『芸術再武装』ーさあ「結論」に入ろう!
RAG-Re-Armament Geijutze
「芸術」とは、人間の自己学習アルゴリズムのことである。
「学習」とは、教えられることではなく、「能力」から選択すること。いいかえれば、組み込まれていない「能力」は出てこないという制約がある。
近い将来、1000ドルのPCは人間の「知性」をエミュレートするために必要なハードウェア性能を持つようになる。しかし、人間はとても複雑に組みあがっている。脳という機関は自前の蒸気で動いているにもかかわらず、私たちは自分の行動は自分で采配をふるっていると思いこんでいる。ひとりひとりの中心に、「自分」が存在していて、万事に采配をふるっていると思っている。自分自身に内在する生物の精神活動のシステムを考えない限り、「自己」対「装置」の問題の答えはどこまでいっても見つからない。人間は自己の内側にあるものを認知することしかできない。私達が普段客体として外に認識しているつもりのものは、内部に立ちあがる仮想的対象を外にあるかのごとく認識しているのであり、自分がそのような形で世界を認識していること自体を、いわば外側から認識し直す心の動きなのである。
鳥の羽をいくら調べても、翼の動きは理解できない。
私たちは網膜に映った「像」を見ているわけではない。視覚神経処理によって「世界」という『像』にしているのである。 主観世界を分析するには「内側」からの視点から周囲世界を観察しなくてはならないのだ。「クオリア」は脳細胞が我々に見せている「芸術」であり、「芸術」が重要なのは、重要であることがその機能だからである。「芸術」は、追い求めるに値する人生を持った自己を、人間のうちに作り出すように設計されているのだ。 事実が積みあがっていくに連れて、それに機能的な文脈を与える必要があり、その文脈が機能の構成要素をどう制限しているか自らが精査しなくてはならない。ヒトの腕と手は、脚ほど役割が専門化していなかったおかげで腕と手に関しては、実に多くの使い道が発明された。キーワードは発明だ。脳の進化を後押ししたのは創意工夫と模倣だ。つまり、「芸術」のそれでなのある。
「芸術」と「科学」は対立概念ではなく、共に対立するのは
アカデミーである。
『芸術的』『科学的』という二つの言葉は対立した逆の概念だと思われているが、共に対立するのはアカデミーであり、「芸術」も「科学」もアカデミーにおいては『因果律による硬直的な思考法』という点で同じなのである。
AIにおいて話題になっているDeep Learning は大脳における視覚野と「よく似た動作処理」をしているということにすぎず、それらをどう組み合わせればいいのか、他の部分はどのような仕組みなのか、そもそも「意識」とはなんなのかといった部分がほとんどわからない。そもそも科学の目標は、特に脳を再現しようとか、「人工知能」をつくろうとしていたわけではなく、良い「機械学習アルゴリズム」を作ろうとしているだけなのである。そもそもそうした「目標」以前に、一体何のためにも「人工知能」を開発しているのかという「目的」自体もよくわかっていないのが現状なのである。
「学者」の「知識」が強いのは、「論理空間」の大きさが限定されているからだ。だが、リアルな現実社会では「論理空間」は無限大であり、何が行われるかわからない。「学者」はプログラムにもとづいて「知識」の表象を行う。データを処理する以前に、前もってどのようなデータかを予測し、いかなる論理にしたがってデータを操作するかのアルゴリズムにより、結果を導き出すというプロセスによるわけだが、良き結果を生み出すのは、過去のプログラム作成時におこなった状況予測が当たった時だけである。
しかし、「人工知能」は無価値なのかといえば、そんなことはまったくない。ビッグデータの中から共通点や相関関係を読み出す作業は、人間よりもずっと優秀であり、ただそれは、人間が持つ「概念」や「意味」と似てはいるが全く別物だという理解が必要である。
「人工知能」は、人間の「知能」を拡張するすばらしい「道具」であることは疑いはない。「人工知能」を活かすためにも、アカデミーの理系の知識だけではなく、「芸術」「humanities」(ヒューマニティーズ)のインテグリティ「集合知」が必要なのである。
記号の「意味」とは、本来、生物が生きていくうえでの「重要性」のことなのであり、コンピュータが扱う「知識」のようなものの中には、「意味」は存在しない。そこに「意味」を読み取っているのは、あくまで人間である。
そもそも「知識」とは、外部環境のさまざまな作用や変化の中で、生物が生きていくために不可欠で有益な情報を取得したものである。有機体としての身体を持たないコンピュータは、環境の変化に適応して「生きてゆく」必要もなく、原理的に「知識」を持つことはできず、「人工知能」が人間のような「知識」を持つことはありえない。「人工知能」にできることは、論理回路に従った「記号」の操作だけである。だから、どんなにパターン認識が上手にできても、それは、人間の知識がもつ「意味」とは根本的に異なっている。
AIのシンギュラリティは
数千万色の絵の具を手にいれるということに過ぎない。
「自己学習」による発達とは、外部の客観世界を正確に認知していくのではなく、環境世界に適応するように主観的な世界を内部構成していく過程に他ならない。要するに、現実に地上に存在するのは、個々の人間の『主観世界』だけなのだ。「芸術」は、まずは「クオリア」に彩られた生命的な主観世界から出発しなくてはならないのだ。
自分の「概念構造」にもとづいて行動してみて、うまくいけばそれでよし、失敗したら「概念構造」を変更する。ポイントは、所与の「概念構造」への一致は要求されない、という点だ。 つまり、「クオリアの問題」なのである。大事なのは、試行錯誤をつうじて周囲状況に『適応』することなのである。ここで『適応』というのは、何らかの行動をした結果を自分の世界イメージにフィードバックすることだ。
「ポスト真実」の時代においては、重要なのは、我々が見ている世界が、ありのままの現実の世界であるかどうかではなく、見ている世界が同じかどうかだ。同じ世界を見ていればコミュニケーションが可能となり、人とコミュニケーションがとれるということは、少なくとも、同じ「世界観」を共有している。世界は三次元空間からなり、自分はその世界の地面に描かれたラインに沿って走っていると認識しているわけではない。このことは、その生物にとっての世界は、その生物がどのように処理しているかに依存しているのだ。だから、世界を三次元空間として処理して初めて、世界は三次元空間として立ち現れてくるのである。
「自己学習」の世界において観察するシステムは、主観的・相対的だから、どうしても独我論に陥ってしまう。自分勝手な分析をしても、「芸術」にはならない。だからこそ、「観察システムをさらに観察する」二次的なサイバネティクスが必要なのだ。つまり、「メタ認知」や「ホムンクルス」と呼ばれる概念である。
人間の「視知覚」は対象の一面のみを捉え知的理解は事象の因果関係だけを汲み上げる。もし考察対象が物理的な立体であれば、そこには無数の視点と無数の理解の道筋があり、それだけで物的存在が人間の知覚理解の限界を超えるものであることが意味されている。つまり,立体は知覚で完結するものではなく,それが繰り返し解釈されることによって浮かび上がる認識のまとまりであり、いわば未知の総体としてアプリオリに前提されているのである。
「芸術の拡張」ー日常性の再構築。
「芸術」とは、繰り返し、繰り返し、繰り返すこと。
つまり、「芸術」の概念リテラシーはモーレスである。
「芸術」は原初的で自然発生的なモーレス(習律)である。そして、「芸術」は法律よりも信頼できる。これは、特定の世界観の下で、あらゆる利害関心を満足させる「正しい」方法であり、つねに「真」である。繰り返しによって身体化され、日常的配慮であり、非明示的で、強制力は弱い。「芸術」はその共同体における規範の暗黙知である。いわゆる社会的配慮の大部分は「芸術」に属する。
本来の法はこの「芸術」から生まれる。それは「芸術」の成文化である。明示的であるが、「芸術」と違い、形式的・抽象的である。法は一般的・抽象的な規範であり、個別的・具体的ケースに適用させるために解釈しなければならない。その習得にはアカデミーによる専門的・体系的な「学習」が不可欠だ。法がリテラシーとしての規範であるとすれば、「芸術」は概念リテラシーであるといえる。
人間は、本来、逸脱的存在である。しかし、さまざまな紐帯によって、失うものがあることで人々は結びついている。ところが、資本主義による欲望の拡大が個々人の利害対立を助長し、社会的紐帯を解いてしまう。経済のグローバル化や新自由主義の進展や過度の競争による従来の共同体秩序の解体がその事態を悪化させている。
それは「芸術」の希薄化もしくは弱体化であり、現代日本では「芸術」の再検討が何よりも不可欠だということを意味する。それは日常性の再構築である。「芸術」の活動はアカデミーの限られた論理空間やミュージアムで展開されるものでなく、現実社会のコモディティの中で表象される「humanities」(ヒューマニティーズ)なのである。
アカデミーは過去のデータや処理結果をふまえて「論理空間」を組み立て、そこで未来のデータ処理方法を決定するのであり、「過去」によって完全に規定されているのである。しかし、それはアカデミーの融通のきかなさは欠点ではなく、本質的な性質なのだ。ビッグデータ時代になって、膨大なデータを扱えるようになっても、むしろ「過去」のデータの比重が大きくなっただけで本質は変わらない。
一般的にアカデミーは再現性にもとづく静的な存在である。これに対して、「自己学習」とは、流れ行く時間のなかで状況に対処しつつ、「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考える存在なのである。
つまり、物事の「描写」においては、だいたいのことは「12色」もあれば表象できる。鉛筆一本でも表現は可能なのである。絵の具などなくとも、リンゴの「赤」は、こどもや高齢者、そして視覚障がい者であっても共有できる。それは、「知能」の問題ではなく「クオリア」の問題あり、「正義」という概念のその多義性は、「機械学習アルゴリズム」が理解し、判断することなどできないのである。そこを司るのは人間でしかないのだ。
人間の「自己学習アルゴリズム」とは、人間は世界についての知識を外部から獲得するのではなく、世界のイメージを『内部でみずから構成していく』ということになる。人間の認知活動とは、外部の客観世界のありさまを直接見出すことではない。大事なのは、試行錯誤をつうじて周囲状況に『適応』することなのである。ここで『適応』というのは、何らかの行動をした結果を自分の世界イメージにフィードバックすることなのである。
「知能」。ー
「芸術」が最初にやっつけないといけないのがこの言葉だ。
『知識社会においては、経済格差は知能の格差である』
この言葉を差別的な発言と受け取るか、現代社会の現実を合理的に説明している言葉として受け取るかは難しい命題だ。もちろん、「知能」が人間の社会的適応度と相関するのも事実である。しかし、知的能力と考えられるものを全て計測することは、無論不可能である。現代科学は、『〈わたし〉はどこにあるのか』すら、まったく何もわかっていない状態なのである。
「知能」とは知能検査で測られたものにすぎない
われわれは、「知能」の概念を理解しているのか。「知能」とは一体何なのか、という本質問題である。大人になっても知識やIQの高さを重要視する人もいるようだ。メンサ、トリプルナイン、プロメテウス、メガといったIQの高い人たちばかりの排他的な団体は世界中にある。メガは入会者の知能指数はスタンフォード・ビネ法で少なくとも171なくてはならず、メンサは132だという。しかし、会員になってなにかいいことがあるのだろうか?年に数回会合を開き、互いに挨拶して無駄話をしているだけである。これらの団体が世の中の役に立つことはまれである。
「知能」は発達を経ても変化しないものなのか、遺伝的な要因で決まっているのか、といった議論は長い間心理学の重要な関心事であった。その議論の際の発達的「変化」も遺伝的「決定」も、結局ある知能検査で測定され、数量化された「値」を問題にする。
その「値」は結局はどんなテストでも、処理の効率を示している。すなわち、ある一定の時間内にどの程度の課題をこなすことができるかという時間制限法による測定が、ある課題を遂行するのにどの程度時間を要するか、といった作業制限法による測定のいずれかで得られた「値」である。いかなる統計的手法を用いようと、もとになるデータがこうした類いのものであることは否定しようのない事実である。いいかえれば、処理効率の高さが知能の高さを示すものであり、「知能」はこうした、あらかじめ与えられた課題をいかに効率よく処理できるか、という観点から定義されたものとみなすことができる。「知能」とは知能テストで測られたものである、という定義はこのように読みかえることができ、そのあいまいな定義から心情的には否定しつつも、われわれの大部分が結局この定義に従って「知能」を考えている。
コンピュータの比喩を用いれば、中央演算機能(CPU)の能率の高さ、周辺機器の効率のよさをもって「高い知能」としているようなものである。
問題は、そのものがいわゆる再生的思考(すでに処遇した経験のある、あるいはそれにきわめてよく似た課題の思考)を要求しており、新たな問題場面に遭遇した際の生産的・創造的思考についてはほとんどふれていない。
オップリュスニング(oplysning)という概念。
「知能」とは、生物学的には新しい環境に対する適応可能性と、心理的機能の面からは知覚,記憶,思考などの知的な諸機能の複合としての側面がある。「知識」とは「記憶」を取り出す根源的能力のひとつにすぎず、「知能」は、しばしば幅広い概念も含めて捉えられるが、一般に、創造性、性格、知恵などとは分けて考えられている。
「知能」は単一ではなく、複数あるという、多重知能理論は「人間は誰しも複数の知能を持っている。長所やプロフィールが個人によって違うように、人によってある知能が強かったり、ある「知能」が弱かったりする」という考え方だ。しかし、「知能」をいくら細分化しても、脳の不思議には到達しない。
「知能」は一般的に知覚,記憶,思考などの知的な諸機能の複合した能力であるとされている。しかし、その「能力」という概念には「才能」という、神に選ばれた天性に恵まれた人、 生まれつきすでに 抜きんでた「能力」を持っているという要素が含まれる。オルタナティブな「芸術」のコンテクストにおいては、「能力」よりも「力能」という言葉を使う。言葉としては、「能力」の才能、「力能」の力量ということになるが、「芸術」における「力能」の概念は「パワー」(power)よりも、「オップリュスニング」(oplysning)に近い。つまり、「灯っている」「滲んでいる」という概念である。それぞれの人やモノが、自分の内にあかりを灯すこと。つまり、閃きのようなインスピレーション なのだ。 そして、「力能」とは、内側から滲み出るその灯りでたがいに照らし合い、影響を受け止め同一化することなのである。
重要なのは「具体」、つまり、そこで何が起こっているかだ。
私たちは網膜に映った「像」を見ているわけではない。視覚神経処理によって「世界」という『像』にしているのである。世界を変えるために、主観世界を分析するには「貧困」や「差別」の「内側」からの視点から周囲世界を観察しなくてはならないのだ。クオリアは脳細胞が我々に見せている「芸術」であり、「芸術」が重要なのは、重要であることがその機能だからである。「芸術」は、追い求めるに値する人生を持った自己を、人間のうちに作り出すように設計されているのだ。
時間および空間はアプリオリな概念である。「ポスト真実」の時代においては、重要なのは、我々が見ている世界が、ありのままの現実の世界であるかどうかではなく、見ている世界が同じかどうかだ。同じ世界を見ていればコミュニケーションが可能となり、人とコミュニケーションがとれるということは、少なくとも、同じ「世界観」を共有している。世界は3次元空間からなり、自分はその世界の地面に描かれたラインに沿って走っていると認識しているわけではない。このことは、その生物にとっての世界は、その生物がどのように処理しているかに依存しているのだ。だから、世界を3次元空間として処理して初めて、世界は3次元空間として立ち現れてくるのである。
「芸術」とは世界についての知識を外部から獲得するのではなく、世界のイメージを『内部でみずから構成していく』ということになる。人間の認知活動とは、外部の客観世界のありさまを直接見出すことではない。大事なのは、試行錯誤をつうじて周囲状況に『適応』することなのである。ここで『適応』というのは、何らかの行動をした結果を自分の世界イメージにフィードバックすることだ。 世界の変革は、外部の客観世界を正確に認知していくのではなく、環境世界に適応するように主観的な世界を内部構成していく過程に他ならない。それがベースであることは、現代人でも共通である。要するに、現実に地上に存在するのは、個々の人間の『主観世界』だけなのだ。まずは、「クオリア」に彩られた生命的な主観世界から出発しなくてはならないのである。 自分の概念構造にもとづいて行動してみて、うまくいけばそれでよし、失敗したら概念構造を変更するのである。ポイントは、所与の概念構造への一致は要求されない、という点だ。 つまり、「クオリアの問題」なのである。
過去(=記憶)を未来(=願望)に投企する時間制が存在しなければ問題解決は図れない。なぜならこの2つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである。