① F.Chopin、母ユスティナから、フレデリックの帰りをワルシャワで待つ家族の愛情とは…人のために生きようとするショパンとは…
ワルシャワ聖十字架教会19世期画像から
ユスティナ・クジザノフスカ、スケッチ画から、イメージ
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ショパンはソランジュにサンドと偶然会ったことを伝え、サンドが自分とは真逆に優位に
パリ情勢を生き延びている様子を見て、ショパンは暗い気分になっていた。しかし、
パリは不気味な静けさの日々が続いていたが、ショパンの予想は的中し、サンドの情夫だったマルクフィルがヴェルサイユの総監を務めた?のはわずか3日だけあった、彼はヴェルサイユを去った。
ショパンはサンドと別れてからはソランジュにばかり書簡を書いていた。ショパンは他に書いたほうがいい大事な人がいるはずだ、
ショパンは命をすり減らしていた…ショパンは母ユスティナととても仲が良かった。
ショパンがソランジュに書いている同じ日に、ワルシャワで母ユスティナは息子フレデリックを想い書簡を書いていたのだ。
「私たちに手紙を書いてくれたことで、本当のカーニバルのような気分を私達におまえは与えてくれました。
おまえからの直接の数行は、私たちによく届く間接的なニュースよりもはるかに私たちの不安を和らげてくれます。パリで悪い病いが流行っている時はおまえのことが心配なのです。クーリエ紙はおまえがコンサートを行い、その後すぐに何処かへ出発すると報じました。
もちろん、私たちは不思議に思いました。
"どこへ?" ある人は「オランダへ」と言い、ある人は「ドイツへ」と言い、またある人は「ペテルブルグへ」と言っています。
おまえに会いたいと思っている私たちは、
ここワルシャワにおまえが来るのではないかと思っています。
家族は一斉に、おまえがどこに泊まるべきか議論を始めています。バルチンス家はアパートの部屋をおまえのために開放する気満々で、ルドヴィカも賛成しています。
皆まるで、子供のシャボン玉遊びのようにおまえの帰りを喜んで待っています。」
これを読んだショパンは胸が詰まる想いであったであろう、母はフレデリックがパリでいい状況でないことはロゼールから聞いていたであろう、フレデリックがワルシャワに帰って来れるように書くユスティナ…
「それで、おまえはコンサートを開いた。
おまえの真の友人(ウィトウィッキ)はもう生きていないので、私たちはおまえの演奏のことをあまり聞けなくなってしまいました。
前回(1842年)の演奏では、彼は(ウィトウィッキ)細部に至るまで正確な説明をしてくれたので、
私はすべてを見て聴いているような気分になれました。その時は、彼は私に次のように書いてくれました。
この言葉はまさに彼(ウィトウィッキ)の言葉なのです。『奥様、彼に神に感謝するよう伝えてください。みんなが彼を愛しているのですから。』 神の神聖な保護がなければ、最高の才能も何の意味もないというのは、まさに神聖な真実です。
主に希望を託し、謙虚な信頼をもって、すべてをおまえは感謝しなさい。
そうすれば、どんな困難な状況にあっても、あなたを神は支えてくださいます。
今日はあなたの名前の日です。神の祝福を
この人生と来るべき人生において、あなたに神の祝福がありますように。
あなたの愛しい母より 」
フレデリックの名前の日が3月5日だったのだ、ポーランドに伝わる名前の日とは、ポーランド語で聖名祝日 (Imieniny)キリスト教における聖人の記憶日のことで、1年365日に聖人の名前が付けてあり自分と同じ名前の聖人の日をお祝いする風習のことだ。ショパンは、その大事な日にソランジュの子供が生まれたお祝いとサンドのことなど書いていたのだ、ショパン、自分のことをさて置き人のために生きる性質を父ニコラスはいつも心配していた。このユスティナからの愛情深い書簡の返事をショパンが書いたかは不明だが、おそらくフレデリックは書いたであろう…(現存しない)。
ショパンは、自分の欲のためだけでなく、
自分を守護聖人と言って自分を頼って手紙を書いて来るソランジュを信じてあげて、
返事を書き続けたショパン。このフレデリックの生き方をフレデリックの守護聖人は見ていたであろう。自分の才能だけの欲のためだけではない生き方をしたショパン。ショパンは作品が書けなくなっていた。けれどもショパンの生き様は尊く誰も真似が出来ないのだ、人のためにショパンが生きていることを亡くなった親友ウィトウィッキは知っていたからこそショパンは皆から愛されているだから、命を大事にするようにとユスティナを通して亡くなっている親友ウィトウィッキがショパンに伝えに来たのだ。
そして、母ユスティナはワルシャワの聖十字架教会へフレデリックのために祈りに行ったかもしれなかった…。