内なる自然と外なる自然の共響
Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「内なる自然と外なる自然の共響(きょうめい)」
医者から肺がんであと3ヶ月の命と宣告された今田求仁生さんは八幡平の奥のブナの原生林に入りました。(今田求仁生「愚者の智恵」柏樹社)
どうせ死ぬんだからといって着ていたものを全部脱ぎ捨て素っ裸になって夏から秋にかけて四十日間森の中で木になる気功をしました。
ある日樹木に成りきって立っていると体中が「シャワーン」という感じがして痛みがスーッと消えました。そのまま気功を続けると末期の肺癌が自然退縮したのです。
長年悩んでいた症状が消えるとき患部で不思議な音を聞く人がいます。
このシャワーンという音は内なる自然と外なる自然が共響して流れた命の音なのです。
滞った気が通ると苦しんでいた症状は消えてしまいます。
当然それは耳に聞こえる物理的な音ではなく体が感じる音なのです。
樹医の山野さんは、何かが起きたときは肌身離さず持ち歩いている木の葉や木の枝にお願いして治してもらっているそうです。
自然界は一種類の生き物だけが繁殖しないように木を枯らす昆虫が増えると天敵が現れてバランスを保っています。
たくさんのいのちが生きている森が健康な森です。
障害のある人も働けない人も病人も老人も子供も若者も元気な人も多様な人が助け合って生きている社会が健康な社会なのです。
http://blog.livedoor.jp/cremony/archives/1010494476.html 【『内なる自然と外なる自然』】より
「自然との共生というと、昨今では商品の宣伝コピーみたいなキレイごとばかりが幅を利かせているが、本来のそれは生き死にのかかった厳しいものだった」
自然災害は、自然界より発せられる力、人間がつくり出した技術、 そして社会や文化の
複雑な関係性の中で発生するもの。野本寛一氏「自然災害と民俗」の指摘に同感です。
便利さと安全性だけをひたすら追求してきた、私たちの生きる現代社会。
その結果、急速に自然から切り離され、震災でも起きない限りその素顔に思いを馳せることがなくなりました。
その一方で、生活における「生」の実感が確実に希薄になっています。
父が生死の境となる大きな手術を経験したことで、私は「死」を真近に感じるようになりました。
今、「生」があることの有難さをつくづく思います。
腎臓の「人工透析」を受けている方は現在、日本で30万人。
口ではなくチューブで胃から栄養をとる、「胃ろう(経管栄養)」40万人。
そして、人工呼吸器 の使用者3万人。
「延命治療」の発達で、重い病気や障害があっても生きられる命が増えています。
その一方、「延命治療」は必ずしも患者の「生」を豊かなものにしていないのではないか
という疑問や葛藤が、患者や家族・医師たちの間に広がりつつあると聞きます。
「延命」とは何か?
「生きる」こととは何か?
その葛藤を見つめ、 医療の進歩が投げかけるこの深い問いに向き合おうとする現場の家族や医師たちがいます。
そうした大きな問いかけを考える際、生と死の秘密を持つ自然と人との関係を思います。
昔の人は、ウミガメ伝説の中に津波で失った最愛の人への未練を断ち切り、改めて生きる決意を込めていたといいます。
ジュゴン伝説の中には、潮が引いた海岸に魚や貝を獲りに行ったせいで、多くの人が大津波に呑まれたという話を、野本氏の書では警句的に織り交ぜています。
他にも河川の氾濫や山地の崩壊に対処するため、居住区域を工夫するなど、父祖たちは生活自体が自然と根っこの部分で結びつき、個々の地域社会の持つ特性に配慮しながら暮らしていたことを教えてくれます。
自然が豊かな半面、その脅威に対して常に怯え、備えてきた日本人の精神遍歴。
「生」と「死」を司る自然の法則は、人智を遥かに超えたものでありながら、科学技術の発展により自然を制御し、逆にこれを操作しようとする方向に進んできました。
私たち人間を生かしている身体の内なる自然と、これを取り巻く社会の外なる自然との関係。
限りあることで、その「生」はいっそう輝くものだと感じられます。
かつて日本人が大事にしてきた諸行無常の精神。
いろは歌は高野山真言宗の宗歌。
仏教の根本の教えである無常観を歌ったものと言われています。
”色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず”
香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。
この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。
この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、 現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。
この世に存在するすべてのものは、同じ状態を保つことなく移り変わるもの。
永久不変なものなどないということへの自覚が、問われているように思います。