『法の精神』
Charles-Louis de Montesquieuシャルル-ルイ・ド・モンテスキュー(1689年〜1755年)は、『法の精神』(1748年)でしばしば日本について言及しているが、重大な事実誤認に基づく日本を例証として挙げて、自説を補強している。
日本に関する記述の中で、明らかに誤っている例を三つ挙げよう。
「眼を日本に向けてみよう。そこでは、ほとんどすべての罪は死をもって罰せられる。なぜなら、日本の皇帝ほど偉大な皇帝に服従しないことは、大変な罪であるから。罪人を矯正することではなく、君公の報復をすることが問題なのである。こうした観念は隷属状態から導き出されたものであり、特に、皇帝があらゆる財産の所有者であるため、ほとんどすべての罪が直接皇帝の利益に反することになるということから生じてくる。」(『法の精神 上』(岩波文庫)180頁・181頁)
「日本では、専制政治は努力したが、専制政治そのものより残酷になった。
いたるところでおびえさせられ、いっそう残虐にさせられた魂は、より大きな残虐さによってでなければ導かれえなくなった。
これが日本の法律の起源であり、その精神である。」(前掲書182頁)
「数多くの事柄が人間を支配している。風土、宗教、法律、統治の格律、過去の事物の例、習俗、生活様式。こうしたものから、その結果である一般精神が形成されるのである。
各国民の中で、これらの原因の一つがより大きな力をもって作用するにつれて、他の原因はそれだけその一つの原因に譲歩する。自然と風土はほとんどそれだけで未開人を支配している。生活様式は中国人を拘束している。法律は日本で暴威を振っている。」(『法の精神 中』(岩波文庫)158頁)
一体全体どこの国のことを言っているんだ?あまりにも酷すぎる!博覧強記なモンテスキューだからこそ、日本に関する資料を幅広く収集し、じっくり考察してから言及してほしかったと思うのは、私だけではあるまい。
さて、モンテスキューは、『法の精神』第11編第6章「イギリスの国制について」において、次のように述べている。
「各国家には三種の権力、つまり、立法権力(la puissance législative)、万民法に属する事項の執行権力および公民法に属する執行権力がある。
第一の権力によって、君公または役人は一時的もしくは永続的に法律を定め、また、すでに作られている法律を修正もしくは廃止する。第二の権力によって、彼は講和または戦争をし、外交使節を派遣または接受し、安全を確立し、侵略を予防する。第三の権力によって、彼は犯罪を罰し、あるいは、諸個人間の紛争を裁く。この最後の権力を人は裁判権力(la puissance de juger)と呼び、他の執行権力を単に国家の執行権力(la puissance exécutrice)と呼ぶであろう。
公民における政治的自由とは、各人が自己の安全についてもつ確信から生ずる精神の静穏である。そして、この自由を得るためには、公民が他の公民を恐れることのありえないような政体にしなければならない。
同一の人間あるいは同一の役職者団体において立法権力と執行権力とが結合されるとき、自由は全く存在しない。なぜなら、同一の君主または同一の元老院が暴君的な法律を作り、暴君的にそれを執行する恐れがありうるからである。
裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はやはり存在しない。もしこの権力が立法権力と結合されれば、公民の生命と自由に関する権力は恣意的となろう。なぜなら、裁判役が立法者となるからである。もしこの権力が執行権力と結合されれば、裁判役は圧政者の力をもちうるであろう。
もしも同一の人間、または、貴族もしくは人民の有力者の同一の団体が、これら三つの権力、すなわち、法律を作る権力、公的な決定を執行する権力、犯罪や個人間の紛争を裁判する権力を行使するならば、すべては失われるであろう。」(『法の精神 上』(岩波文庫)291頁・292頁)
あまりにも有名な文章なので、法学部の学生ならずとも、誰しも一度は目にしたことがあるのではなかろうか。
ちなみに、「裁判官は、法律の言葉を語る口」・「裁判官は、法を語る口」という有名な一節も、同編同章に出てくる(前掲書302頁は、la bouche qui prononce les paroles de la loiを「法律の言葉を発する口」と訳している。)。
ジョン・ロックが立法権力と執行権力を区別したのに対して、モンテスキューは、執行権力から裁判権力を区別した点にオリジナリティーがある。
ただ、モンテスキューの『法の精神』の主眼は、共和政体・君主政体・専制政体の三政体を比較し、これら三つの混合政体が良いと主張する点にあり、学校で習ったモンテスキューの『法の精神』=三権分立制という図式は、成り立たない。同時代人は、モンテスキューを権力分立論者とは理解しなかったし、身分制度を前提としたモンテスキューの混合政体論と現代の権力分立論とは大きく異なるからだ。
上村剛『権力分立論の誕生』(岩波書店、令和3年)によれば、モンテスキューを権力分立論の先駆と見なす解釈は、建国期のアメリカで抑制均衡論と結びついた結果だそうだ。
このような小難しいマニアックな話はともかくとして、学生時代に、私が初めてこの文章を読んだとき、「性悪説に立脚したモンテスキューの主張は、西洋には当てはまるかも知れない。しかし、日本では、古代から江戸時代まで、モンテスキュー流の三権分立論が採られていなかったけれども、自由が存在していたことは明らかだから、モンテスキューの主張は、決して普遍的な真理ではない。」と思った。
権力分立論は傾聴に値すると考えているが、今でも、この感想は、基本的に変わっていない。
お若い方々には、モンテスキュー流の三権分立論が採られていなかった日本で、なぜ自由が保障され、独自の文明文化が発展したのかについて、考えていただきたい。そこに日本再生のヒントがあると思うからだ。