みんなの暮らしを守るために ── 株式会社 石川商店 社長 ・石川弘樹さん
ヒューマンインタビュー第14回は、株式会社 石川商店 社長・石川弘樹さん。
石川弘樹(いしかわ ひろき)
東京都品川区荏原の屋根屋、株式会社 石川商店の三代目。「みんなの屋根の相談所」をモットーに、災害予防をはじめとした屋根周りの相談全般、暮らしのお手伝い、地域のエンタメ、戸越銀座の応援などを幅広く手掛けている。
「みんなの屋根の相談所」を合言葉に、屋根の予防保全活動に積極的に取り組む石川さん。屋根に関わる啓蒙活動の一環として、戸越銀座で「かわら割道場東京支部」「ぶっこわし道場」や、戸越銀座商店街の公式応援隊ともいえる「よりみち、とごし。」の運営も手掛けておいでです。
多様性豊かな活動を通じて、多くの人々の暮らしを支える手伝いをする石川さん。その原点となる想いをうかがいました。
瓦と共に育って
「幼い頃から、瓦があるのが当たり前の環境だったんですよ。子供時代の僕にとっては、瓦はジャングルジム。瓦を登って、鬼ごっこするのが楽しかったですね。
でも子供の頃は、いわゆる『不思議ちゃん』だったんじゃないかな。鬼ごっこも楽しかったけれど、ひとりでずっと土いじりとかするのも、とても好きだったみたいです」
言葉を丁寧に選びながら話す石川さん。石川商店でのエネルギッシュな活動から受ける印象とは違って、とても穏やかで物静かな語り口です。
「家業には最初、そんなに興味はなかったんですよ。でも、中2か中3の時だったかな……とある日曜日に『浜松町までドライブ行かないか』って、父親から誘われたんです。仕事がてらトラックで行くというので、一緒に乗り込みました。
けれど、走っても走っても全然着かない。着いた場所を見て、びっくり。そこは『浜松町』じゃなくて、『浜松』だったんです。(笑)
父親は屋根材の積み下ろしをしていました。僕も手伝おうと思っても、重すぎて見てるだけしか出来ないんです。それが父親の仕事──〈屋根の仕事〉に触れた最初のきっかけとなりました」
それでも三人兄弟の末っ子である石川さんは、学生時代は家業を継ぐことは考えていなかったとのこと。屋根の仕事を継ごうと決めた契機はなんだったのでしょうか。
「大学を卒業してからは、アパレル系の会社に就職したんです。だから、屋根の仕事を継ごうとは全然考えていなかった。
けれど、24,5歳の頃だったかな……父が入院したことがあったんです。結果はたいしたことなかったんですが、このことをきっかけに家の仕事のことを考え始めました。というのも、入院を機に父と話をしたところ、自分の代でやめようと思っているって打ち明けられたからです。
それを聞いた時に真っ先に思ったのが『もったいない』。ずっとやってきたことなのに、そんなに簡単にやめちゃっていいのか、って自分に問い掛けました。
当時はまだ若かったんで、『なんとかなるんじゃないかな?』って想いが先に立ちました。それまでいたのが流行の最先端を走り続けて、ITやメディア運営にも強く、奇抜な試みも受け入れられる土壌のあったアパレル系。そこから見た建築業界は、いろいろなチャンスが潜んでいるように思えたんです。
だから、まずは試しにやってみようと飛び込みました。それが、家業を継いだきっかけです」
家業を継いだきっかけは、お祖父様、お父様が大事に育てられてきた想いを引き継ぎたいから。言葉の裏側に潜んだ石川さんの優しさが、そこにありました。
予防保全への道
家業を継いでからしばらくは、今のような仕事のやり方ではなかったと、石川さんは振り返ります。
「はじめのうちは、言われるがままに仕事をしていました。日々仕事をして、体力的にもきつかったけれど、基礎はそこで学んでいきました。そのうちに段々と技術も身についてきました。また業界のこともわかるようになってきて、今後どうしていくべきなのか、考えていくようになりました。
それまでのやり方っていうのは、大手住宅メーカーの下請けを主な仕事とするやり方でした。新築や改築の時に発注を受けて、現場に出向いて……というスタイルですね。当時はそれで売上も上がっていたし、このままやっていけばいいと考えていました。けれど、そんな時に大きな転機が訪れました」
大きな転機──。石川さんがそう振り返るのは、2011年に起きた東日本大震災です。
「東日本大震災では、住宅メーカーからの依頼を受けて復旧応援に駆けつけました。僕らが主に活動したのは、茨城県や栃木県など。覚悟を決めて向かいました。
現場に入って衝撃的だったのは、築10年以内の比較的新しい物件でも大きな被害が出ていたこと。それも調べると、原因は手抜き工事にあることが多いと分かり、愕然としました。人災による被害の方が大きいのではないか……とも感じましたね。怒りがこみ上げました。僕たちは真っ当に屋根の仕事に向き合っているのに、手抜き工事をした業者は、こんなに杜撰な工事で、お客様から大事なお金をいただくってことが、許せないと思いました。
屋根のことは、大抵のお客様がよくわかっていません。わからないから、業者の言うままに払ってしまうパターンも多くあります。それをいいことに、こんなに杜撰な工事で、大事なお金を巻き上げたであろう業者が、僕は許せなかったんです。
これをきっかけに、僕たちになにか出来ることはないか、考えるようになりました」
時は流れ、東日本大震災から2年。今度は消費税増税のあおりをうけて、増税前に駆け込みの工事受注が増えました。
「年度替わりの4月から消費税が上がることになっていたので、住宅メーカーを通じて3月末までの依頼が激増しました。直近10年以内では、いちばん売上が上昇した時期でした。
けれど、それだけやっても会社としては赤字になってしまったんです。どうにも納得がいきませんでした。『うちは真面目に一生懸命やっているのに、こんな赤字になってしまうなんて、どういうことなんだ』って憤然としました。
また、日々の仕事の中でお客様の顔が見えない、声が伝わってこないことも不満になっていました。どれだけやっても明確な成果につながっていかないビジネスモデルに疑問を感じるようになり、どうしても納得がいかなくなりました。
そして、いままでの企業を相手にしてきたBtoBから、直接お客様の表情が見えるBtoCに方向転換をはかりました。同時に、予防保全に舵を切りました」
仕事のやり方を土台から入れ替えて数年。予防保全を広める活動も、徐々に軌道に乗り始めました。そんな中、2018年に関東に上陸した台風19号のもたらした被害もまた、石川さんの心を痛めるものでした。
「台風19号のもたらした甚大な被害によって、お客様から多くご相談をいただきました。石川商店のある品川区近辺でも結構被害が出たんです。その工事をしながら、またあれこれと考えました。
被害が出たので直します、というやり方は、屋根屋にとっては楽かもしれません。けれど、それだとお客様のためにはならないんです。
僕が思い出したのが、屋根屋さん同士の後ろ向きな会話。『最近、新築どう?』『いやー、調子よくないね』『リフォームは?』『そっちもあんまりねえ』『ここらで、台風でも来てくれないかね』『ほんとだな』──そう言って笑い合ってる、そんな場面を思い出したんです。人の不幸を願うような会話をしていたんです。身震いするほど、イヤでした。そんなに心根が腐ってていいのか?って、憤りを覚えました。
だから、みんなに災害予防の重要性を訴えかけていこうって腹を括ったんです。予防して、できるかぎり被災させないようにしていきたい。その手伝いをしていきたい、って強く心に決めたんです」
石川さんの静かな語り口の奥には、強い決意がありました。
地域にエンタメを
石川商店の運営する「かわら割道場東京支部」は、これまで多くのマスメディアにも取り上げられてきました。そうした活動が、石川商店の知名度を上げるきっかけにもなりました。
今でこそ「石川商店=瓦割り」というイメージが出来上がっていますが、どのようなきっかけで瓦割りを始められたのでしょうか。
「そもそものきっかけは、戸越銀座商店街のイベントなんです。商店街の親戚がイベント企画の担当になったことで、『なにかいい案ない?』ってこっちにも飛んできたことがきっかけとなりました。
ちょうどその頃、これまでの仕事のやり方に疑問を抱いていたところで、お客様と顔が見えるように直で仕事したいって思い始めていたんです。なにかPRする方法はないかな?と考えていた時に、親戚からの依頼を受けて。そして、『エンタメ×屋根なら、瓦割りだな!』って考えつきました。瓦割りを通じて、屋根に興味を持つきっかけのひとつになってもらえたら……と願ったんです」
TVやラジオなど、瓦割りを通じてマスメディアへの露出が増えるようになった石川商店。そんな中で、屋根の仕事にも思わぬフィードバックがあったと石川さんは振り返ります。
「いつか、業界の重鎮とお会いした時に『石川商店のこと、ホントにキライだったんだよね』と言われました。
瓦割りをやり始めたことで、『瓦を大事にしていない』とお叱りの声をいただいていることも理解していたので、そういう意見もあるだろうなとは考えていました。また、TVやラジオに出ていることで『石川商店ってふざけているな』って思う方も少なくないってことは、理解していました。
けれど、その方は言葉を続けてくれたんです。『ちゃんとした理由があってやってるんだなって、見直した』って、言ってくださいました。
なんでも、いつも聞いているラジオの生放送で、かわら割道場が取り上げられたそうなんです。最初は、またアイツらかって思ってたみたいなんですけど、ラジオで僕が話していることを聞いているうちに、考えが変わったそうなんです。僕たちは予防保全の重要性を訴えていて、それを知ってもらう入り口として瓦割りをやっているんだってことを理解してくれたみたいです。とても嬉しかったですね。まあそれでも、半分くらいはまだ怒ってらしたみたいですが(苦笑)」
石川さんの始められた瓦割りの輪は、さらに広がります。高校時代の仲間であった川口民夫さんも、浅草で「瓦割りカワラナ」の運営を始められました。川口さんは現在、「合同会社ハハハ」代表として、シェアリングスペースの運営など、瓦割り以外にも様々な取り組みもなさっておいでです。
石川さんと川口さんの対談動画
「瓦割りカワラナ」とのこうした連携によって、新たなアイディアをひらめいたと石川さんは語ります。
「『瓦割りカワラナ』が浅草にあること、そしてエンタメ要素を前面に押し出していることで、石川商店にもいい影響がありました。外国人の方が瓦割りにいらしてくださるようになったんです。そして、地元の戸越銀座商店街を楽しんでくださるようにもなりました。
そうした背景があって、一昨年の冬に外国人の方を対象とした戸越銀座ツアーを企画したんです。その時に商店街に話を持ちかけてみたところ、僕たちの取り組みを応援してくれて、商店街公式という位置づけで、『よりみち、とごし。』という名前で活動していけることになりました」
戸越銀座ツアーの模様は、こちらの「よりみち、とごし。」の記事でご覧になっていただけます。
また、様々な動画発信や、地元に根ざした情報発信にも取り組んでいます。
「よりみち、とごし。」アンバサダーのクボタさんと走る、「給酔所」の旅
「かわら割道場東京支部」道場師範の潤さんの、「ソロ飯」の旅
品川区からも「わ!しながわ地域応援プロジェクト2021」の正式認定を受けました
「『よりみち、とごし。』では現在、様々な企画に取り組んでいます。最初は、コロナ下で活動ができなくなって落ち込んでいたけれど、落ち込んでばかりもいられないということで、出来ることをみんなで模索しています。地元のみなさんを巻き込んだ楽しい企画を、これからもやっていきたいですね。
瓦割りも『よりみち、とごし。』も、屋根の仕事とは関係ないように思われるかもしれないけれど、僕の中では繋がっているんです。『みんなの屋根の相談所』っていうのをスローガンに掲げているんですが、つまるところ困っているひとの役にたつ仕事をしたいんです。
瓦割りは、いわば商店街のエンタメ。そして『よりみち、とごし。』も、地元の役に立ちたいという願いから生まれました。両方とも、そのきっかけづくりになればいいって思っているんです」
石川さんは、すこし照れたような笑顔を浮かべました。
人とのめぐり合わせに感謝して
「僕はいま42歳なのですが、35〜36歳の頃に人生の転機となるようなことがありました。
その時は、自分でなんとかしようとがむしゃらにやってもうまくいかなくて、精神的にかなりしんどい時期でした。どん底にいきそうな時に、『あ、いまちょうど人生半分なんだな』って、ハッと気付いたんです。そして、自分のいろんなことを振り返って見た時に、どう考えてもダメ人間だぞって思ったんです。
その頃の僕は、効率さえ上げればいいと考えていて、かなりツンケンした人間だったと思います。でも、それじゃよくないって心底反省して……プライドとかいったん全部捨ててみようって思ったんです。
そうして、6〜7年経って……今では多少丸くなったとか、話せるようになったとか、言ってもらえるようになりました。あの時の気づきがなければって考えると、おそろしいですね」
石川さんは当時を思い出して、すこし目を潤ませました。
「僕は本当に、人に恵まれているなって思います。昔からいる林さんって社員の方には、いつもサポートしていただいてばかり。商店街のことでも、僕があれやこれやって言い始めると、周りのみんなが『また始まった』と笑いながら、手伝ってくれる。ありがたいことです。
自分の能力が思ったほどに至らないことが、コンプレックスだったんですよ。だから出来るフリをして、ツンケンして生きてきた。そうやって守らないと、自分が自分でなくなってしまうって思っていたんですね。でも、そういうのって誰も得しないじゃないですか。だから『やーめた!!』って、全部投げ出したんです。そうしたら、みんなが助けてくれるようになりました」
そうやって生き方を見直す中で、習慣も変わっていきました。
「自分の生き方を考え直している時期に、心屋仁之助さんの『性格は捨てられる』という本と出会ったんです。過去の自分の傷を認めて、偽りの自分を捨て、本来の自分に戻っていくことのメリットが説かれていました。その時の自分の心にフィットして、ぼろぼろと涙を流したことを覚えています。
その時は仕事の方向転換の時期で、8割方の仕事をやめていた時期。社内を見回してみると、ぐちゃぐちゃでした。恥ずかしさと、このままじゃダメだなっていう気持ちで、片づけを始めました。あと、料理とかは出来ないけれど、家族の役に立てるようになりたかったんです。
そうしているうちに、自分の生活習慣も変わっていきました。近藤麻理恵さんの〈片づけコンサルタント〉見習いの資格を取るようになるくらい、片づけにはこだわるようになりました。お酒も飲まなくなったし、毎朝4時台に起きるようにもなりました」
和やかな「よりみち、とごし。」編集部の打ち合わせ風景
「僕は本当に、運がいいんです。人とのめぐり合わせがすごくいいって感謝しています。気付くと、目の前にいい人がいらしてくださる──そんな確率が高いなって思います。昨年から集まっていただいた、石川商店のライターチームの皆さんも、『よりみち、とごし。』の皆さんも、素晴らしい方ばかり。いつも感謝しています。
これからも『みんなの屋根の相談所』として、困っている人たちの役に立てるようになりたいです。災害予防はチャレンジし続けるしかないけれど、訴え続けていくことで、少しでも認知を高めていけたらな……って願います。そして、屋根で困った人のためになること、地元の役に立つことであれば、これからも新しいことに取り組んでいきたいですね。
役に立つことであれば、どんなことでもやっていきたいです」
石川さんの瞳には、力強い光が宿りました。
人生の転機を迎えたことにより、生まれ持っての優しさと心の強さを、より自由に発揮できるようになった石川さん。きっとこれからも多くの方々の笑顔のために、新たな取り組みに向かわれることでしょう。
石川さんのますますのご活躍を、心よりお祈りしております!!