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筒井氏同族研究会

徳島筒井・森氏系譜/伝香寺住職と森氏

2024.03.28 22:00

文責: 筒井氏同族研究会会長/全国筒井氏同族会副会長 筒井 透


 伝香寺家元となった森家、その後の当主を紹介いたします。

祖父の代より以前は徳島県板野郡川端村(2024年3月現在の徳島県板野郡板野町川端)です。


 『和州諸将軍伝 巻五』 に徳島に渡った経緯が記載されています。


「 同夏(天正七年)五月朔日、蜂須賀彦右衛門尉源正勝に信長公より阿波の國を賜へり、此れ秀吉の推挙に依ってなり、正勝初めの名は小六、父は蔵人正利、尾州海東郡が蜂須賀の里にして百貫の領主として斯波氏の末なり、

順慶元より正勝に好しみ故に森志州が長子九兵衛尉好高を遣り、呈物並びに賀を伸べしむ、正勝克く遇しらひ子息小六家政を出して饗応し盃を與へり、後に九兵衛好高が長子森主膳好顕、家政の長子阿波守至鎮に仕へて千石を領せり、」

「 同月(天正九年正月)二十九日森志摩守源好之生年六十三にして筒井の城二の郭にして死す、順昭の妹婿、殊に三臣の一にして智謀勇士万夫に敵す、順慶、定次大いに憂いて傳香寺に於て厚く追悼す、照珍和上執り行ふ、中陰過ぎてのち長子九兵衛好高を縫殿ノ助に改め好之が遺跡を相続がしむ、飯田三郎次郎、縫殿助、僧照珍共に従兄弟なり、」


 森家は大津と名乗り徳島藩中老を勤めた。

伝香寺の位牌の裏には縫殿助、大津主膳と書かれている。


 『徳島藩士譜 上巻』

第一刷 昭和四十七年一月五日発行

第二刷 平成元年十月三十一日発行

編者  宮本武史

発行  徳島藩士譜刊行会

によると、その後の当主は次の通りである。


初代

 大津主膳 好顕

  初名  平右衛門

  元和九亥年 召出

  髙千石

  淡州由良城代

  慶安四卯年六月二日歿

二代

 大津主膳 貞顕

  初名  弥兵衛

  正保四亥年二月 相続

  髙千石 中老職

  淡本執事職

  寛文九酉年八月廿八日歿

三代

 大津三太左衛門 重次

  幼名  小八郎

  寛文三卯年 召出

  寛文九酉年十二月廿三日 相続

  召出髙三百石

  髙千石

  淡本執事職 士組頭

  元禄十二卯年九月廿九日歿

四代

 大津 仲 好昌

  幼名  重太郎

  又、男也 貞長

  元禄十二卯年十一月廿三日 相続

  髙千石

  江戸在番

  宝永七寅年三月十二日於江戸歿

五代

 大津典膳 重忠

  幼名  次郎兵衛

  宝永七寅年六月三日 相続

  (実 三太左衛門重次二男)

  髙千石

  裁許奉行 御近習役 士組頭

  享保十六亥年三月廿三日歿

六代

 大津典膳 貞義 

  幼名  杢助 隠居号 観山

  享保十四酉年十二月十五日 相続

  髙千石

  役不詳

  明和八卯年十一月十七日歿

七代

 大津縫殿助 好長

  初名   猪之助 男也

  明和四亥年三月八日 相続

  髙千石

  士組頭 若年寄役

  天明二寅年八月八日歿

八代

 大津治部 好忠

  天明二寅年十月三日 相続

  (実 賀島出雲政孝弟)

  髙千石

  御近習役 士組頭

  天明七未年九月六日歿

九代

 大津力蔵 好証

  天明七未年十一月廿三日 相続

  髙千石

  士組頭

  文化七午年七月十四日歿

十代

 大津典膳 好篤

  幼名  猪之助

  文化七午年九月十三日 相続

  髙五百石

  中老 宗門改奉行

  安政二年六月晦日於江戸歿

十一代

 大津伊之助 好郷

  安政四年分限帖に寄合組

  五百石八升八合 役十三人半 大津伊之助

  文久三年亥年 親衛隊長として京都守衛に行く(蜂須賀記)


 なお、徳島大学附属図書館所蔵蜂須賀家文書『蜂須賀家家臣団成立書並系図』が底本となっており、次回は姻戚関係と系図の調査を行ないたいと考えている。

 例えば、京都に在住した儒学者で初代郷合田家の室は順慶の娘と伝えると言われている。

 また、初代篠山家の室は大津主膳の女と記載されており、筒井家滅亡後一族及び家臣多数が四国に渡ったと考えられる。



伝香寺住職と森家