「禍福は糾える縄の如し」
毎日毎日「コロナ禍」と耳にねじ込まれます。
こんなに「禍」という言葉を乱用する時代は初めてではないでしょうか。
先日テレビで講談師 神田伯山さんの『徂徠豆腐(そらいどうふ)』を聴きました。
江戸時代の儒学者 荻生徂徠(おぎゅうそらい)が生活に困窮していたとき豆腐屋に受けた情けと、その後のお話。
火事で焼け出され無一文になった豆腐屋さんは、かつての行いのお陰で今度は自分が救われることになります。
「情けは人の為ならず」ですね。
親子で楽しめる講談「徂徠豆腐(そらいどうふ)」ー宝井琴調(16分59秒)
伯山さんは「禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし)」という言葉で締めくくっていました。
母が昔からよくこの言葉を口にします。
人生は福だけでも禍だけでもない、「抱き合わせよ。」と。
禍に見える今の中にも福があるかもしれないし、禍の後には福が待っているのかもしれません。
縄を綯う(なう)かたちは祈りに似ているといいます。
祈りを込めて綯った縄で船を結んだり、旅の草履にしたり、しめ縄にしたりしてきたのですね。
「清濁併せ吞む(せいだくあわせのむ)」という言葉もあります。
― 心が広く、善でも悪でも分け隔てなく受け入れる。度量の大きいことのたとえ。
海は清流も濁流も、緩やかな波も激しい波も区別することなく全て受け入れることから来ているそうです。
私は濁を呑むのがどうも苦手。
子どもの頃は、今思えば、清な気持ちが少し強過ぎた気がします。
今は自分の中が濁々なので、更なる濁までわざわざ呑みたくない。
大人になるとか、社会人としてとか、わかっちゃいるけれどなかなか難しいときもあるものです。
以前ある人が、
「どんなにきれいな水でも、1カケラのうんこが混じっていたら飲めない。」
なんて話をしていました。
「バニラとチョコのコンビのソフトクリームは好きでも、バニラとうんこのネジネジは食べられたものじゃない。」
とも。
大笑いしましたが、私も無理だなと思ってしまいました。
いくら度量を大きくといっても、併せ呑むにも種類と程度があるでしょ。
でも、本当に切羽詰まったら、こんな話はきれいごとかもしれません。
恵まれているんだよなとも思います。
自分の中の濁には相変わらず、苦しんだり認めることができたり行ったり来たり。
でもケアをしていると、クライアントさんの清濁は自然と受け入れているから不思議です。
禍も福も清も濁もあるから、人生豊かになるってもの。
闇を抱えつつも光を見つめて生きる、そんな姿勢が好きです。