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2021.07.24 07:00

前回の記事に載せた写真について、ご質問をいただきましたのでお答えいたします。

こちらのフィルムカメラで撮りました。KONICA C35 EFです。

カメラ用語も撮影方法もよく分からないままカシャカシャ撮っています。現像から返ってくる度に失敗率の高さに驚くけれど、それもまた楽しい。

ペットボトル飲料を飲むとき、内容量をチェックするのが習慣になっている。かつては500mlが主流だった(1リットルや2リットル、350mlは除く)と記憶しているんだけど、最近は555mlだったり525mlだったり600mlだったりと、レパートリーが豊富で面白い。内容量も含め、ラベルをじっくり読むのが癖。どの土地の工場で造られたのか、どんな材料が入っているのか、どのくらいカロリーがあるのか……。お茶の原材料には大体ビタミンCが入っているから不思議だ。何故入れるんだろう。

こういった日常における些細な疑問をその場で検索すれば一時的にでも知識が増えるかもしれないのに、私は調べずにぼんやり考えるだけで終わることが多い。ところが博識な人との会話の最中にwhatやらwhyやらが浮上すると、彼らは必ずと言って良いほどスマホでススッと解決する。これがスマートの正しい形なのだなと思いつつ、私が本当に求めていたのは解答ではないことに気がつく。ペットボトルのサイズがバラバラなことやお茶にビタミンCが加えられることについて、疑問は抱けど、強烈な解決欲に駆られているわけではないのだ。では何を求めているのかというと、想像及び共有、に尽きる。一人でぼんやり考えるときは「(ペットボトルのサイズについては)原価上昇に伴う値上げを悟られにくくするためなのかな(容量・料金共にアップ。ただし1mlあたりの料金は以前よりも高くなった?)」とか「(お茶のビタミンCについては)健康のためかな」とか。誰かと話すときは「どうしてだろうね」から始まり、想像を共有し合う。それで満足してしまう。

そんな派閥があるのかは定かではないが、私はオチのない話をだらだらと繰り広げてしまう派。広げたものは収束せず、いつの間にか霧散していく。もしくは全く別の話題へと切り替わる(切り替える。「あ、そういえば……」から始まる)。

解決欲の強さは知的好奇心の強さに比例するんだろう。

これでも知識を欲する気持ちはあるつもりなんだけど、どうしても感覚的に生きてしまう。これは文系理系右脳左脳映像派言語派みたいな話になってくるのだろうか。

というようなことを、日々思いながら過ごしている。そしてどこにも着地しないまま、終わる。