2015 新春鼎談
今年も3人がアレクサンダー・テクニークのワークや研究会の活動について自由に話しました。場所は京都の静かな料理屋さん。皆さんもご一緒に考えて下さい。
T:谷村英司 N:中白順子 M:松嶌 徹
T:2015年が明けました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
M:こちらこそ、ありがとうございました。池田でのヨガフェスティバルでも休みなしで個人レッスン、お疲れさまでした。中白先生には最後にワークしていただけてラッキーでした。
N:旧年中はお二人には大変お世話になりました。今年もよろしくお願いいたします。
T:去年はアレクサンダー・テクニーク(AT)研究会としてはどんなことがあったかなぁ…。
N:春には去年に引き続き、リカさんのイスラエルに研修旅行をしましたね。
T:そうですね。AグループとBグループと2組に分けてリカさん宅でワークをしていただきました。もう遠い昔のようですね。今年の3月末から4月にかけてもまた決行する予定です。
N:それから秋には私と英司先生、鹿島先生でフランスのボルドーで開かれたアレクサンダーテクニーク・イン ターナショナル(ATI)の全体会議;コンファレンスに行きました。フランスは初めてだったので観光も楽しみました。私はひょっとしてフランス向いているかも?と思いました(笑)。子供の頃、池田理代子さんの『ベルサイユのばら』を読んで育ちましたので、ベルサイユ宮殿の華やかさもいいと思いますし、モネやゴッコの絵も好きですし、フランスの建物も大好きですし、これまで気がつきませんでしたが、フランス好きかも!と思いました。
M:おぉ、雰囲気ありますよ。お似合いです。英司先生は大学で学ばれたフランス語が通じたとか。
N:フランス人とワークをエクスチェンジされている時もフランス語理解できてたようですし、スーパーで買い物をしてた時も言い返しされてましたよ!
M:[インナームーヴ]でコンファレンスの様子を読ませてもらいましたが、世界中の教師に会われて、特にワークの感じはいかがでしたか?
N:印象に残っている先生は、今回ゲストでワークショプされた先生の考え方が面白いと思いました。それは、トレーニングコース中教師のハンズオンは一切なしで、自分でイメージを使いそして、写真を撮りそれを見て良い関係に考えなおすと、いうやり方でした。
T:夜遅くまで彼のワークショップというか講義を受けました。順子さんはあくる日に彼の奥さんとのエクスチェンジもしてましたね。まあ一つのやり方としてはアリで、学びもありました。
M:イメージですか? 技術が“できる”達人たちなら、まだそれも意味があることかもしれませんね。それでも、そのあとで起こるかもしれない変化は実際に体を使って確かめるんでしょう? でないと実はなんにも起こっていなかったり、むしろおかしくなっている可能性もあるわけだから。
T:ハンズオンは一切なしですからね。むしろハンズオンを否定されているようにも聞こえました。それと比較してマクドナルドから学んだ教師の方たちはワークショップにおいて、どんなに生徒が多くなっても必ずハンズオンで示しながらATを教えています。私が最初にその様子を見た時、どうしてそんな面倒なやり方をするのだろう? もっとスマートなやり方があるだろうに、と思っていました(笑)。でもこのやり方でないと大事なところが伝わらないと考えてのことだというのは今になってわかります。
N:ハンズオンはされないやり方ですが、見かけは良い姿勢でしたよ。リラックスばかり優先して体がダウンして、姿勢まで崩れてるより私は良いかと思いました。でも、体の内側の働きと考えると、アレクサンダーが発見されたプライマリー・コントロールが働き、トータルな協調作用が働いているかというと、違うように思いますが。
T:内的な活動についてどれだけ言葉で伝えられるかですね。内的な活動こそATの本質的なところの一つだと私は思っています。やはりこれはハンズオンなしては体験できないところだと思います。そしてもう一つ大切なのは「感覚に対する認識の不確かさ」をよく理解しなければならないとF.M.アレクサンダーは言っています。
M:マクドナルドさんが著書の『As I See It』で繰り返し警告しているところですか? 自分が正しい姿勢だと信じていることは誤りであることが多い。しかもその思い込みといっていい認識と実際の体の状態はほとんどの場合、ズレている。さらにワークをして今日正しいこと、確かな協調性を得られたとしても、明日になれば変化するので認識を固定化してはいけない、と。
T:マクドナルドの言うのは“感覚に対する認識”ですが、あの先生は言葉とイメージだけで伝えるとおっしゃっていたので、“言葉に対する認識”ですね。これはもっと注意が必要でしょうね。たとえば富士山と言った時、われわれ3人の認識は少し違うと思うのです。もっと言うならどんな富士山を3人が想像しているかはわからないし、きっと微妙な違いがあると思います。
N:確かに同じ言葉を聞いても理解が違うと思います。
M:言葉だけで“そのもの”を伝えるのはとてもムリでしょう。写真などのイメージを使えばずっと近づけるにしても、実体そのものではないバーチャルにはちがいない。どんなに美味しい京懐石でも、百聞は一見に如かず、百見は一食にしかず…。
T:そうですね。その写真をどう理解し、イメージするかはみな違うでしょう。同じ写真を見ているから同じ理解をしていると見るのは、いささか単純すぎるように思います。そういう方法だけでは伝えられないのでアレクサンダーは手を使って教えたのだと思います。それでもまだ、その経験によって受け取った感覚の認識に対する不確かさという問題が残ります。
N:感覚に対する認識の不確かさは、自分で方向性を思って働いたときもですが、教師からハンズオンされていても、受け取る側が何を捉えているか、によって違うと思います。
T:そうですね。いろんな状態で感覚に対する認識が起こってくるので、この問題が出てきます。ここで読者の皆さんに誤解を与えないように明確にしておいた方がいいことがあるように思います。「感覚の不確かさ」といった場合と「感覚に対する認識の不確かさ」と言った場合、どういう理解の違いがあるでしょう?
M:違いがあるんですか? 感覚はすべて一旦アタマで認識して“知覚”にしないと話にならないでしょう?
T:そうですよね。確かにわれわれにとって感覚と認識とは切り離せない関係です。だから明確にしておかなければならないのは、“感覚”といった場合に、“認識”という作業も含めているかどうかということを定義しておく必要があるように思うのです。「感覚の不確かさ」と言った場合、感覚“器官”自体の不確かさなのか? 感覚に対する“認識”の不確かさなのか?という意味で。健康な人にとって感覚器官が不確かなんてことはないですよね。だからやっぱり感覚の認識に対する不確かさが正しい言い方だと思うのです。でも一般的には感覚がおかしいと思っている方がおられるんではないでしょうか? ここのところを確かめたかっただけです。
N:でも「あの人の感覚おかしいんじゃない!」なんて何気なく言いますね。そして、感覚に対しての知覚が間違った解釈、つまり認識をするとも言えますよね。
M:その議論って案外盲点だったかな。主観と客観が違って当たり前のこと、映画の面白さとか料理の味みたいにある程度“好き嫌い”の領域にあると思っていることは感覚の違いを前提にできますけど、特に体の感覚はみんな同じものだと信じて疑わない。そもそも他人の身体感覚なんて想像でしかないから自分が認識している感覚しか持ち合わせていません。だからその感覚を疑うなんてこともないまま暮らしてます。
T:そうなんです。私自身はATをやっていて、一般的に感覚に対する自分自身の認識を“疑う”なんてことはないものだということに気づきました。長年ATのハンズオンという作業をしていると、私の言葉は理解しているはずなのに実際やっていることはちょっと違うなと感じるわけです。それとか世界中の教師が「首を自由に、頭を前に上に、背中が上下に長くなり、左右に拡がる」ということは言います。観念的には誰もそのことに反対する人はいないわけです。ところが実際に手を使って、そのことを示してもらうと、感覚的にはずいぶん違って感じます。その結果、それを学ぶ生徒も当然まちまちの理解をしますから、ATの理解がまちまちのまま進行しているわけです。もちろん、この現象はどうしようもないことですので、私自身としてはあまり否定的にとらないようにしています。つまりこの現象は良いことで、学ぶ人にその時の自分に合ったものを選ぶという選択肢ができるし、それを選択するには生徒側もどれが自分にとって良いことかを考える機会を与えることになる。そう考えると一つのやり方しか選択肢のない世界よりもいいような気がしてきます。それはヨガの世界でも同じでしょう?
M:それは、もう(笑)。ヨガにもいろいろなバリエイションがあるように、国際ヨガ協会のなかでも指導者によってご本人の個性と学んでこられた過程によってずいぶん違っています。だからいくつもの教室が密集していても、コンビニやガソリンスタンドみたいに競争にならないとは言えますね。
N:でもよく考えてみるとこれはATのワークやヨガ教室での出来事だけではなくて、われわれも日常生活でこれに似たような経験をしているような気がします。例えば私の起こった出来事を親しい友達だから私の気持ちは分かってもらえてると思い込んでいたけど、実際には全然違うふうに思われていたとか。
M:親しいと思っている間柄ほど感じるんじゃないですかね。この頃のネット社会なんか、危なくってしょうがない。私自身もメールやSNS、ソーシャル・ネットワーキング・サービスへの書き込みには注意しているつもりでも、びっくりするような誤解を受けたり、自分で読み返してみたら「違った」なんてこともあります。
N:でも、富士山を見たことのない人たちには通用する世界かもしれませんね。
M:まあ、日本に来る機会のない外人さんとか。
T:誰でも日本に来て、富士山を実際に見て、登って確かめない限り、観念的に“もっともらしい”、“それらしい”話であれば通用してしまうわけです。
M:いくら体験談を聞いたり映像を見せられても、あくまでバーチャルな富士山の話ですからね。やっぱり感覚は実体、富士山であれからだであれ、リアリティから離れないようにしないと。
T:そうなんですね。一見問題ないように思えるわけですが、実は一人一人の内面でどんどんリアリティが失われている。そして失われていることさえ気づいていないんじゃないかとさえ思ってしまうのです。インターネットの世界なんてまさにそういう世界のような気がします。私なんかもこの便利なものをよく利用させてもらっているわけですが、この便利さを謳歌しているうちにちょっとした勘違いが出てくるのではないかと危惧しているわけです。つまり自然とかからだとか自分自身の感覚でリアリティを感じ確かめる必要があるものまで観念化されてしまうという危惧です。
そのへんどう思われますか?
M:以前、英司先生が「からだがいちばん身近な自然物だ」っていう話をされたことがあると思うんですけれど、僕はまず、からだが本来もっている機能を信頼したいですね。いくら脳が観念的な世界で生きているつもりになっても、からだがあって実物に触れ続けているうちに、少しずつでもリアリティに近づいていける、と。またもうひとつ、僕は日本人の“感覚の認識”を信頼しています。今夜の懐石料理でもわかるように、美味しさとか美しさとか、五感すべてをこれだけ駆使してきた民族って世界に例がないと思うんです。さっきのSNSも次から次と新しいサービスが提供されるんだけど、それは実際の人間関係とは異質のものだという違和感をちゃんと感じとれると、これは希望的観測だけど、思っています。
T:ポジティブですね。そう思える会長が羨ましい!(笑) 冗談ではなく、本当に私もそこに人間の可能性を見出したいんです。だからこそ危惧についても話してみたいと思ったのです。F.M.アレクサンダーで例えれば、彼は人間の持つプライマリー・コントロールに可能性を見出したのですが、そのためにはそれを阻む人間特有の習慣的反応パーターンについて警告したように。
M:自分の習慣だから、それを自分で修正することは至難のワザなんですよね。
N:このことが難しい理由は、この反応(首を固くして、頭を後ろに下に引き込み、背中を短く狭くする反応)はわれわれにとって無意識下で進んでいくからだと思います。そしてATを理解することが難しいのもこのことと関係あるように思います。
T:そうでしょうね。この人間特有の反応はわれわれの行為(動作)と一体化していますからね。動作のことと勘違いされやすいですね。
M:私はなにも悪いことはしていません!なんていう人にも同様に起こってしまう。
N:そうなんですよね。「私はからだにいいことしてるのよ。そのことの何が悪いの?」なんて叱られるときがあります。だからこの習慣について指摘させていただく時には細心の注意がいると思います。
T:確かに。そのからだにいいことを否定しているような誤解は避けないとね。だから様々な動作の“背景”で起こっていることだと言ってもいいかもしれません。つまり動作は違っていてもその背景で起こっていることはほとんど同じ、この習慣に集約されてしまう。
M:だからアレクサンダーはそれを“本能”と呼んだんですね。だれも逃れられない傾向としてあるから。
T:彼が言ったこの“本能”という言い方にはわれわれ日本人にとってちょっと抵抗あるものかもしれませんね。
N:なぜでしょう?
T:われわれ日本人はこの本能という言葉をいい意味でというか肯定的に使っている場合の方が多いからかもしれません。
M:野生動物はみんな健全だ、という前提で。
T:でも彼が言っているのは人間には良い本能ばかりではなく、自分自身を害する本能もあるということではないでしょうか。
M:本能が自分を害する…。直立したホモエレクトゥスの200万年前から、ずっと私たちは環境や生活習慣の変化に適合しようとし続けてきたはずですよね。だから、現代の生活にまだからだの対応が追い付いていない部分、それが弱点となっているんじゃないでしょうか。有利だったことが環境の変化で不利になるのは、たとえば過剰カロリーを皮下脂肪の形で蓄えておく機能がありますね。食料難のときにはすごく有利だったのが、現代の日本では不都合なことのほうが起こってしまう。
T:そこでも観念的反応も一つの原因かもしれませんね。かつてはコメをいっぱい食べることがからだにいいという観念があり、今では食べ過ぎはいけないという観念。すべてが観念のみで反応してしまう。感覚が入る余地がありません。
M:そうですね。そして今“からだにわるいこと”、重いものを持つとか、長時間立ちっぱなし、あるいはパソコンを見つめているようなことさえしなければ大丈夫と考えがちですけど、自然に任せておいても陥っていく無意識の習慣。それを放置したまま“いいこと”をしても、そこからは逃れられない。ヨガ教室ではアサナをすれば大丈夫、というわけではなくって、どのようにするかが肝要だということをATを通じて教えていただいています。
N:なるほど。ヨガにおいて会長の言いたいことはまさにそこにあるわけですね。ヨガの世界においてそこに目を向けられているのは国際ヨガ協会だけではないでしょうか。
T:ヨガの世界では革命的ですね。そしてチャレンジでもあります。なぜなら上に言ったような誤解が生じることは百も承知で取り組まれているわけですからね。
M:その部分では、ヨガ経験のない、なんの先入観もお持ちではない生徒さんのほうがすんなり受け入れていただけますね。
T:このこともすべて関連づいてくると思うのですが、話を少し戻して、この人間特有の習慣的反応パターンが人間の“本能”であるとアレクサンダーが言ったように、感覚に対する認識を“観念化”するのが人間の本能で、そこまではいいと思うのですが、知らず知らずのうちに観念に縛られるということが起こり始めます。彼が発見した“習慣的反応”も知らず知らずのうちにそれに縛られ始めるという点において、何か共通したものを感じるんです。そこに何かもっと明確な共通点が見つかれば面白いと思うのですが・・・
N:谷村先生の言葉を借りると、彼が発見した人間特有の“習慣的反応パターン”と“人間特有の観念化”のパターンは知らず知らずのうちにわれわれの内面で進行して、それらがわれわれを支配してゆくという点で似通っているということですね。
M:観念化は、表現を変えれば“固定化”と言い換えられますか。
T:そう言っていいと思います。
M:本来は感覚が受け取った情報を予断しないで認識し、反応するはずのところが、感覚とほぼ同時に反応を起こしてしまって、パターン化した認識に省略。それは正確な認識ではないのに、“いつものよう”に固定化した反応をする。それは同じような現象に対してはイチイチ迷わずに瞬時に反応して行動に移す、問題解決能力だったんだけど、似て非なるものにも同じものだという認識をしてしまう。
T:それはパターン、つまり過去のデータですよね。その観念による固定化した反応をする時に、私もまだよくわかっていないのですが、なぜか習慣的反応パターンも活性化されて、むしろ勢いよく出てくるようなのです。以前からこのことがなぜなのか明確な理由が見つからないんですが。
N:それは以前からわれわれがやっている抑制と関連した“感覚にシフトするワーク”と関係があるように思うのですが…。なぜならこのワークをすることによって心が静まり、それと同時に習慣が弱まるのを感じるからです。私にとって心が静まるということは観念化の勢いが弱まるということなのですが…。
M:固定化した習慣的反応パターンから自由になって、正しくからだを使えるようになるのでしょうね。そしてそのアプローチには、道のりを熟知した教師による実際のハンズオン、からだのために、からだを通して伝える要素が欠かせない、と。言葉という観念を使うことはすなわち固定化であって、感覚が生きている世界とは次元が異なってしまう。
T:今のところ私はこう考えています。アレクサンダーが発見した固定化した“習慣的反応パターン”とすべてを観念化、パターン化して問題を解決しようとするのはわれわれ人間の本能である、ということなんでしょう。そしてこの“固定化した習慣的反応パターン”を直接的に抑制することは難しいのです。なぜならこの“抑制する”ということですら観念化し、パターン化してしまうからです。したがってこの観念化、パターン化するわれわれの反応を抑制する必要があるわけです。
N:そこでまず固定化した習慣的反応パターンから自由になるためには、感覚にシフトする必要があるわけですね。納得!
M:重症の肩こりの持ち主には、いくらリラックスして、と言っても緊張はほぐれないし、コッている自覚もなくなっている人がよくあります。日常生活で抑制という反応が自動的に起こっている証拠でしょうね。教室でからだを動かしてみて初めてどれくらいコッて縮んでいるか気付くものです。
T:ここで私が言っておきたいことは、われわれ人間は“自然”とか“からだ”とかいったものまで観念化して、わかったようなことを言ってしまうということです。このことと、言葉だけでATを説明できるとすることと関係があるような気がしました。しかしこれらは私にとってそしてきっとわれわれ人間にとって“永遠の謎”なのです。決して観念化しきれるものではないということです。
N:いつもからだは、違って感じますものね。そこでもう一度今の自分自身のからだを感じ直す必要がある。その作業をパッと飛ばすことはできません。ちょっと面倒ですけどね。
T:そうですね。順子さんがやっているその作業は観念化ではないわけです。感覚にシフトしていると言えると思います。そこに「あれ、昨日はこうだったのに、今日はどうしてこうなんだろう?」という謎があるわけです。
M:その探検は実際にからだに触れながら新鮮な感覚・感性で認識を重ね、深めていくことでしか先に進めない。
T:ところがわれわれはその作業が面倒なので、それをパッと飛ばしてしまうのです。つまりそれが観念化、パターン化しようとするわれわれ人間の無意識的反応と言えるのではないでしょうか。感覚を受け取ってその感覚について認識しょうとする作業を飛ばしちゃうわけです。ヨガをやっておられる方々もこういう反応はないでしょうか? この反応はとても素早いのでわかりにくいかもしれませんが…。
M:アサナを先生に教わらなくてもできるようになった、そう思ったところからが危ないですね。
T:それは動きを“想像”する作業ですね。ところが感覚にシフトして、その感覚を認識するという作業は想像ではないですね。この違いをしっかり理解する必要があるのではないでしょうか。
N:だからATのワークをしていても想像する作業は観念化でありパターン化ですから新しい感覚的発見がないので、飽きてしまうでしょうね。私が長年ATをやっていて飽き性の私が飽きない理由はそこにあったんですね。それはヨガの世界でも同じことが言えるんでしょうか?
M:30年やってきて、やっぱり[前屈のポーズ]はむずかしいなぁとか、[ネコのポーズ]はこうすればいいんだ!とか、発見の連続があるからこそ続くし、その発見のためにATの先生方に生徒さん、指導者にもからだの感じ方を伝えていただきたいと思います。
T:ですから今年はヨガをやるにしても、ATをやるにしてもこのことに留意しながらワークしよう!ということでこの鼎談を締めてはどうでしょう。
M&N:賛成!
T:さて今年の研究会の予定は、冒頭にも話しましたが、みんなでリカさんのイスラエルに行きます。年末にリカさんご夫妻から皆さんに以下のメッセージがありました。お伝えしておこうと思います。
T:最後にひとつ残念なお知らせがあります。1月3日にリカさんとも親しかった教師のシムエル・ネルケンさんがお亡くなりになりました。確か93歳くらいだったと思います。
N:一昨年もエルサレムのスクールでレッスンを受けました。リカさんとは違う、彼独特のハンズオンが思い出されます。
T:会長もご一緒だったイスラエル研修で、彼と順子さんとのワーク風景の動画を撮ったのを思い出しました。今では貴重な資料となってしまいました。F.M.アレクサンダーに直接学んだ貴重な人でした。
M:淡々と、でもとても楽しそうにワークをされていた様子が思い出されますね。ご冥福をお祈りします。
T:そして春と秋には集中ワークもやります。
N:トレーニングコースは今年の3月で卒業の方がありますね。
T:そうですね。みなさん本当に頑張りましたね。そして引き続きトレーニングする方もおられます。
N:卒業者が増えて、その方々も引き続きトレーニングコースに加わるという形になってきていますね。
T:そうなんです。あまり多くなりすぎると部屋が入りきれなくなってしまうのではという心配も出てきています(笑)。だからこれからは少しずつの募集でやっていこうと思います。もちろん興味のある方はいつでも研究会にお声をかけてください。
M:そのお忙しい合間には、協会の研修会でのご指導も引き続きよろしくお願いします。