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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.Chopin、キュスティヌ侯爵の真意とソランジュへのショパンの真意と変わり身の早いサンド…2月革命

2021.07.20 22:00

ルイ・ブラン写真から

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キュスティヌ侯爵から熱心なファンレターとも取れるショパンの演奏に対する心からの感想を貰ったショパンだったが、

キュスティヌ侯爵は外交官でもあり、彼はパリのスパイとしてロシアへ渡り、彼はロシア側としてパリに帰ってショパンをロシアの音楽家として生きるように説得する役目を担っていた。そのショパンへの最後通告のキュスティヌ侯爵の書簡の意味は革命家ショパンには読み取れたはずであった。しかしながら、パリ情勢も刻一刻と急激に変化をしていた。ショパンは、ポーランドへは帰りたいが、ショパンはロシア寄りになりポーランドへ戻る決意は出来なかったのだ。ショパンがキュスティヌ侯爵から貰った書簡は残されているものに限れば3通で、最後通告を入れると4通だ、他にもあった可能性は不明だ。しかしながらショパンからキュスティヌ侯爵への返事は存在していない、ショパンはキュスティヌへ返事を書かなかったのか不明である。ショパンは筆まめの社交家だった性格を踏まえると返事を書いたが現存しないのかもしれないと解釈できる…。

そして、キュスティヌ侯爵のその後はロシアへは戻らずキュスティヌは1857年パリで亡くなっている…。

さて、1847年に話しを戻そう…、

それから、二週間が経ち、ショパンはギルリのソランジュに書簡を書いていた。

「あなたが母親になり、元気にしていることを知りました。私がどんなに嬉しいかを伝えたくて、すぐに手紙を書かずにはいられません。

(ソランジュの子供は2月28日に生まれた)

ご想像のとおり、あなたに小さな女の子が生まれたことは、私には共和国の誕生よりも嬉しいことです。あなたの苦しみが終わったことを神に感謝します。

新しい世界があなたのために始まります。お幸せに、そして自分を大切にしてください。

あなたの朗報が本当に私には必要でした。私は先週、神経痛のひどい発作のため、騒動の間(2月革命の暴動のこと)ベッドにいました。今、パリは静かです。恐怖の静けさです。誰もが秩序のために集まっています。誰もが国家警備隊に参加しています。店は開いているが客はいない。

外国人はパスポートを手にして、鉄道の損傷が修復されるのを待っている。

社交会も結成され始めています。しかし、私はパリで何が起こっているのかを伝えようとすると、書くことが止まらなくなってしまいます…。ご親切なお手紙、ありがとうございました。献身的に、ショパン」

ソランジュに女の子の赤ちゃんが生まれた知らせの書簡(現存なし)をショパンはパリで受け取った。ソランジュの話しが本当ならばソランジュの胎教が悪かったのではなかろか、無事に生まれても育つのであろうか、しかも、ショパンは実際に生まれた赤ん坊を見たわけでもなかった。

何もかも希望が持てないショパンはソランジュを信じたかった…。

そして、ショパンはソランジュにパリ情勢は書ききれない程のことが起きているとしながらも、

付け加えて書いた…

「これは嘘のような出来事です。マルクフィル(サンド一家の使用人兼家庭教師でサンドの情夫だったことがある男)がヴェルサイユ宮殿の総督!?」

マルクフィルは2月革命のどさくさでサンドの使用人兼情夫から、ヴェルサイユ宮殿の総督!?に成り上がったというのだ。

ショパンはあり得ないとソランジュに書いた。そして、

「あのルイ・ブランは、

労働委員会の会長としてルクセンブルグにいるはずだ。これは当然のことです。バルベス(共和党の活動家)はリュクサンブール宮殿の責任者になりました。

 追伸、書き損じや消した跡をお許しください。ロゼール嬢が書簡を書くと言っていまきす。」ショパンは2月革命の最中パリの

ドルレアンのアパルトマンにまだ居たのだ。そしてソランジュにパリの様子を書いてソランジュを救っていた。ショパンはソランジュに優しかった。ショパンはソランジュ以外に書簡を書く相手がいなかったのだろうか…。

サンドはノアンに逃れていたが、ルイ・ブランが臨時政府を立ち上げると、サンドは

パリに来て、公布文や臨時政府の声明文などを書いて 政治に積極的に参加していたのだ。

変わり身の早いサンドだった。

そして、それは、偶然だったのか、サンドがショパンに会いに来た最後のことであった…続く…。


ルイ・ブラン(1811年10月29日 - 1882年12月6日)社会主義者、政治家、ジャーナリスト、歴史家。

彼は社会主義者で共和党員であった。普通選挙権を支持する活動に参加し1848年の2月革命後、労働権を有効にするために国営作業所の創設した。彼は暴動が起きた5月15日の後、責任を問われ6月ロンドンへ亡命をしました。

ルイ・ブランのプロジェクトでは、労働省が設立され、国立銀行の設立、鉄道と鉱山が主要な工事に変わり、すべて、「革命はその成功に必要な力で準備ができている」と国によって保証された。しかし、彼の考えでは、協会(産業、農業、文学)なしでは長期的には何も実現できなかった。

このシステムは、「人々の解放」の利益のために個人を自己否定するものではなかった。それは人間に自由の最適な行使を可能にするために、自由主義の教義に反対する思想であった。彼は理論的なプロジェクトとして一般的な運営哲学として、産業、農業、文学の3つの経済の変革の最初の過程として産業を中心としました。この労働予算は「産業の最も重要な部門での国営作業所の設立に割り当てられました。

この国営作業所は1848年にリュクサンブール委員会によって開発され、具体的に実施されました。

しかし1848年4月の選挙で彼は落選し、 農民は2月革命後手に入れた土地を、社会主義派が提唱する平等によって再び失うことを恐れルイ・ブランを支持しなかった。臨時政府は国営作業場の廃止を余儀なくされた。プロリタリアート(労働者階級)が武装蜂起を起こし5月15日鎮圧され、ルイ・ブランはイギリスに亡命した。

彼の「各人がその才能に応じて生産し、その必要に応じて消費する」という言葉は共産主義者に影響を与えたとされている。パリ市内の地下鉄には現在も「ルイ・ブラン」駅という名前が残されている。