2016 新春鼎談
T:谷村英司 N:中白順子 M:松嶌 徹
谷村(T):明けましておめでとうございます。
松嶌(M):おめでとうございます。今年も無事、3人そろってお正月を迎えられてよかった。
中白(N):皆様にはいろいろな面でサポートしていただき、ありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
T:去年もいろいろありましたね。何から始めましょうか?
N:去年の最終号でこのインナームーブが200号だったんですね。これもまたおめでとうございます! 11月に読ませていただいて、早いもので200回にもなるんだぁ…って思いました。
T:そうですね。その前には「ウェルネス」という今ではありきたりのネーミングだったのですが、当時としては珍しかったです。
M:ウェルネスは57号、わずか8ページ、感熱紙にワープロで作っていた手作り感いっぱいの紙面でしたね。
T:そうそう! ワープロでやっていました。順子さんもその当時からいろいろと編集を手伝ってくれていましたね。
N:合わせて25年以上もやっているんですね。
私は教室のレッスンで経験したことを「ウエルネス」の谷村先生が書かれた文章で更に整理や深く理解することができ、毎月楽しみでした!その時生まれた子供さんが25歳になっているんですよ。こんなこと言ったら歳がバレちゃいそう。当時はモデルもさせていただいてましたね。(笑)
T:私としては、当時ただやりたいからやってみたという感じで、こんなに続くとは思いもしませんでした。こんなこと言っちゃなんだけど、今ほど重要な存在になるとは思ってもいなかったんですけど、会長としてはどうですか?
M:毎月の発行がリズムになっていますね。全国の生徒の皆さんに会えるわけではないので、私や英司先生、協会の役員がどんなことを考え、どんなことをしているか、どの方向へ向かっているのかを直接お伝えする、貴重な媒体です。ほかの教室の活動や仲間のことを知るのも励みにしていただけるんじゃないでしょうか。
T:確かに。協会として、研究会としての“顔”となっていますね。
M:発信する側にも自分の考えを整理し、積み重ねていく、貴重な機会になっていますね。私は気楽なエッセイのようなことを書かせてもらってますが、山ほどの言いたいことからそれなりに絞っていますし、師範会のメンバーにはチャレンジにもトレーニングにもなっていると思います。
N:お蔭様で、私自身も時々投稿させていただく時には、改めて私のやっていること、やりたいことを再考するいい機会となっています。
T:それとやはり“長く続ける”ということの大切さを痛感しますね。振り返って考えてみると、続けるということは、単に同じことを繰り返すということではなかったように思うのです。同じ題材を繰り返し続けられるのは、自分の考えたことに対して、別な視点で見直したり、疑問を持ったり、壊して考え直したりということができたからこそ続けてこられたように思うのです。
N:そう言えば、何度も繰り返し観察しているのに、なぜ今まで気づかなかったのか?と思うことがあります。別の視点で見れた瞬間に、いつもの見方を壊したり、少し手放して見れたりすることが、新たな気づきとなるんですね!
M:いつか話題になったあれ…、“守・破・離”の繰り返しですね。自分の肉体や意識、体験と記憶、さらに周囲の人間関係や自然環境なんかも変わっているわけで、そもそも同じ場所に同じ状態でとどまることはできないのに、だからこそ動かないよう、変わらないようにしようとする傾向は本能的といってもいいくらい、私たちはどこかに持っているんじゃないでしょうか。選択して“積極的にとどまる”というより、動くこと、変わることへの恐怖とか不安という風にですけど。
T:確かに意識の深いところでは、変わることへの不安や恐怖というものが蠢いているのかもしれませんが、もう少し身近な気持ちとしては、変わること、あるいは見直すことが面倒クサいという気持ちがあります。それはつまりナマケモノということなんでしょうね。
N:私も新しいことにトライしたり、苦手なことをする時には、後回しにしていることに気づきます。そういえばリカさんが私たちによく「ナマケモノにならないで!」言われていましたね。レイジーという英語を自然に覚えてしまいました。(笑)
T:私は本来ナマケモノですが、ラッキーなことに、この「インナームーヴ」の原稿だけはそれを許してくれませんでした。
M:始めの頃はふたりだけで書いていたぶん、8ページがやっとこさで。今では多くの執筆陣が広いテーマで書いてくださるので、僕は気の向くままにあれこれ広げていますが、その点、英司先生はずっと、ひとつテーマが決まるとしばらく粘っこく追求してこられましたね。実はナマケモノとはとても忍耐強い生物かもしれない…。
T:そういえば、ナマケモノという動物は非常にゆっくりと動きますよね。一日にちょっとしか動かない。だからナマケモノなんて名前つけられたけれど実は決して怠け者ではないと思いますよ。(笑) でも人間のナマケモノはやはり怠け者で、その定義は、ある視点を持つとその視点以外では見ようとしないで、同じ視点で機械的に反応するということじゃないかと思うのです。そしてそれに飽きてまた別のものに飛び移る。
M:英司先生が機械的に反応することなんて、昔のことにせよあったんですか?
T:おおありですよ。昔はもっと先に進みたいと思っていたような気がします。その先に何かあるような気がしていました。そしてそれを早くゲットしようと…。やはりエンドゲイニングですね。そのためには今の問題を早く解決し、決めつけ、機械的に反応していましたね。そうしないとそんなところで立ち止まっていては先に進めないと思っていたように思います。
N:でも一見それはまじめな人のように思われますけど、実は決めつけたことを再検討することに対してはナマケモノだというわけですね。そしてその理由はエンドゲイニング…。
T:そうなんです。しかも私が機械的に反応しているその決めつけが、もし間違っているとしたら、その先はきっと間違った結果を生み出すでしょう? でも当時はそんな視点は全然持ち合わせていませんでした。それはさっき会長がおっしゃった変わることへの不安ということとリンクしているのかもしれません。
M:まだ自信がない若い頃の不安って、じっとしていること、周りから取り残されることへの焦りとはいえないですかね。
N:エンドゲイニングの奥にはその心理があるように思います。
M:僕がハワイに行って少し慣れた頃、こんなパラダイスで過ごしていていいのか?ってちょっとジタバタしたような。新聞もテレビもほとんど日本のことは報道されず、日本語テレビや映画は戦後の時代劇だし。毎年のように引っ越したり旅行に出かけていましたが、この世界を経験し始めの頃には、とりあえず決めて、次・次って体験していくのも悪くないんじゃないでしょうか。機械的な反応といっても、まだそれほどパターン化していないだろうし。
T:そうですね。それを学びのプロセスと考えれば別に悪くはないでしょう。そして私の場合、先ほど言っていたような私のアプローチは、ちょっとおかしいんじゃない? だからもう一度このことを見直してみよう!というチャレンジをさせてくれたのがこの「インナームーヴ」の原稿だったような気がしているんです。
N:原稿書きが学びのプロセスだったんですね。書くことによって整理される、そのプロセスが大事で、深い理解に繋がっていきますよね。
T:今から思えばそうだったような気がします。お二人もご存じのように私は、ヨガから始まって、瞑想、操体法、野口体操、フェルデンクライスなどいろんなことを学んできました。そして最終的にアレクサンダー・テクニークにたどり着きました。もう変わることはないと思いますが、でも一貫して私がやってきたテーマは“意識とからだ”ということだったと思うのです。ここのところは外せなかった。したがって当然、原稿もこのことにこだわり続け、決めつけずに何度も再検討してきました。
M:タイトルの「インナームーヴ」に込められているテーマでしたね。外見的な動きは小さく繊細な内的な動きの結果にしかすぎないとか、その動きを感覚でとらえるトレーニングがまず重要だとか、いろいろディスカッションしたような記憶があります。
N: 内側の働きと今は皆さんに伝えてますが、内側の働きを捉えるのに、苦しんだし時間かかったなぁと思います。
T:その中で原稿を書く時、当然自問自答があるわけです。つまり自分自身で問題を提起して、その答えを見つける、そしてまたその答えの中に問題を見つけるという作業があったように思います。極端に言えば作っては壊し、壊しては作るという作業を25年以上やってきたわけです。
ここで話を戻して、私は本来ナマケモノでしたからそんな私が再検討を繰り返し25年以上もやれるわけがありません。この仕事を与えてもらったからこそできたことだと思うのです。本当にラッキーでした。
M:その25年のうちの後半頃からは問題~答え~問題~答え…の連鎖は自動的というか、ほとんど同時に生まれていていたようにも見えましたが。なによりその気付きと発見の連鎖が楽しくってしょうがないような。
T:そうですね。日ごろからワークについての実践と再考を繰り返していますから、いつの頃からか自然に話題が自分自身の中から生まれてくるようになってきましたね。
でも私にとって本当に楽しいのはワークを実践しながらの気づきと発見であって…。
N: そうそう、私もワーク中の気づきや発見が楽しい!
T:書くことはそのことをどうやって表現すればいいのかいつも試行錯誤していますね。もともとこれは言葉で話せるようなことではないと思うのです。私の内面で起こっていることを感覚でとらえた気づきと発見なのですから。紙面で何度も書いたように、F.M.アレクサンダーは言葉で話せないことだからこそハンズオンという手法で生徒に教えたのです。でも、だからと言って話すのをやめておこうとするのではなく、話してみようとするのが私のチャレンジだと思っています。
M:もう黙って、自分ひとりでいいやっていうところの一歩手前までは行く感じはあったりしながら…。すると締め切りが目の前に来ていて、とりあえず書かなきゃいけない。そんな繰り返しの時期が僕にはよくありましたけどね。
T:それ、私が言いたいのはそれなんです。その自分が面白いということを自分一人でいいやということで誰にも話さければ、それが再検討されることはないと思うのです。私にとって、この話すということが原稿書きだったんでしょうね。これがなかったら話すことなく自分の中で収まったまま、再検討もされないまま悶々と生きていたのかもしれません。そしてそれらは再検討され、見直されることはないので、一見忘れ去られたように思いますが、実は幼稚というか未熟で、錯覚したままの固定観念となり、バラバラで整理されないまま息づいて内面で葛藤していると思うのです。その結果として表に現れた時には、どうして私はこんなにイライラしているのだろう?とか不機嫌なのだろう?とか、自分自身でも原因がわからない現象として現れてくる。
M:僕たちはオタク化するところを「インナームーヴ」に救われてたわけですね~(笑)
T:そうなんです。
オタク化という言葉で私が連想することがあります。それは、私の奈良スタジオへ向かう途中に、今なにかと話題になっているゴミ屋敷になってしまった家があるのです。そこにはおばあさんが一人で暮らしておられるのですが、その方を見かけるたびに私は、いつからこうなってしまったのだろう?と考えてしまうのです。何かちょっとしたことがきっかけだったように思うのです。ある晩夕食を済ませて、眠くなったので片付けはそのまま、明日しようと思って、寝てしまう。誰も文句の言う人はいないし、迷惑をかけるわけでもないから大丈夫と。そんな始まりで、しなければならないこと、あるいはしたいことを先送りした結果、こんなことになってしまったような気がするのです。
M:ん~、耳が痛い。
N:私もまだまだ捨てられないものがたくさんあります。
T:ゴミ屋敷の問題はわかりやすいですが、ひょっとしたら先ほど話したようなことが実はわれわれの内面で固定観念のゴミ屋敷化が進行しているのかもしれないと思うことがあるのです。
M:エントロピーの法則でいえばゴミ屋敷は自然のなりゆきだといえるわけですね。それが内面で起こるという視点はおもしろいな。生まれてすぐに始まる、知識や経験を蓄えて熟成するというモデルも、また年齢とともに取捨選択してスッキリする、もしくはボケ始めてスカスカになっていくっていうモデルの、どれでもない。
T:生きて行く限りゴミが出るのを避けられないのと同じように、内面でのゴミ屋敷化も避けられない、そう考えられないでしょうか? そう考えたらこの内面の問題をいつも見直す作業はとても大切なことのように思うのです。ただここでの問題は、内面のことだけに誰にも文句は言われないし、見えないし、放っておいても外面的には何の問題もないように見えるので、そこを再検討する大切さに気づきにくいことだと思うのです。
N:実は去年私の部屋の片づけをしました。今先生が言った再検討するすることの結果、物を捨てることができました。去年の最初1回目に片づけしてる時は、まだこれは捨てられないて思ったのは無理せず置いて、2~3カ月後に片づけると、捨てられないと思ったのが、アレ捨ててもいいかもという気持ちになって、更に2~3カ月後、2回目にも捨てれないと思ってたのが、同じく捨てても大丈夫になってる自分に、面白く思いましたね。私は毎日の観察の繰り返しと同じと思ったんですが。
M:そのようにできればいいのですが、実際は周りも自分も気づかないうちに、“歩くゴミ屋敷”に。いや、ちょっとしたホラーですよ、それ。で、アレクサンダー・テクニーク(以下AT)はその恐ろしい物語に体の使い方を通じて気付けて、あわよくば改善できるというわけですね?
T:そこにATを持ってきますか。(笑)私はATをやっているからそこに気づけるということではないように思います。というのもATを教えている、あるいは学んでいる人の中には自分の内面を再検討し、整理してゆく道具としてとらえてない人もあるわけです。ただの健康法としてマスターすればそれで終わりというふうに。ただそこのところに気づくチャンスがあるワークではあると思います。これはヨガをしている人たちも同じでしょう? いろんな捉え方をされている。
M:まったく。方法論ばかりは増えて、お望みのものはすべて揃ってます、という感じですね。
T:ネットのアマゾンみたいに…。私も重宝していますけど。(笑)
M:対症療法的なアプローチとしてのヨガの活用が日本でも広がっていますから、当然、ひとり一人の必要に応えるための、無数のアプローチができています。病気だったり不健康な状態からふつうの、健康を意識しない状態に戻すまでの。その社会的な需要は高まり続けていて、医療や介護のお世話になるべくならないよう、ゴミの量を一定に維持するだけでもほめてはいただけます。
T:それはそれで役立っているし、個々人のニーズによって選択されればいい。
M:痛みがあるならまずは和らげないと。ただここからが問題ですけど、いまゴミにたとえてますが、本人にとってはそれが大事なもので、うかつに手を出せないんですよね。せっかく身についた習慣や過去の思い出、家族や職場での人間関係やら、その人が自分の人生そのものだと思っていたりして。僕がふだん忘れていて、これからも読めそうにない本も捨てられずに本棚に詰め込んであるように、内面のゴミも、それをゴミだと認識しにくいのがやっかい。ヨガって最後は本棚がカラっぽになることで、それを分かっているだけチャンスはあるんですけれど。
T:だから今の時代、自分のニーズによって選択し、経験し、学ぶことはできるようになりました。そういう意味では豊かになったわけです。しかしそれらはわれわれの中で乱雑に溜まっていき、内面のゴミ屋敷化が進んでいる。豊かになることとゴミ問題も切っても切れない関係です。それはそれで得た知識を何度も見直して、再検討し整理するということが出来ない結果だと言えると思うのです。
そしてこの作業は個人的で、自主的に行われなければならないことだと思うのです。人の家に入ってあなたの家はゴミ屋敷化しているので、きれいに掃除します。というわけにはいかないのと同じです。
M:人に非難されたら「僕はこれで居心地がいいんだ」と、本気かどうかはともかく、言っちゃいますね。言っちゃったあとは正当化と自己暗示で、もう見直しはしない。
T:そうなると、私も身に覚えがあるのですが、そんなつもりがないかもしれませんが、心は閉じています。これで居心地がいいんだと言いながら他人を招き入れることはない。なぜならゴミ屋敷ですから。心を閉ざして他人と付き合うしかない。これはちょっとしんどいものがあります。
N:これで居心地良いと思ってるけど、反対にしんどいと思ってるんですよね。
M:しんどいし、強がり言っても、さびしいですよね。“ゴミ”なんていうと溜めてるのが馬鹿みたいですけど、繊細な人、頭のいい人ほど小さな記憶のかけらを捨てられずに集めるような傾向があるじゃないですか。それを責めても、よけい閉じちゃいますね。
N:それじゃいったいどうすればいいのでしょう? なんとかこの問題の突破口を見つけたいと思っているのですが・・・。
T:そうですよね。私もこの問題をどこから解いて行けばいいのかを考えています。少なくともいえることは、この内面のゴミは実際のゴミではなくて、観念、考えというゴミであることは確かなように思うのですがどうでしょう。その辺が突破口になるような気がしているんですが…。
M:若い頃なら“瞑想しなさい”って自信を持って無邪気に言えたかも。坐って目を閉じて、深い呼吸をする。なにかを見つめる。こころを見つめる。意識を宇宙に広げる。それらは決して無駄にはならない生活のあり方だとは思うけれど、へたな瞑想によってゴミは減るどころかゴミたちが自分の位置を確立したりしてね。自分ひとりでの瞑想は、特にあぶなくって。
T:そういえば、昔はみんなでよく瞑想会をやりましたね。“迷想会”だったかもしれませんが…。(笑)
M:あちこち迷いましたね。ここではちょっと言えないようなところへも。(笑)
T:でもそこからいろんなものを学んだような気がします。ATを学ぶきっかけのひとつにもなっているような気がします。結局、私は自分自身が作り出した観念に縛られているんだという気づきだったと思います。その呪縛を解くためのひとつの方法として瞑想があったと思います。それにもかかわらず、長い間続けていると瞑想体験が知らず知らずに観念化されていき、幻想化されていきます。そこに会長がおっしゃる危うさが出てくるように思います。だからポイントは観念の呪縛からの解放だということを忘れてはいけないように思います。
N:昔瞑想していて何か見えるとか、急に踊り出す方がいましたが、私は何も起こってこないと思ってました。今思えば幾分、幻想にいくことが少なかったのかなぁ。足が痺れるだけでした。
M:あ~、思い出す、あの甘く気持ちいい幻想に遊び、熱く気持ちいい観念に酔っていた、ロマンチックな世紀末…。(笑) 自分がなにかを得ようとか、なにかになろうとか、その自分という存在を前提にする瞬間、すべて自分にとって都合のいいことを求めるわけで、その縛りのなかではあるがままを受け入れることはできなくなるんですよね。
T:要するにわれわれ人間は自分自身の観念や思考に縛られる動物だということではないでしょうか? そしてこの呪縛からどうしたら解放されるのかとまた思考で考え始める。本屋やインターネットでその方法を、言葉を探すんです。どこまでたっても思考で解決しようとするんですね。そこに解決方法があると信じて疑わない。その結果が内面のゴミ屋敷というわけです。
M:イライラとか不安とか、その原因を外に探すうちに相手が見つかると言い争いが始まり、相手をつぶすまで終わらない戦争へ。自己正当化したい歩くゴミ屋敷どうしが出会っちゃったら、もうエスカレートするばかりで。クリシュナムルティが宗教から離れたのも、観念によって理想世界は実現しないとわかったからでしたね。
T:だからもうぼちぼち観念や思考にはこの問題を解決することはできないということに気づくべきだと思うのです。それでは何がこの問題を解決してくれるのか? それが私の長い間の問いでした。
M:たしか、あらためて体に帰ろう、体から始めようって、「ウェルネス」から「インナームーヴ」に切り替えた頃に話していましたね。“自分探し”が流行し始めていたなかで、現実から離れた観念論にならないように。ワークでは体を感じようとしてつい目を閉じてしまうので「目を開いたままで」ってよくおっしゃってました。
T:そうでしたね。どうして体からかというと、体は人工物でないからです。人工物ということはわれわれ人間の観念から生まれたものという意味でもあります。つまり観念の思い通りになる物とも言えると思うのです。だから体はそうではないので、思い通りにならないのです。
M:それはトシとともに実感しますよねぇ。学校の運動会でお父さんたちのケガが続出するのも、記憶にある体と実際の体がずれているから。イメージではもっと軽々と足が上がるはずなのに、思い通りに動いてくれない。
T:体はそういう代物ではないにもかかわらず、先ほども話しましたように観念や思考で解決できる、理解できると信じられています。こういう傾向の問題は、われわれの大切な機能のひとつである感覚で物事を感じようとしなくなることだと気づきました。
N:そういえば、谷村先生から初めてワークを受けた時に、どんな感じですか? と聞かれて大変戸惑ったのを思い出します。どんな感じ?って聞かれても、どう感じればいいの?って反対に問い返したい気持ちでした。(笑)
T:どうすればいいのかを観念で知りたくなるんですよね。その結果、感じようとしなくなるのですから、その自分自身の感じについて考えることもありません。この子供のような、感じて、その感覚について考え、探求しようとする人間らしいプロセスが失われてしまうわけです。
M:人間らしいというか、感覚はそれ以前の、動物としてのベーシックな機能でしょう。観念に覆われて失われたその感覚をとり戻そうという試みが英司先生のボディワークですね。
T:そうですね。そうしてそのことを長年探求してゆくと、自分自身の感覚を邪魔するのがこの観念だったということです。
M:調味料やら調理器具なんかが発達した反面、食材の旬の味がおろそかにされている日本の食生活に似てますね。“星”がいくつだとか芸能人が贔屓だとかいって食事を観念的に楽しんでいる反面、野菜なんかの栄養価はひどく落ちていたり、むしろ体に悪いものを使っていたりして。だから料理をする前に、まず素材そのものを見直そうよ、という感じ。
N:でも観念自体は決して悪いものではないですよね。むしろ考えるためには必要で、大切なものでもあるわけですよね。
T:そのとおりです。だから問題は観念ではなくて、観念にとらわれたわれわれの意識状態と言えると思うのです。体を感じようとするのだけれど、観念が邪魔をして感じることができないわけです。観念の雑音です。これが先ほどの内面のゴミ屋敷と関係あるのかもしれませんね。
M:意識と観念の役割分担を、ちょっとご説明くださいませんか。そこの区別があいまいになってることが、無防備に固定観念に占拠されてしまう原因じゃないかと思うので。いわゆるトキメキのないゴミ、つまり収集日には捨てるべきものは、頭の中の、なんなのか。
T:そうですね。これまでの私の探求でわかってきたことは、まず意識の活動の中には「思考」、「感覚」、「感情」そして「身体」の4つの活動があると考えたのです。
N:身体活動も意識の活動のひとつと考えるのですか? 普通は意識の活動と身体の活動は別ごとのように思うのですが・・・。
T:実を言うとこれはグルジェフという人の受け売りです。彼によると身体活動は意識によって行われているというわけです。意識不明の人はからだを動かすことができないと考えるとわかりやすいかもしれません。
N:なるほど。だから体を意識するだけでも体の内側は働いてくるんですね!
M:多くのヒーリングは体を通して意識へはたらきかけていきますしね。
T:そして、この中の「思考」の活動は、厳密に言えばそれだけではないかもしれませんが、大まかなところで観念という道具が使われていると言っていいと思うのです。そしてこの観念が意識という家の中でゴミ化して、居座ってしまうわけです。どうしてこういうことが起こるのかというと観念というのはあることを理解したり、認識したりするための道具なわけです。つまりそれはデパートの紙袋みたいな役目だと思うのです。
N:デパートの紙袋! つまり買った商品そのものではないということですね。でも、一般的には観念を商品そのものと考えられているのではないでしょうか?
T:そうなんです。そう考えるから観念が大切になってしまうように思うのです。例えば“右腕”という観念は“右腕そのもの”ではないでしょう? “右腕そのもの”を理解するために“右腕”というデパートの紙袋、つまり観念を作ったわけです。ここで私が言いたいことは観念はそのものではないということと、それらがデパートの紙袋のように部屋を占領してゴミ屋敷化してしまっているということです。
M:記憶っていうのも観念の一種だから、古いモノが捨てられないのは、よく「思い出が詰まったなになに」っていうように、それを捨てることは思い出、つまり自分の過去を失うように感じてしまうからですね。潜在意識ではその過去からつながる現在まで不安定になるような気がするはず。
じゃあ、そのゴミ屋敷化した家をどうやって掃除すればいいのかという問いですが。
T:私が思うにわれわれの脳はうまくできていて掃除してくれる自動機構も備えていると思うのです。それが先ほどから話している、感覚という活動ではないかと思っているのです。観念では観念の掃除はできないというわけです。
M:感覚は、中白先生のよくおっしゃる、“今・ここ”にしかいないから。
N:ただ、今ここにいるといっても、ずーとその場に居座ることではないです。居座ることは観念によって過去に生きることになると思います。私が言う「今にいる」とは進行形で進むことです。今にいながら進んでいると全体が見え、気づきが増し、静かになります。それが、観念を掃除することになるわけですね?
T:そうなんです。この不思議な作用を観念では理解できないことのように思います。でも経験的には理解できることです。そしてわれわれにとって最も身近な自然物、つまり体というわけです。この作業がわれわれの心身に自然な解毒作用を起こしてくれるのです。
M:ヨガで瞑想の前に体に向き合うアサナを置いているたいせつな意味は、まさにそこにあるように。
T:締めとして、以前インナームーヴで紹介したレイチェル・カーソンの“センス・オブ・ワンダー”からの一節をご紹介したいと思います。
「もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘や不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。この感性はやがて大人になるとやってくる倦怠や幻滅、私たちが自然という源泉から遠ざかること、つまらない人口的なものに夢中になることに対する、かわらぬ解毒剤となるのです。」
さらに彼女はこう続けます。
「わたしは、子供にとってもどうのようにして子供を教育すべきか頭を悩ませている親にとっても、『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要でないと固く信じています。子供たちが出会う事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。」
観念に惑わされない、しっかりした感覚の土壌を育てましょう!