演じることについて(1)
ぼくは単純に映画やテレビドラマとの接触回数が多いばかりに、<演技>というものを機械的にそれらと結びつけ過ぎていた。考えてみれば当たり前なのだけれど、演技というものは何も映画やドラマに出演する役者の専売特許ではない。<演技>を、肉体を駆使したパフォーマンスアートという広い枠組みで捉えてみれば、演劇はもちろん、オペラやダンス、音楽、バレエ、大道芸、漫才など実に様々なものを含んでいる。
そんな当然のことを改めて気づかされたのは、先日の宝塚歌劇鑑賞がきっかけだった。
宝塚ファンからは怒られるかもしれないが、観劇中ぼくは思わず笑いをこぼしてしまうことが何度かあった。
ちなみに、ぼくが見ていたのはコメディ作品ではなかったし、また笑みを浮かべたときは、会場に笑いが起きるような場面ではなかった。むしろ、気持ちの高ぶりによって身体を震わせるように舞う役者の演技と、それに共振する観客の熱気とで、会場のボルテージが最高潮になろうとしている瞬間に、ぼくは不意に笑みをこぼしてしまったのだ。
今になって振り返ると、自分が思わず笑みをこぼしてしまった要因は、そこにあったと感じる。自己(ここでいう自己は、作品で演じる役名でも、普段の役者活動で使用している通名(ペンネーム的なもの)でもなく、自分の戸籍上の本名に付随するその人自身の性格や歴史)をかなぐり捨てるようにして、力強い眼つきや流麗とした声色と立ち振る舞い、そして豪奢な衣装やメイクで、舞台上に自分の肢体を捧げる役者たち。
つまり、ぼくの笑いは、これら大袈裟とも言えるほどの、溢れんばかりの役者の感情表現を受けてのことだった。誤解を恐れず言うのであれば、あのとき全てが過剰だった。
ぼくには、顔がちぎれるくらいの笑顔や、顔がしおれて枯れてしまいそうな悲しい顔はできないし、リズムに合わせて身体を揺らしながら誰かの名前を歌うようにして呼びかけたこともないし、そんな人を見かけたこともなかった。今まで自分が享受してきた他者からの感情表現を、圧倒的に超越する演技だったから、ぼくの脳はそれをうまく飲み込むことができず不意に笑みがこぼれてしまったのだと思う。(彼女ら役者の人たちは、「バイバイ」という何気ない台詞ひとつにしても表情や身振り手振り交えて全身全霊で「バイバイ」を表現する。普段ぼくらは「バイバイ」と言う事に本気を出すはずもなく、ぶっきらぼうにそれを言っている身にしたら、彼女らのはじけんばかりの感情表現に衝撃を受けるのは当然ともいえる)
だから、笑みの正体は、役者の感情表現がぼくの脳にオーバードーズされ、処理能力の限界を超えてしまったときに起こるコンピューターのバグみたいな反射運動だったのだと思う。