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粋なカエサル

「いざ吉原へ」2 道筋(2)日本堤~衣紋坂

2021.07.23 00:26

 山谷堀に軒を連ねた船宿は、「中宿」、すなわち吉原との中継地の役割も担っていた。第一の役割は着替えの場。常連の商家の客などが、地味な木綿の着物を、預けておいた派手な絹の着物に着替えることがあった。僧侶の場合は、ここで墨染めの衣から羽織姿に着替えた(変装した)。僧侶が女犯(にょぼん)の罪を犯すと寺持ち僧は遠島、所化(しょけ)僧(寺で修行中の僧)は三日晒の上、本寺(ほんじ)引渡となる。そのため、頭を丸めている僧侶は、同じく剃髪しているものが多い医者を装ったのである。

   「中宿へ出家はいると医者が出る」

また、船宿では、客と馴染みの遊女との取次ぎも行った。他の客との接客中ではないのか、いつ頃行けばよいかなど遊女の都合を聞き、時を見計らって船宿を出る手はずを整えたのである。そして、日が暮れると、船宿の女将や若い者が提灯をさげ、客を吉原の妓楼まで送っていくこともした。

 日本堤は、もともとは隅田川の出水を防ぐための堤防で、千束村に吉原ができてから吉原通いの道となった。浅草聖天(しょうでん)町と三ノ輪を結ぶ一本道で、吉原はそのほぼ真ん中に位置(入口は大門のみ)しているため、江戸のどこから来るにしても、最後はこの日本堤を通らなければならない。堤の周囲には田圃が広がり、木立越しに妓楼の屋根が見下ろせた。吉原への往復のほかにはあまり用のない道だけに、知り合いとすれ違っても知らん顔をするのが礼儀だった。

   「恋の重荷が飛んで行く土手の駕籠」

特に、待乳山聖天社の下から吉原入口までの道のりを「土手八丁」といった。距離がほぼ八丁(約870メートル)だったことに由来する。

   「日本を八丁行くと仙女界」

   「八丁も一里ほど有る恋の闇」

 吉原の行き帰りの男たちをあてこみ、土手八丁には葦簀(よしず)張りの水茶屋や屋台店が多数並んでいた。

「すけん地廻り群集なし、やきもろこしに焼き団子、枝まめ、西瓜、あめおこし、土手につらなる野台みせ」(『通気酔語伝』天明九年)

「すけん(素見)」とは、品物や遊女を見るだけで買わないこと。また、その人。ひやかし(素見し)。

   「土手のだんご屋はすけんをこゝろまち」

   「吉原のじゃまは西瓜を買てくい」

 また、日本堤あたりの名産が「浅草紙」。山谷堀の水路を利用して古紙を集めて漉(す)き直して作る再生紙で、トイレットペーパーや鼻紙として使われる日常生活の必需品だった。紙漉き職人たちは制作の過程で、材料を水にさらして冷やかす工程を山谷堀の水路を利用して行い、その間ひまになるので吉原へ行って遊女たちを物色して時間を潰したという。遊ぶ気がないことは店側でもわかっているので、「冷やかしの客」としてあしらわれたことが、現在でも使われる「冷やかし」の語源と考えられている。

 やがて見えてくるのが、遊郭・吉原が間近であることを知らせる「見返り柳」。帰宅する遊客がここで名残惜しそうに遊郭内を振り返ったことがその名の由来だ。京都、島原遊郭の「出口の柳」を模して飢えられた。

   「もてたやつばかり見返る柳なり」

 日本堤は土手道で周囲よりたかくなっているため、吉原に向かうには坂を下っていかねばならない。この坂が「衣紋(えもん)坂」。これから遊郭内に入る遊客が衣紋(着物の胸元の衿【えり】のこと )を直したことからそう呼ばれた。坂というほどのものではなかったが。

   「坂ならば坂にしておけ衣紋坂」

紹真「江戸一目図屏風」部分 吉原と日本堤

『江戸切絵図』「今戸箕輪浅草絵図」 部分 真ん中の正方形の場所が吉原

国芳「東都名所 新吉原」 夜の日本堤

広重「東都名所 新吉原」  吉原から見た日本堤

芳虎「東都名所八景之内 吉原日本堤夜雨」

広重「江戸名所 新吉原日本堤見帰柳」

広重「京都名所之内 嶋原出口之柳」

広重「東都名所 新吉原日本堤衣紋坂曙」

広重「江戸高名会亭尽 新吉原衣紋坂日本堤」