第三の道 (新しいからだ観)
日本アレクサンダーテクニーク研究会・代表
谷村英司
座談会を終えて
今回、これまでに経験のないリモートでのオンライン新春座談会という形で行われ、3回に渡ってインナームーヴに掲載しました。それぞれの回にいろんな話題が出てきて、話が進んでいったわけですが、その根底には何か共通したものが流れていることに気づきました。この座談会の中で私が気づいた「この何か共通した流れ」について話してみたいと思います。
交流(聴くことと話しかけること)
それは、「交流」ということについてです。この交流ということをよく考えてみると、少なくとも私の中には二つの作業が必要になります。一つは話し手の話を「よく聴く」という作業、もう一つは「話しかける」ことです。
最初のこの「よく聴く」という作業は、私にとって難しいことであることに、いつも気づきます。ただ耳を開いて聞いていればいいのだから、簡単なことだと思われるかもしれません。ところが人の話を聴いている私自身をよく観察してみると、「よく聴いていない」私に気づくのです。その時に何をやっているかと言うと、相手の意見にすぐさま勝手な解釈を付けて、私の意見を心の中で言っていたり、話し手の評価をしたりしています。あるいは、話の内容とは全然関係のない、過去の出来事を思い出したり、今後の予定を考えたりしているのです。このことが人の話をよく聴くことを妨げていることに気づきます。したがって人の話をよく聴くという作業は、かなり自分自身に注意深くなければできないことだと言えます。なぜなら瞬時、瞬時に起こってくる意識の動きに気づいて、それに“関わらない作業”がよく聴くことの条件だからです。私が不注意な時はそういう私の意識の動きに気づかず、その意識の動きに気を取られて、いつの間にか話が聴けなくなってしまうのです。
新しいからだ観
ところで、私たちはからだというものをテーマにしているのですが、この「人の話をよく聴く」という作業に通じるところがあるような気がします。つまりそれは「からだからの話をよく聴く」ということです。
もちろん、からだは他人のように声を出したり、言葉を使ったりはしません。しかし、からだの「この辺りが固い」とか「痛い」とか、その他に言葉にはならないからだの声が感覚から意識に入ってきます。さらに、からだからの声に耳を傾けていると、それらの声は刻々と変化していることがわかります。つまり、からだの内側は常に動的なのです。しばらくして、今度はこちらからからだにそっと話しかけてみます。このようにして私とからだの交流が成立していくわけです。
こう考えていくと、私がからだを扱う時に、私が人の話をよく聴けなかったように、自分自身のからだの声をよく聴いていないことに気づきます。それではからだの声を聞いていない時、私はからだに対してどうしているのでしょう? 私はただ一方的に自分が望むことをからだに要求、あるいは矯正しているだけなのです。こういうからだに対する態度は、その意識の背景に「からだは私の言う通りになるべきもので、ならないとすればからだが悪い、だから意識がからだを矯正していくべきだ」、「そうしなければからだは悪くなるばかりだ」という旧態依然の「からだ観」があるからではないかと私は思っています。座談会の中で私が提唱した“新しいからだ観”とは、この旧態依然としたからだに対する固定観念から解放されるようなからだ観です。これを日々の生徒とのセッションの中でみんなと一緒に見いだしていきたいと思っています。
からだに貞く
私にとって、そのヒントになったのが、以前紹介した野口体操の野口三千三さんの著書「からだに貞く」でした。彼は、私が言ったこの「聴く」という漢字を、「貞く」という漢字で表現されています。当時の私はこの漢字を「きく」と読むことさえできませんでした。そこでこの漢字の語源を改めて調べてみると、以下のようになっていました。
①「うらな(占)う」,「占って神の意見を伺う」
②「易(占い)の卦(カ-占いの時に木に現れる形)の内卦(下3つの形)」
*反意語:悔(外卦;上3つの形)
③「ただ(正)しい」,「心が正しい」,「本当のこと」
とありました。さらにその成り立ちは:
形声文字(卜+鼎)。
「占いの為に亀の甲羅や牛の骨を焼いて得られた割れ目」の象形(「占う」の意味)と「鼎(かなえ-古代中国の金属製の器)」の象形「鼎(テイ)」の意味だが、ここでは、「聽(テイ)」に通じ(同じ読みを持つ「聽」と同じ意味を持つようになって)、「よく聞く」の意味)から、「占って問う」を意味する「貞」という漢字が成り立ちました。また「正」に通じ、「ただしい」の意味も表すようになりました。
以上の意味から私なりに解釈してみると、「神様が語る本当の意味を聴き取る」ことが占いの意味であり、そこから派生して「貞く」という漢字が成り立ってきたようです。したがって「からだに貞く」意味は、「からだが語る本当の意味を聴き取る」ということになります。
話しかけること
この「貞く」という意味を理解していくと、それは私の意識が一方向だけに向かっているわけではないことに気づきます。神に貞くにせよ、からだに貞くにせよ、私はその対象に「話しかけている」ことになるのです。つまり「聴くこと」と「話しかけること」は、対立した別々の作業ではなく、表裏一体の相補的なことだったのです。ということは「よく聴ける」人は、「よく話す」ということになります。
第三の道への扉
この私が聴いて、話すという自然な二つの意識の活動をよく観察していると、双方向の方向性が生じていることに気づきます。私という存在を基点として相手からの話を聴き、そしてそれに応える、という双方向の方向性が対立することなく放たれているのです。
ここで話を単純にするために、その双方向の方向が水平に放たれていると想像してください。さらに、その双方向の力が均等で“平衡状態”になった時、つまり対立も、矛盾もしていない時に、からだの中で何かが起こるのです。何が起こるかというと、不思議なことに、私のからだの中心にある背骨が、これまでになかった、上下の縦に伸びようとする運動が起こり始めるのを私は感じるのです。これが以前から話している「内的運動の原理」だと私は思っています。つまり内的運動が生じるのは、この意識の双方向の動的平衡の運動が原点だと私は考えているのです。これは先ほど話した旧態依然としたからだ観には決して生じることのない現象なのです。このように「新しいからだ観」を通して、予想もしなかった「第三の道」の扉が開かれるのです。
トークセッションのすすめ
コロナ禍を機会にオンラインでセッションを始めました。先生が上から目線で、生徒に何かを教えるという形ではなく、上に話したような新しいからだ観を見いだそうと、週1回のペースで、毎回様々なからだにまつわる話題で楽しく面白く話し合っています。興味のある方は国際ヨガ協会のオンライン専用サイトやFacebookからお気軽にご参加ください。