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津波の霊たち──3・11 死と生の物語

2018.07.16 02:39

https://www.hayakawabooks.com/n/n51eeedc98edc 【「津波の霊」に“憑依”された男は、ある住職に助けを求めた。被災地で報告される「心霊現象」とは。】より

 在日20年のイギリス人ジャーナリスト、リチャード・ロイド・パリーが、6年にわたる取材をもとに書き上げた『津波の霊たち──3・11 死と生の物語』が発売となりました。こちらで、その抜粋を掲載します。

「死者は生者に愛着があり、家族を失った者は死者に愛着がある。幽霊が出るのも必定なのです」(金田諦應)

 被災地で取材をはじめたリチャード・ロイド・パリーは、宮城県栗原市の禅寺・通大寺の金田諦應(かねた・たいおう)住職に出会う。住職は、被災者の話に耳を傾けるうち、様々な「心霊現象」の事例を聞き、自身のもと訪れた霊体験の相談者にも応対していた。被災地で語られる「津波の霊」とは。

幽霊

(『津波の霊たち──3・11死と生の物語』より抜粋)

 私が東北で出会った金田諦應(かねた・たいおう)住職は、津波に呑み込まれた死者の魂の除霊について教えてくれた。幽霊を見たという話が被災者のあいだでささやかれるようになったのは、震災の年の秋になってからのことだった。が、金田住職のもとに最初に〝憑依〟についての相談が舞い込んだのは、地震から二週間もたたないある日のことだった。彼は、宮城県内陸部にある栗原(くりはら)市の禅寺・通大寺(つうだいじ)の住職だった。3月11日の地震の揺れは、住職にとっても、彼の知り合いの誰にとっても、人生で経験したなかでもっとも激しいものだった。寺の本堂の太い木の梁(はり)が曲がり、みしみしと音が鳴った。電気、水道、電話が数日にわたって止まった。電気を奪われた栗原市民たちは──津波に襲われた海岸から50キロほどの場所にいたにもかかわらず──実際に何が起きていたのか、地球の反対側のテレビ視聴者よりも漠然とした考えしかもっていなかった。しかし、やがて状況は明らかになった。まず、埋葬するべき遺体とともに数組の家族が金田住職の寺にやってきた。その後、遺体がひっきりなしに到着するようになった。

 この地震では、いっときに1万8000人以上の人々が亡くなった。わずか1カ月のあいだに、金田住職は200人の葬儀を執り行なった。その死の規模よりも悲惨だったのは、生き残った遺族たちの姿だった。「みんな泣いていませんでした」と金田住職は振り返る。「まったく感情がないんです。失ったものはとても大きく、死はあまりに突然やってきました。遺族たちは自らが置かれた状況に関する事実を別々に理解していました──家を失い、生活を失い、家族を失った。みんなそれぞれのピースについては理解していましたが、全体像をとらえることができなかった。何をすべきか、ときに自分たちがどこにいるのかも理解していませんでした。正直、まともに会話をすることはできませんでした。私にできるのは、そばに寄り添い、経を唱え、葬儀を執り行なうことだけでした。それだけが、私にできることでした」

 このような無感覚と恐怖のなかで、金田住職のもとにひとりの男性がやってきた。建設業を営む地元の知り合いだった。私はこの人物を小野武(おの・たけし)さんと呼ぶことにする。

 小野さんは自らの経験を恥じ、本名の公開を望まなかった。私ははじめ、何が恥ずかしいのか、その理由がよくわからなかった。彼はがっしりとした体躯の三〇代後半の男性で、青いつなぎの作業服がいかにも似合うタイプだった。若々しく豊かな髪の毛は、いつもぼさぼさだった。「小野さんはじつに純粋な人です」と金田住職は私に言った。「彼はすべての物事を額面どおりに受け取ります。あなたはイギリスのご出身ですよね? あなたの国の人でたとえるなら、小野さんはミスター・ビーンのような人です」。私としては、小野さんについて滑稽な部分を感じたことはなかったので、少し言いすぎのような気がした。とはいえ、小野さんにはどこか夢見心地で天真爛漫なところがあり、それが彼の語る物語の信憑性をよりいっそう高めたのだった。

 地震が起きたときに住宅の建築現場にいた小野さんは、揺れが続くあいだ地面にしがみついていた。現場に停めてあった大型トラックも激しく揺れ、いまにも転倒しそうなほどだった。自宅に戻る道路の信号が停電しており、小野さんはひどく不安になった。それでも、物理的な被害は驚くほど少なかった。電信柱が何本か斜めに傾いたり、いくつかの民家の庭の塀が崩れたりする程度だった。小さな建設会社を営む彼の家には、地震による不便に対処するための品々がすべてそろっていた。それから数日間の小野さんは、キャンプ用コンロ、発電機、ガソリンの携帯缶などの準備や設置に大わらわで、ニュースに注意を払う時間はほとんどなかった。

 ところが、いったんテレビを見る余裕ができると、実際に起きたことについて意識せずにはいられなかった。小野さんはとめどない映像にさらされた。爆発した原子炉からもくもくと立ち昇る煙のリプレイ映像。港、家々、ショッピングセンター、車、人影にバリバリと音を立てて襲いかかる黒い波をとらえた携帯電話の動画。そんな映像に映るのは、生まれたときから見知った場所ばかりだった。丘と山を越え、一時間も車を走らせればたどり着くような漁師町や浜辺だった。破壊の光景は、小野さんのなかに無関心で冷淡な感覚を作り出した。その感覚は、当時、自宅や家族を失った直接的な被害者のあいだにも蔓延していたものだった。

「生活はすぐにふだんどおりに戻りました」と小野さんは私に語った。「私の家にはガソリンもありましたし、発電機もありました。知り合いで怪我をした人も死んだ人もいません。津波を自分の眼で見たわけでもないので、まるで夢のなかにいるような気分でした」

 震災から10日後、小野さんは妻と母親とともに車で山を越え、被災地の様子を自ら確かめにいった。

 朝、三人は軽快に出発し、途中でショッピングを愉しみつつ、昼食の時間までに海辺にたどり着いた。道中のほとんどのあいだ、車窓に映るのはいつもながらの景色だった──茶色い田んぼ、瓦屋根の木造の家、流れの緩やかな幅広の川にかかる橋。しかし丘陵地帯の坂道を上ると、緊急車両の数がどんどん増えていった。警察や消防の車にくわえ、自衛隊の緑色の大型トラックも視界に入ってきた。道路が海岸沿いへと下るにつれて、三人ののんきな気分は消えていった。現在地がどこかを理解する間もなく、突如として車は津波の被災地に入っていた。

 事前の警告もなければ、徐々に被害が増えるわけでもなかった。波は最大の力で押し寄せ、すべての力を放出し、再び引いていった。波がどの地点まで届いたのかは一目瞭然だった。その高さより上では、何も被害はなかった。その高さより下では、すべてが変わっていた。

 この時点で、小野さんの物語に〝恥〟の要素が入り込んでくる。彼は、訪れた場所や自らの行動について細かく説明することを嫌がった。「瓦礫を見て、海を見ました」と小野さんは言った。「津波の被害を受けた建物を見ました。被害の様子そのものだけではなく、雰囲気に圧倒されました。そこは、かつて私がよく訪れたことのある場所でした。変わり果てた姿を見るのは、大きな衝撃でした。それに、大勢の警官や自衛隊員がいる。簡単には説明できません。危険な場所だと感じました。『これはひどい』というのが最初の印象で、次に感じたのは『これは現実なのか?』というものでした」

 その晩、小野さんはいつものように妻と母親と一緒に夕食をとった。食事中、小さな缶ビールを2缶飲んだという。食後、特別な理由もなく、彼は携帯電話で友人に電話をかけはじめた。「ただ電話をかけて、『元気か?』などと訊いただけでした。とくに話すこともありませんでした。でも、なぜかとても人恋しく感じはじめていたんです」

 翌朝、眼を覚ましたとき、妻はすでに家を出たあとだった。その日は仕事が休みだったため、自宅でだらだらと一日を過ごした。忙しなく家を出入りする母親が、どこか取り乱しているように見えた。怒っているようにさえ見えた。仕事から戻ってきた妻も、同じようにピリピリとしていた。

「何かあったのか?」と小野さんは尋ねた。

「あなたとは離婚する!」と妻は答えた。

「離婚? どうして? なんで?」

 妻と母親は昨晩の出来事について説明した。小野さんが、友人たちへの一方的な電話を終えたあとのことだった。彼は飛び上がって四つん這いになり、畳と布団を舐め、獣のように身をよじらせた。はじめ、この突飛な行動に妻と母は苦笑いしていたが、小野さんが発した言葉にふたりは声を失った──「死ね、死ね、おまえら死ね。みんな死んで消えてしまえ」。次に、彼は家のまえにある手つかずの畑へと走っていき、ぬかるんだ地面に倒れ込んだ。あたかも波に揉まれているかのように何度も転げまわり、「あっち、あっちだ! みんなあっちにいるぞ。見ろ!」と絶叫した。それから立ち上がると、「あんた方のところに行きます。そちら側に行きます」と叫びながら、畑をさらに奥まで進んでいった。ほどなくして、妻が無理やり彼を家へと連れ戻した。その後も一晩じゅう、身悶えと叫び声は続いた。朝の5時ごろ、小野さんは「おれの上に何かいる」と喚き、その場にくずおれて眠り込んだ。

「妻と母はとても不安そうで、動揺していました」と彼は言った。「もちろん、ほんとうにすまないと謝りました。でも私としては、自分の行動についても、その理由もまったく記憶にないんです」

 同じことが三晩も続いた。

 翌日の晩、夜の帳(とばり)が降りると、小野さんは家のまえを通り過ぎる人影を見つけた──親子連れ、友人同士の若者の集団、祖父と子ども。「みんな泥だらけでした」と彼は言った。「5メートルほどさきの場所から、こちらを見つめてくるんです。でも、怖くはありませんでした。私はただ考えていました。あの人たちはどうして泥だらけなんだろう? どうして着替えないんだろう? 洗濯機が故障しているのかなと。昔の知り合い、あるいはどこかで見かけた人々のようにも思えました。映画のフィルムみたいに、その場面はちらついていました。だけど、私はまったく正常な感覚で、みんな普通の人間なんだと考えていました」

 翌日の小野さんは、ぐったりとして抜け殻のような状態だった。夜になって横になると10分だけ深い眠りが訪れ、8時間の睡眠をとったかのように元気な気持ちで眼を覚ました。しかし歩き出すと、脚はふらふらだった。彼は妻と母親をにらみつけ、最後に包丁を手にとって唸った。「死ね! みんな死んだんだよ。だから死ね!」

 3日にわたって家族に説得され、小野さんはついに通大寺の金田住職のもとを訪れた。「その眼はうつろでした」と住職は言った。「薬を飲んだあとのうつ病患者のように。一目見ただけで、何かおかしいとわかりました」。小野さんは海辺への訪問について話し、妻と母はその日以降の彼の奇行について説明した。「話をするあいだ、住職が鋭い目つきでこちらを見てきました」と小野さんは言う。「私の一部がこう叫んでいました。『そんなふうにこっちを見るな、バカ野郎。おまえなんか大嫌いだ! どうしてそんな眼でおれを見るんだ?』」

 金田住職は小野さんの手をとり、おぼつかない足取りの彼を寺の本堂へと連れていった。「住職に坐るように言われました」と小野さんはそのときのことを振り返る。「私はいつもの自分ではありませんでした。強い抵抗感があったのをいまも覚えています。でも、どこか安心する気持ちもありました。私は助けられたかった。住職のことを信じたかった。自分のなかにまだ残っている自分の部分が、救われることを望んでいたんです」

 金田住職は木魚を叩き、般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えはじめた。

無眼耳鼻舌身意      

無色声香味触法

無眼界乃至無意識界

無無明

亦無無明尽

乃至無老死

亦無老死尽

無苦集滅道

無智亦無得

以無所得故

[眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。

(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。]

 小野さんの妻は、そのときの様子をあとになって夫に伝えた。住職の読経が続くなか、小野さんが両手を合わせて祈っていると、その両手が何かに引っ張られるかのように頭上高くに上がった。

羯諦羯諦波羅羯諦     

波羅僧羯諦

菩提薩婆呵

[ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)]

【現代語訳は、中村元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫、1960年)より。】

 住職がお清めの水を振りかけると、小野さんの髪とシャツが濡れた。ふと我に返った小野さんは、自分の心が静謐と解放の感覚に包まれていることに気がついた。「頭が軽くなっていました」と彼はそのときのことを語った。「その瞬間、いままでそこにあったものが消えていました。肉体的には元気になりましたが、ひどい風邪で臥(ふ)せっているときのように鼻だけが詰まっていました」

 その後、金田住職は小野さんに厳しい口調で語りかけた。ふたりとも、何が起きたのかを理解していた。「小野さんは、ひどい被害を受けた被災地の浜辺を、アイスクリームを食べながら歩いたと言っていました」と住職は私に語った。「制止されないように、車のフロントガラスに〝災害援助〟と書いた嘘の張り紙までしていた。深く考えることもなく、安易な気持ちで行ったんです。私は小野さんに言いました。『あなたはバカ者だ。多くの人が亡くなったような場所に行くなら、畏敬の念をもって行かなければいけません。そんなのは常識です。あなたは、自分の行動に対してある種の罰(ばつ)を受けたんです。何かがあなたに取り憑いた。おそらくは、死を受け容れることができない死者の霊でしょう。その人たちはあなたを通して、後悔や憤りを表現しようとしたのです』」

 当時のことを話しながら、金田住職は急に思い出したように微笑んで「そう、ミスター・ビーン!」とやさしく言った。「小野さんはとても純粋で無防備な人です。それも、死者たちが彼に取り憑くことのできたもうひとつの理由でしょう」

 小野さんはそのすべてを認識していた。いや、それ以上のことを理解していた。彼に取り憑いたのは、人間の男女の魂だけではなかった。そのときの彼には、動物たちの姿も見えていた──飼い主たちと一緒に波に呑み込まれた猫、犬、家畜。

 彼は住職に礼を言い、車で家に戻った。カタル性炎症のときのように、鼻水がとめどなく流れてきたという。しかし出てきたのは粘液ではなく、見たこともないピンク色のゼリー状のものだった。

 津波が押し寄せたのは、海から数キロほどの内陸までだった。しかしその津波は、山を越えた栗原市に住む金田諦應住職の人生を変えた。彼が住職を務めるのは、家族が代々引き継いできた長い歴史をもつ寺だった。津波の被災者に対応するという仕事は、住職にかつてない大きな試練を与えた。東日本大震災は、日本における戦後最大の災害だった。しかも、その痛みの大きさは計り知れないものだった。痛みは地面に穴を掘り、地中深くまでもぐり込んでしまった。緊急事態への対応が落ち着くと──葬式が終わり、遺体が火葬され、家を追われた被災者の避難がひととおり終わると──金田住職は沈黙の地下牢への潜入を試みた。そこで彼は、数多くの生存者の疲弊した姿を目の当たりにすることになる。

 彼はほかの僧侶たちと一緒に海岸沿いをまわり、「カフェ・デ・モンク」と名づけた移動式イベントを開催した。「モンク」というのは、「僧侶」を意味する英語の「monk」と日本語の「文句」の語呂合わせだった。「平穏な日常に戻るには長い時間がかかると思います」と金田住職が配ったチラシには書いてあった。「あれこれ〝文句〟の一つも言いながら、ちょっと一息つきませんか? お坊さんもあなたの〝文句〟を聴きながら、一緒に〝悶苦〟します」

 お茶を飲みながら気軽に会話する──そんな表向きの宣伝文句に惹かれ、カフェ・デ・モンクが開かれた寺や集会所にはたくさんの人が集まった。その多くは「仮設住宅」に住む人々だった。冬は凍えるほど寒く、夏はうだるように暑い殺風景なプレハブの仮設住宅は、ほかのどこにも住む余裕がない人々が最後にたどり着く場所だった。僧侶たちは親身になって相手の話に耳を傾け、必要以上の質問をしないようにした。「みんな泣きたがりません」と金田住職は言った。「泣くことを利己的だと考えているんです。仮設住宅の住人のほとんどは、家族の誰かを失った人々です。誰もが同じ船に乗っているからこそ、自己中心的だと思われたくないのです。ところが、いったん話しはじめると状況は一変します。その言葉に耳を傾ける私たちには、相手の食いしばった歯の奥にある苦しみが伝わってくるのです。表現することができない苦しみ、表現しようとしない苦しみのすべてを感じることができます。そのうち相手の眼から涙があふれ出し、それはとめどなく流れつづけるのです」

 はじめは申しわけなさそうにぽつりぽつりと、次第に滔々と、被災者たちは津波の恐怖、家族を亡くした痛み、将来への不安を語った。さらに、超自然的な出来事について話す人も少なくなかった。

 他人、友人、隣人、死んだ家族の幽霊のようなものを見た、と語る人がいた。多くの人々が、自宅、仕事の現場、オフィス、公共の場、海岸、瓦礫だらけの町で心霊現象を体験した。その経験は、不気味な夢や漠然とした不安感といったものから、小野武さんのケースのような明らかな〝憑依〟まで幅広いものだった。

 ある若い男性は、就寝中、何かの生き物が体にまたがっているかのような圧迫感に襲われると訴えた。ある10代の女性は、家のなかに居座る恐ろしい人影について話した。ある中年男性は、雨の日に外出するのが嫌いだと語った。水たまりに映る死者の眼が見つめてくるのだという。

 福島県相馬(そうま)市のある公務員の男性は、荒れ果てた海岸沿いを訪れたとき、緋色の服を着た女性がひとり佇む姿を見た。道路や民家からは遠く離れた場所で、近くには車も自転車も見当たらなかった。彼が再び視線を向けると、女性の姿は消えていたという。

 多賀城(たがじょう)市のある消防署は、津波によって崩壊した住宅地への出動を要請する通報を何度か受けた。署員たちはとりあえずその場所に行き、瓦礫のまえで亡くなった人々の魂に祈りを捧げた。すると、幽霊からの電話は来なくなった。

 仙台のタクシーに乗り込んできた悲しげな表情の男性は、もう建物が存在しない住所を行き先として告げた。途中、運転手がバックミラーを見ると、後部座席は空(から)だった。それでも彼は運転を続け、倒壊した家の土台のまえに車を停めた。それから丁重にドアを開け、眼に見えない乗客がかつての家に向かって降りていくのを待った。

 被災者が集まる女川(おながわ)のある共同体では、仮設住宅の居間に昔の隣人が現れ、驚いた住人たちと一緒に坐ってお茶を飲んだ。その女性に死んだ事実を伝える勇気がある人は誰もいなかった。彼女が坐った座布団は海水で濡れていたという。

 そのような話の数々は、被災地のいたるところから聞こえてきた。キリスト教、神道、仏教の宗教者のもとには、不幸な魂を鎮めてほしいという依頼がひっきりなしに舞い込んできた。ある仏教の僧侶はこの「幽霊問題」についての記事を学術誌に寄稿し、東北大学の研究者たちは物語の収集・整理を始めた。京都で開かれた学術シンポジウムのなかで、この問題が取り上げられたこともあった。

「信心深い人たちは誰もが、それがほんとうに死者の魂なのかどうか議論しようとします」と金田住職は私に語った。「私はその議論には参加しません。重要なのは、実際問題として人々がそういうものを見ているということです。震災のあとのこの状況下では、まったくもって自然なことでしょう。あまりに多くの人たちがいっときに亡くなった。自宅に、職場に、学校に波が襲いかかり、みんないなくなった。死者たちには、気持ちを整理する時間がなかった。残された人々には、さよならを伝える時間がなかった。家族を失った人々、死んだ人々──両者には強い愛着心があるのです。死者は生者に愛着があり、家族を失った者は死者に愛着がある。幽霊が出るのも必定なのです」

 住職は続けた。「あまりに多くの人がこういった経験をしています。それが具体的に誰なのか、どこにいるのかをすべて特定するのは不可能なことです。だとしても、そのような人は数えきれないほどいて、人数も増えつづけている。私たちにできるのは、その徴候一つひとつに対処することだけです」

『津波の霊たち――3・11 死と生の物語』プロローグの抜粋はこちらから。