998年
・SWI swissinfo.ch デュレンマット生誕100周年「女性に男性のような思考は必要ない」① 2021年
☆次回Vol.2は7月22日更新予定です。『物理学者たち』が書かれた1961年について紹介します。