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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

1019年12月21日記事から、ディレクターズカットお届けします

2021.07.15 22:00

アドルフ・グートマン( 1819年1月12日 ハイデルベルク - 1882年10月22日ラ・スペツィア)はドイツ出身のショパンの弟子であり、ショパンが信頼を寄せる親友である。

(ブログ記事 2019.07.19 19:35 F.CHOPIN、ワルシャワの家族へはロゼールではなくグートマンの手で)

ショパンはグートマンのことを「上品で好きだ」と気に入っていた。グートマンはショパンの書簡を郵便を使わずワルシャワまで姉ルドヴィカに直接渡してくれていた、ショパンの人生で唯一信用出来るショパンのためにに尽くす紳士であった。

「今度グートマンに会ってください」ルドヴィカにショパンは言う。それはそういうことなのだ。

そして、話をパリのオペラ座に戻したショパンは、オペラ座で偶然なのか、ラスキイ氏に会ったのだ。

「ワルシャワに帰った彼から僕の元気な様子を聞けると思いますよ、」と語ったショパンだった。オペラ座へ行けば、ワルシャワから来ているポーランド人の友人や知り合いに会うことがショパンはあった。ショパンのオペラ鑑賞は作曲家や貴族との社交の場であり、自身のイマジネーションを高めるためもあったが、ラスキイ氏はポーランドからわざわざ何をしに来ていたのか…。

芸術のコレクターでもあったラスキイ氏はポーランド人でポーランド宮廷の貴族であったのは11月蜂起以前のことであった。それ以降、彼はロシア皇帝宮廷に登用されていたのだ。

ショパンが当時、オペラ座に来ていた彼がロシア側なっていたことを知っていたかは不明であるが、恐らくはショパンは知っていた。

彼はショパンがワルシャワ時代の1828年の時に「彼はパリ帰りで」とショパンは話していたことがあり、ラスキイ氏はヨーロッパの各地を旅行をしたことがあり、パリ旅行もお手の物であった。ショパンとは11月蜂起以前からの知り合いだった…。

パリのクリスマス・イブに、オペラ座で会った人は誰かを姉ルドヴィカに報告したショパンはパリの様子を続けてルドヴィカに伝えた。

パリはあいにくの悪天候が続き、サンドの体調も一向に良くならないのだ。

「新年はこのお天気で街は例年より買い物客が少なくなると、商人は不満を言っていす。

僕自身もまだ買い物のために街に行っていません。

私は名づけの娘のために何かを見つけなければなりません。

それに、名づけの息子には今年何もあげなかった、なぜ彼は、そんなに私から遠く離れているのでしょうか?

私は彼に実質的な相続財産を残したいのですが、どういうわけかそのようなことは私の性質には合いません。私はベッドにいて眠れないときにいろいろなことを考えてしまいます。」

ショパンはサンドが時折訪ねていた孤児院から連れて来る子供の名づけ親をしていたのか、それともワルシャワの妹のイザベラと夫のバルチィンスキが国からの任命で1843年からワルシャワ慈善協会の孤児院の監督をしていたため、ショパンはその孤児院の子供の名づけ親になっていたのかもしれない。

しかし、ショパンは名づけの子供に愛情をもってプレゼントを与えても、その子供たちがショパンを訪ねて来ることはなく虚しさだけがショパンの胸に残るのであった。

ショパンは貧乏であっても遺すものがたくさんあった、それを自分に愛情を返して来ない子供に渡すことはやはり考えられないショパンであった。

ラスキイ氏